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たけし軍団の命名と師匠のこころ

「たけし軍団風の名前」との表現があるように、殿が新たなメンバーに成す命名は、ひとことで云えばどれもこれもくだらないふざけた名前だ。この習慣は、1984年年末の「一斉改名」以来始まったもので、それまでは本名であったり過去に芸歴を持つ者ならそのままの愛称(芸名)を用いていた。

俺は1984年12月初旬にオールナイトニッポンの出待ちで直訴、そこで立川談かんに世話になったが、次に会った年末には「俺は今はふんころがしだ!」と唐突に告げられ驚いた。そこで殿から「一斉改名」のお達しがあり、ほぼ全員の名前がその場で変更になった旨を聞いた。立川談かんの場合はまず「2つから選べ」と以下を示された。

・ねずみ男=(ゲゲゲの鬼太郎の“ねずみ男”に容貌が似ているから)

・ふんころがし=(とにかく部屋が汚いので)

思案の結果、究極の選択よろしく『ふんころがし』を拝命したという。こんな調子で軍団の名前が改名されたのだが、容貌や人間性など本人の属性・背景にちなんだ命名ならまだ良い方で、ネタが尽きて以下から選ばされた者もいた。

・ふぐ珍味ピリピリ=(テーブル上のつまみに“ふぐ”があったため)

・つまみ枝豆=(同上)

こうなるともう属性や背景など無関係。なかには改名されないままで座を辞そうとした殿へ不安から「私はそのままでいいのでしょうか?」と尋ねた事で、その刹那殿にいたずら心が起きたのか「おまえは『そのまんま東』だ」と「お尋ね言葉」をそのまま名前にされてしまった例もあるし、柳ユーレイのように改名されないままのメンバーもいた。『一斉改名』といいながら実に雑。

俺が属した軍団の2軍『たけし軍団セピア』は1985年3月初旬に命名された。場所はその後も命名の場となった新宿『小ばやし』の座敷席。

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唐突に集合がかかり命名される。俺は元々DENONの社員で家電量販店のヘルパーに入っていたが、細々説明するとまどろっこしいので「元は電気屋です」告げた(命名されるまで軍団の兄さんからは『電気屋』と呼ばれていた)

そこから殿は「電気屋。。。テレビ。。。テレビと言えばキドカラー。。。ガガーリン〔ママ〕」とイマジネーションが一巡し「よし!お前は『キドカラー大道』だ。スポンサーが変わるたびに名前がパナカラー(パナソニック)、トリニトロン(ソニー)、魁(NEC)と変わる事にしよう!」と成った。今振り返るに、元の職業を聞いてくれた上でスポンサー毎に名前が変わる趣向まで盛り込まれ随分贅沢な芸名で後にも先にもそこまで凝った例はない。

——さて、一般的に落語の世界では屋号がついて世間的に『落語家の体』になるし漫才師の弟子にも命名をするが、この『命名』自体に問題提議をする師匠もあり、故立川談志師匠は1985年の自著『あなたも落語家になれる: 『現代落語論』其二』の中で

「立川談志の弟子というだけで、どうやら食っている節がある……(328P)」「ただ弟子という看板だけで食うのなら、のれん料を払え、ということになった(328P)」

という経緯で立川流旗揚げ時に入門料から真打ち料など、節目で総て料金が発生することにした。これは当時ちょっとした騒ぎになったのだが

「その質問を、千宗室のところへもっていけヨ。花柳寿輔のところに、池坊専永のところに。“なぜお茶を、踊りを、生花を教えてお金をとってんですかァ”って……」一般的に考えて、世のなかモノを教えて金を取らない、となりゃ、どこかこれには訳があり、何か裏がありそうだ、と考えるのが当たり前なのに、落語家にたいしては、まったくそんな考え方をしようともしないテレビ局とレポーターの毎度のながらの馬鹿さ加減

こう返して結局、従来の落語家志望のA、有名人が金を払って屋号をもらえるB、市井の人が名前ももらい何かしら落語との関わりが欲しい方向けのCと3つのコース制にしてしまったが、道理と云えば道理、明快と云えば明快。

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また明石家さんまの師匠として知られる故笑福亭松之助師匠は 2016年の自著『草や木のように生きられたら』に以下のように記している。

「明石家さんまはわたしの弟子ですが、『笑福亭』の屋号はつけませんでした。屋号をつけてもらうとそれで満足してしまう人がいます。屋号で自分たちの勢力範囲を示しているような、まるでヤクザのような感じが以前からしていたのです。」

命名はその属する一門が『名門』なら『箔』を付ける事にもなるからそれで満足、勘違いをしてしまう者もいる。よくお笑い界で「有名な師匠から売れた弟子はいない」と言われるが、理由は結局それなのだろうと俺は思う。

ただ、それはそれとして、心から敬愛する師匠から、それが例えいかなる名であろうと命名が成される場面は他者には決してわからぬ人生最大級のエポックなのだ。たけし軍団セピア以降は「テキトー度」に拍車がかかった気もするが、それでも命名された当人は「自身の存在を認めてもらった」ごときの歓喜があるはずだ。

——しかし殿自身はそれとはうらはらに、付けた名前を簡単に健忘する。顔と名も一致していない。例えば俺の後輩に当たる浅草キッドブラザースの場合、人数も多く『かに道楽落ち太』『玉袋筋太郎』『亀頭白之助』『ソークメナ男』『えいへいさいく』などなど名前だけをいっぺんに考え、人数に割当てしただけなので、実際、面前で『玉袋筋太郎』を『かに道楽落ち太』(背が高いだけが判別理由だった)と呼ぶなど、殿は誰にどの名を当てはめたのか覚える気さえなかった。この時代のメンバーは辞める奴が多発した故に数が減って、名乗りをそのまま信じたような格好で定着し、もはやそれが『命名』と言えるのかも疑問だった。

松恩

俺がこれらをどう感じたかと云えば、命名は結局『宴席の座興』以上のものではない。いかにくだらない名前を思いついて場がウケるかどうかだけのものであって、その本人の将来など露ほども考えてはいない。

こう書くと殿の人格を毀損しそうだが、要するに「師匠がつける名前などで芸人の将来は決まらない。肝心なのは当人の精進・努力であって、俺が付ける芸名など気にするな」と教えているのだと俺は思った。「師匠から戴く芸名を軽んじるのか」との反論もあろうが、こういう時は実際に「では師匠はどうだったのか」を振り返るのが明快だ。

弟子とは簡単に云えば「師匠のやった通りの事をする」のであり、殿はフランス座時代は『北千太』を名乗っていたが、今は「ビートたけし」を名乗っている。軽演劇の世界(ハナから“仮名”的な姿勢)だからという事もあるし、実際、界隈をざっと眺めても師匠が「テメエ、俺がつけてやった名前勝手に変えやがって」と怒ったり、弟子が怒られた話はついぞ聞いたことがない。

それに当時殿は誰かしら「子供に名前をつけて下さい」と頼まれた場合にもうまく断り取り合わなかった。「俺に名付けられたから子が幸福になると思うのも違うし、親としてもそれは違う」と考えている様で、そこからも俺はそう確信する。

——つまりは師匠を喜ばせたいなら名前なぞ気にするのではなくまず、世間からしっかり評価を受け芸人として売れる事こそが第一なのだと知るべきなのだ。

え?「お前が言える話かよ?」ま、そりゃそうだ(笑)

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