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理系の友人との会話から得た微かな光。

持つべきものは友だなと思った。

公務員試験に向けSPIの問題集を解いているのだが、数的理解という数学っぽい数字を扱う分野が全くダメで、泣きたくなるくらいだった。

自分で問題を解きながら答えを読んでも全く意味がわからず、勉強が楽しくないの典型の何がなんだかわからない状態に陥っていた。

数学から逃げるように文系の道を進んだ私は、軽い数学アレルギーのような症状になっていたのかもしれない。そんなアレルギーがあるのかはわからないが、とりあえず数学=わからないものという自分なりの方程式を作り上げていた。数学が嫌いではあるが、簡単な方程式は作り上げられるとは皮肉な話である。

一人で解いていてもにっちもさっちもいかないと、半ば試験を諦める気持ちでいたのだが、色々な人に頑張りが足りないと言われた。そんな意見に納得し、やれるだけのことはやって落ちたらそれまでとい思い直した。そして、悪あがきの手段の一つとして選んだのが、理系の友人に教えてもらうという方法であった。

理系脳はすごい

そして、本当に昨日ダメもとでお願いして、理系の友人に問題の解き方を教えてもらった。

教えてもらっていく内に文系である自分と理系である友人との違いが顕著になった。

まず、わたしの問題を解く時のメモが乱雑で、友人のメモは綺麗だという違いを見つけた。メモの乱雑さは理系、文系の違いとは無関係かもしれないが、友人は綺麗なメモを取っていた。そして、「その求めた数字は他の問いでも使うかもしれないから、わかるようにしとくんや」と言われたことは印象的である。

私の場合は、一問解いたらその問題で全てが終わりのように考えてしまっていた。そうではなくて、もし大問1に小問1,2と続けば、小問1で利用した数字を使い回せるやろということである。考えてみれば、当たり前の話であるのだが、昨日の私には目から鱗が落ちてたまらなかった。思えば、人生も同じで昨日の経験を生かして今日という日を生きていくものだ。全く新しい1日ではなく、昨日やその遥か前からの過去を背負いながら生きているのである。まっさらにするにはあまりにももったいないだろう、とそんなことまで教わった。

さらに友人は「問題を出す側がいるんやから、簡単に求められそうな選択肢を問題の答えに用意されてるから、そんなものに騙されないように自分の解くべきことを解くんや」みたいなことも言っていた。

これも人生と同じではないかと思った。色々な条件や環境を見つめると、自分の立ち位置が不安定になってしまう。しかし、周りを気にするのではなくて、自分のやるべきことを、解くべきことをやっていれば答えがわかってくるのである。何も数学に限った話ではないのである。私は乱雑なメモに表れているように、頭のなかで何を求めたいのか、何をしたいのかが曖昧で、ビジョンがはっきり描けていない人間なのだなと思った。理系はそんなことまであぶり出してしまうのか、すごい。

と他にも色々な教えを友人からいただいたのだが、主に心に残っているのは、「導いた数字は後で役立つ」と「自分が求めたいものは何なのかを明確にする」ということである。この二つを意識するだけで、何か掴めた気がする。

そして、今日も問題を解いているわけだが、1日で全問正解というわけにはいかず、わからない問題だらけなのは変わらない。しかし、答えを見なくても、答えがわかるという感覚がわかった。これは収穫である。つまり、求めるものを明確にし、数値を求めていけば答えにたどり着けるのである。人生よりも簡単ではないか、自分なりの答えを探す大変なものよりも、答えが用意されている問題だもの。

という風に問題を解けない現実逃避にnoteに書き付けているのではあるが、昨日友人にあっていなければ今日は問題集にあたっていなかったはずである。自分一人では全く自分を操作しきれない。そんなときに救いの手を差しのべるというか、ヒントをくれるのが人とのつながりであると再認識した。

持つべきものは友、そして人間関係だなとしみじみ思った。

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