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葵紋 〜なごみ2022.7月号より〜

葵紋は日本で最も知られている家紋である。
江戸幕府開幕以来約260年の間、葵紋は徳川が独占し、その親藩以外の使用を厳しく禁じたことで、葵の御紋=徳川家が定着したからだ。時代劇などで葵紋の印籠に平伏する場面などはすっかりお馴染みとなっている。

葵は古代日本では「あふい」と表現され、古事記では「ひ」は神霊を意味し、「あふ」は逢うを意味する。よって葵は「神霊に逢う」という意の神聖な植物とされ、賀茂神社(上賀茂・下鴨神社)では「二葉葵」が神紋とされた。

室町時代、徳川家(松平家)の祖である松平親氏(まつだいらちかうじ)がこの賀茂神社の氏子であったことから葵紋を用い、武士の八幡宮信仰から葵を巴にかたどり、三つ葉の葵巴を一門の家紋としたといわれている(諸説あり)

三十三葉葵紋(徳川三代まで)

後に江戸幕府を開いた徳川家康は、自身の直系のみ徳川姓を許し、さらに将軍を輩出できる尾張・紀伊・水戸の御三家を定め、体制を盤石にしたが、葵紋は時代によって変化した。江戸時代初期の家康・秀忠・家光の三代までは一枚あたりの葉脈が三十三葉であったが、江戸時代後期には葉脈数は減り、十三葉になっている。また御三家それぞれも葉脈数で微妙な差をつけ、将軍家と区別した。

十三葉葵紋

ところで徳川家では将軍家はもとより、御三家及び御三卿、その親藩に至るまで茶の湯は盛んに行われ、葵紋の茶器も尾張御深井焼(おわりおふけやき)、紀州偕楽園焼(きしゅうかいらくえんやき)、水戸後楽園焼(みとこうらくえんやき)などの御庭焼で数多く作られたといわれている。

当時の陶工たちは、同じ徳川でも微妙に異なり、表現が難しい葵巴の御紋をいかに正しく、そして美しく描くかで自身の評価を得るために努力したといわれている。

葵紋がもたらす力は、政治だけでなく、当時の芸術においても大きな影響を与えていたのである。

紀州偕楽園焼


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