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8月6日の朝に

1945年 8月6日 午前8時15分
広島に原爆が投下されました。

原爆の日に寄せて、亡き父が自費出版した自分史(2002年刊)の中から、一部を紹介させていただきます。

原爆投下後の惨状を描写した生々しい表現が含まれておりますので、
その点をご了承の上、苦手な方は回避してください。

(尚、固有名詞などは伏字にしています。※はわたしが加筆した部分です) 


※文字数2000字弱


  「裕ちゃん」

 広島市を東西に貫通する平和大通りの東端、近代的な鶴見橋を渡ると、路面電車の比治山線が南北に走る。電車道の背後は、なだらかな比治山の緑である。電車軌道の東側の歩道、街路樹の下あたりに、かつて防空壕があった。「あの日」原爆で瀕死の大火傷を負った裕ちゃんはそこにいた。
 裕ちゃんは、二軒隣りに住んでいた友達である。〇〇裕と言い、一歳年下で、私立✖️✖️中学の一年生だった。旧満州(現中国東北部)の黒龍江省に住んでいたのたのだが、父親が現地召集されたため、母親の実家である✖️✖️町の祖父の家に引き揚げて来た。年の頃も近く、お互い近所に友達が少なかったこともあって、すぐ仲良くなった。私の方が年上で、地域の事情に詳しいことから、私が兄貴分という関係だった。
 当時、市内の旧制中学、女学校は、三年生以上は軍需工場などに通年動員されており、学校にいたのは一、ニ年生だけ。それもほぼ一日交代で、B29の焼夷弾攻撃による延焼防止のため、建物疎開作業などに駆り出されていた。あの日・八月六日、私は学校をサボっていて(※郊外の親戚宅に食糧調達に行っていたため)被爆を免れ、裕ちゃんは爆心地から約1.2㌔の雑魚場町で被爆した。
 裕ちゃんが、比治山下の防空壕にいる、と聞いたのは八日午後だった。肉親捜しをしていた人が、「✖️✖️町の✖️✖️中一年生の〇〇君から、親に連絡を頼まれた。裕福の裕でヒロシと言う名だった」と知らせてくれた。だが肝心のおかあさんは、裕君を捜しに市内の救護所回りに出掛けており、連絡がとれない。急遽、私が捜しに行くことになった。
 鶴見橋の東詰め、山側の外科病院の前と聞いていたので、すぐわかった。歩道の一部を浅く掘った半地下式で、両脇に数人が座れる程度の小さな防空壕だった。中には四、五人の人がマグロのように横たわり、外の二人は、頭と顔が海ぼうずのように腫れていた。入り口近くのひとりは中学生らしく、頭の下半分がひどい火傷で赤身がのぞき、帽子を被っていた上半分だけ髪が残っていた。その子の腫れ上がった首筋には、申し訳のように巻かれた繃帯が、血膿の中に食い込んでいた。目はつぶれて見えないらしく、看護婦さんの方に向けて、腫れ上がった唇の間から「はずしてぇや」と呻きながら、首の繃帯を引っ張っている。看護婦さんは、「アメリカに…仇をとってあげるけんね」と泣きながら繃帯をはずしてやっている。私は目の前の惨状になすすべもなく、「裕ちゃーん」と、壕の中や周囲で何度か呼んだが答える者もなく、虚しく引き返した。
 二、三時間後、裕ちゃんのおかあさんが帰宅したので、もう一度、私の案内で、防空壕に向かった。今度は近所で借りた大八車を引いて行った。壕の前に着くと、「裕!」と言うなり、おかあさんは先ほどの中学生に飛び掛かるようにして胸に抱いた。「えっ、あれが裕ちゃん…」私は、言葉がなかった。兄弟のようにしていた私にもわからぬほどの酷い火傷もだが、そんな姿になっても一目でわかる母親の愛情にたじろぐ思いだった。おばさんは、肩の非常袋からミカンの缶詰を出して、「熱かったろう、熱かったろう」と、泣きながら裕ちゃんの潰れた口へ、スプーンでミカンを押し込んでやった。
ニ口ふたくち三口みくち、裕ちゃんが、何か言った。「ヨッちゃん(※父のこと)にも、ミカンをやれ」と言っている。「僕はいいから、裕ちゃん食べろ」と言った。瀕死の際にいながらの心配りが、私には受けられなかった。裕ちゃんのためではない。私には、潰れた口を前にして食べる勇気がなかった。
 畳を敷いた大八車に載せて帰る途中、裕ちゃんは何度も痛がった。電車道とは言え、架線は線路上に垂れ下がり、車道には爆風で飛ばされた瓦や壁土が飛散している。大八車の轍が、それらの上を通る度に、ガタガタと揺れる。家の近くの被服厰の正門あたりまで帰った時、警戒警報が鳴った。車を止めて、裕ちゃんに聞いた。「僕が行った時、目の前にいたのに、なんで返事をしてくれんかったんか」と。「返事はしたんじゃが。繃帯が痛かった」と答えた。意識の混濁があったのだろうか。
 裕ちゃんは、三週間くらいして死んだ。死ぬ前には、体中にウジがわいて、傷口を這い回った。裕ちゃんが痛がるので、家族がピンセットでつまんでは、砂を敷いた竹筒に入れて捨てていた。最期に「おかあちゃん、おかあちゃん、おかあちゃん」と、三度呼んで、息を引き取ったそうだ。
 あの日から半世紀余の歳月が流れた。古い木橋だった鶴見橋は、市内でも有数の近代橋に変わった。東詰めの被爆柳に目を止める人も少ない。外科病院も建て替わって、防空壕の跡は、私にもさだかではない。
 私は、あの日からミカンの缶詰が嫌いになった。
            (了)



※お読みいただき有難うございまし
 た。