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難破船

子どもの頃、少年少女世界文学全集には大抵『クオレ 愛の学校』が入っていた。
今はどうなんだろう。

『母をたずねて三千里』と
『難破船』のお話は強く印象に残っている。

子どもはメルヘンや、明るく楽しいお話だけを好むとは限らない。
涙を絞る物語にも強く惹かれる。

『難破船』はご存知の方も多いと思う。
貧しい少年と少女が船の上で出会う。
船上で少年が怪我をして、少女が手当てをしてくれる。

その後、船は嵐に見舞われ、沈没するのも時間の問題となる。
救命ボートに乗れるのはあとひとり。
少年と少女は我勝ちにとボートに乗ろうとするが……。


人を殺して罪に問われないのは、正当防衛と緊急避難だという。

救命ボートにあと一人しか乗れないというときに、誰かを見捨てて、自分が助かったとしても、それは罪ではない。

松本清張の短編のタイトルにもなっている「カルネアデスの舟板」は、緊急避難を説明する際に、しばしば用いられる寓話である。

端的にいうと、
難破船から海に投げ出された男が一枚の舟板につかまっていた。
そこへもう一人がすがりついてきた。二人でつかまるとその板は沈んでしまう。
自分が助かるために、もう一人を死なせても、それは殺人にはならない……ということらしい。

もし死ぬか生きるかの究極の選択を迫られたときに、お腹を痛めて産んだ我が子と、目の中に入れても痛くない孫のどちらを救うだろか。

そもそも有り得ないシチュエーションなので、答えは保留にするとしても、子どもと孫を天秤にかけることはできないし、比べる必要もない。
違う次元でどちらも最愛の存在だ。

「孫よりやっぱり我が子がかわいい」と、はっきりと言ってのけた人をわたしは過去に二人知っている。

ひとりは夫の母。
もうひとりは友人のAさんだ。

「所詮、孫は孫よ」
二人の共通点は孫が息子の子であるということ。

嫁の支配下に置かれた孫は、なんだかよそよそしい。
二人は息子と孫を比べている。

息子まで嫁の支配下に置かれているという忌々いまいましさも垣間見える。

わたしは息子が結婚した時点で、完全に人のものになったと割り切ったつもりでいる。
今でもその考えは変わらないが、それは建前のような気もする。

なぜ人は、人と人とを比べたがるのか。

我が子と孫を比べる必要などない。

本音はともかく、「我が子より孫がかわいい」といっておいたほうが波風が立たない気がする。


もし難破船と同じ状況になったら、その時こそ自分の本当の心がわかる。