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ビートたけしと縁深き男島崎俊郎「アダモステ」のモデルとは。

12月の6日に「アダモステ」で知られた島崎俊郎さんが亡くなった。マスコミはこれに関して周辺情報を提供したが、彼が最も活躍した1980年代の情報はネットで収集が難しいためか「なんにも知らないんだなあ」と呆れた。ただしそんなものと思っていたので落胆はしなかった。

俺は島崎さんにボーヤ時代お世話になった。あまり知られていないようなのだが、実は島崎さんほど1980年代のレギュラーとして最盛期のビートたけしと共演したタレントはいない。レギュラーで3本だ。
『オレたちひょうきん族』(1981年5月16日から1989年10月14日)
『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(1985年4月14日から1996年10月6日)
『OH!たけし』(1985年4月13日から1986年9月27日)
——このように延べで言えば共演者は他に多いのかもしれないが、殿がエンタメで最盛期であった1985年からの5年間で最も共演していたのは島崎俊郎その人しかいない。

『OH!たけし』
『OH!たけし』の北野家族(コント)

俺はといえば、まずひょうきん族で初対面で、元気の出るテレビでは合間合間にたわいのない会話を交わし、『OH!たけし』ではコントで共演し、完全に面識が出来たとして、時間が空けば楽屋にあがりこんで、ハナ肇さんの付き人時代の話などあれこれ伺った。徒弟の世界を知る人とそうでないとは自分としては共感に大きな差がある。得難いアドバイスをいくつかもらった。それに島崎さんはヒップアップで自力でデビューした方で、ビートたけし頼みのたけし軍団とは全く話の説得力が違う。俺は「自力で世に出た芸人」しか認めない。だから軍団では井手さんしか「芸人」としては認めれらなかった。
今思えば、自分が漫才をするために軍団を離れた根底には島崎さんからのアドバイスが強く利いていたのかもしれない。

ちなみに島崎さんが殿の番組で共演が多かった理由は別に殿が指名した様子はなく、あくまで制作側がキャスティングしたもので、それを聞いて「おう。いいんじゃない」ぐらいの返事をした程度のようだ。

——さてそういった島崎さんとの関係の中で、今回の訃報で結局マスコミが確認できなかった情報は「アダモステ」は何が源流なのかということだろう。
姿こそタヒチアンショー・ビンボーダンス(という島崎さんは貯金もない暮らしである揶揄からの劇中の設定)の原住民であるが、あの独特の動きと口調はどこから来たものだろうか。これも『OH!たけし』の楽屋で、今となってはなぜその話になったのかは忘れてしまったが、島崎さんから「あのリアクションは(ヒップアップメンバーの)小林くんなんだよね。そのまんま真似したらウケたんだよ」と打ち明けてくれた。
2012年に亡くなっている小林さんも、四谷のスーパー「セイフー」で1990年代にやたらとバッタリ会う事が続きやがて喫茶店でお茶をごちそうして戴いたり、やはり親しくさせていただいた。
こういった「偶然の重なり」と言ってしまえばそれまでだが、ヒップアップ

ヒップアップの小林すすむさん

さんは自分にとって特別に近しい存在だった。
ボーヤ時代にお世話になった方では他に元プロ野球選手の小林繁さん。中村勘九郎さん(当時)も鬼籍にはいってしまった。いずれも芸能界の最底辺にいた「ボーヤ」という存在の自分を「大道くん」と名前で呼んでくれた自分にとっては格別に思いのある方々だ。
今回の訃報は俺としては堪えた。俺がぼやぼやしていると近況を報告すべき方々をこうやって次々に失ってしまう。
「何かを自身を変えなければならない」と強く思った今回だった。島崎さんこれまでありがとうございました!

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