石崎功(きもの研究家)

きもの研究家 伝統工芸や染織を国内や海外に発信し、次世代のモノづくりの継続維持に注力し…

石崎功(きもの研究家)

きもの研究家 伝統工芸や染織を国内や海外に発信し、次世代のモノづくりの継続維持に注力している。 また文様学研究や染織史の研究も専門としている。 著書 和の文様辞典 〜きもの模様の歴史〜(講談社学術文庫) 連載 茶道雑誌『なごみ』家紋見聞録 (淡交社)

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  • きものについて思うこと

    きものについて思うことを記しています。

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  • 日本の伝統織物

    日本全国に存在する伝統織物を紹介していきます。 その土地の風土や風習の中で生まれ、伝承されてきた様々な織物を出来るだけ分かりやすく解説していきます。 時代の変化の中で、消えてしまったものや、その土地の人々の努力によって継続しているものなど、きもの好きな方、織物を勉強されている方、各々の地方を担っている方々のお役に立てれば、きもの研究家として嬉しい限りです。

  • 家紋伝聞録 〜茶の湯にまつわる家紋たち〜

    淡交社の茶道雑誌「なごみ」で連載中の家紋伝聞録で過去の記事をここでご紹介しております。

  • 歴史から知るきもの

    様々な歴史の資料からきものを紐解いていきます。きものや和の装いから歴史を楽しむ内容です。

最近の記事

【着付け師のためのオンラインサロン 着せびとサロン開設と事前会員募集開始のお知らせ】

以前よりお知らせさせて頂いていた着付け師を応援するプロジェクトとしてオンラインサロンを開設する準備ができました! 全国の着付け師さんや着付け師を目指している人、着付けに興味がある人が繋がり、情報共有をし、きものや文化の学び、そしてビジネススキルの支援までを行うことができる今までにありそうでなかったオンラインサロンです! 着付け師の人数の現状は年々厳しくなってきており、厚労省のデータから推測すると全国に10万人余りという状況であり、各都道府県別で割ったとしても一県あたり平均約

    • 長井紬(置賜紬) 山形県

      東北地方で最も織物産業の発達しているところが山形県米沢地方です。中でも特に歴史を持った地区が長井地方といえるでしょう。起源は諸説ありますが、8世紀初めといわれており、産地として認識されたのは上杉景勝によって奨励された慶長年間といわれています。 山形県西置賜郡の中心地である長井市を中心としたこの地方の織物は江戸時代中期に盛んになったといわれています。この時代の藩主である上杉鷹山は、安永五年(1776年)に越後国から小千谷縮の職人を招いて長井地方に麻縮布の技を伝授させたり、仙台

      • 紅花紬   山形県

        最上紅花(もがみべにばな)で知られている紅花は山形県の県花となっています。 紅花の歴史は古く、我が国に伝えられた年代は一説に三世紀の頃といわれていますが、山形地方で栽培されるようになったのは鎌倉時代の頃のようです。 桃山時代に編纂された「邑鑑(むらかがみ)」によると、山形県白鷹山麓三十一ヶ所村で、藩の御役植物として栽培されていただことが書かれています。これをみると、この時代すでにこの地方の重要な産物として盛んであったことがわかります。 この紅花は採集されると主として最上川を

        • ぜんまい織 秋田県

          岩城2万石の城下町として栄えた、現在の秋田県由利郡岩城町亀田に伝承されている織物が「ぜんまい織」です。 幕政の頃、岩城氏は享保2年(1717年)に、現在の新潟県村上市から甚三郎という織職人を招き、一般の人々はもちろん、士族の婦女子などに綿織物を習わせたのです。そして生まれたのが、ぜんまい織の前身である亀田縞(かめだじま)と呼ばれた木綿の織物だったのです。 この亀田縞にぜんまい綿を織り込むようになったのは明治20年頃とされています。 幕政時代の御用商人だった佐藤雄次郎氏は

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          5本
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        • 家紋伝聞録 〜茶の湯にまつわる家紋たち〜
          10本
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          10本

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          秋田八丈  秋田県

          秋田地方での織物の始まりは、18世紀の頃と伝えられています。奥州伊達郡木原の人で、号を遊蚕と称した石川竜右衛門が移り住み、この地方に養蚕を広め、その絹糸を使って畝織、竜門織、秋田平などの袴地を織り出したのが始まりとされています、 秋田八丈は、この絹織物を奨励し、より発展させるために、時の藩主は、今の群馬県桐生市から蓼沼甚平を招いて、上野馬場小路(今の秋田市川尻町)に住まいを与え、染色機織りの業を営ませたのが始まりです。 蓼沼甚平は、ここで黄八丈に倣って、八丈格子を製織した

          秋田八丈  秋田県

          南部紬  岩手県

          岩手県を古くは南部と呼んでいたことはよく知られていることです。南部の染織というと、南部紫根染や南部茜染が知られていますが、今回は織物をテーマにしていますので南部紬について述べたいと思います。 建久元年(1190年)に、甲州(山梨県)の南部郷の武将 南部光行がこの地に移ったところが南部藩となり、南部の地名が起こったものです。 もともと甲州地方は養蚕が盛んであり、したがって絹織物も盛んに行われていました。そこで南部光行と共にその養蚕や絹織物の技術が移植されたと考えられます。こ

          こぎん 青森県

          こぎんは”小巾”と書かれていました。刺し小巾といわれた時代もあったことからみると、小幅の布地に生地を補強する目的から刺し子を施したことを「刺し小巾(さしこぎん)」と呼んだことが「こぎん」の語源といわれていますが諸説あります。(小衣(こぎぬ)を語源とする説もあり) 弘前市付近の農村、通称「津軽地方」は木綿が入手しにくく、そのうえ津軽藩は「農民倹約分限令」という衣食住全般に渡っての厳しい倹約令を出し、そのなかに「農民の着るものは麻の単衣(ひとえ)の労働着」とあり、これが「こぎん

          アッツシ織(厚司織) 北海道

          北海道に伝承される唯一の織物に、アッツシ織があります。 この織物を詳しく見るには、白老(しらおい)か平取(びらどり)の奥、二風谷(にぶたに)を訪ねると見ることができます。最近では、白老町にウポポイという名の民族共生象徴空間と呼ばれる施設ができ、その敷地内にある国立アイヌ民族博物館で詳しく知ることができます。アッツシとは木の皮の織物を指すとも、アイウシと呼ばれる独特の模様から出た名だともいわれています。  主として使用する繊維は、ニレ科のオヒョウと呼ぶ木の皮の繊維を、手でつ

          アッツシ織(厚司織) 北海道

          橘紋 〜なごみ2023年3月号より〜

          橘紋はその名の通り、柑橘類のミカンの実と葉を模した紋章である。 この橘を文様として使い始めたのは平安時代中期以降といわれているが、『万葉集』には橘を詠んだ和歌が七十二首もあり古くから鑑賞されていたことがわかる。また『古事記』では橘を「非時香果(ときじくのかくのみ)」と呼び、いつまでも香り高い実で尊い生命力が宿ると信じられていた。 橘の紋章を最初に用いたのは平安中期まで公卿であった橘氏といわれている。七世紀末、県犬養美千代(あがたのいぬかいみちよ)が元明天皇より橘宿禰(たち

          橘紋 〜なごみ2023年3月号より〜

          ゆかたはきものであるか否か?

          この文章は2023年7月20日に書いているが、まさに今日、近畿、東海地方は梅雨明けとなり、本来の暦とは別に本格的な夏を迎えた。 私の住む京都では祇園祭の真っ最中で、来週の月曜日は後祭の山鉾巡行である。また全国でも様々な祭事が行われ、街にはゆかた姿が多く見られる季節である。 さて、そんな季節の風物詩でもあるゆかたはきものとして捉えて良いのか?ということをよく言われる。以前から我々の業界の大先輩たちは、「ゆかたはきものではない!」「湯上がりの衣装と一緒にするな!」「寝間着で街を

          ゆかたはきものであるか否か?

          石崎へのお仕事のご依頼について

          石崎功の仕事はきもの業界に特化した仕事を主としております。 ★業務内容 ①講演活動・・・文様学・染織史・きものビジネスなどを専門としております。 ②商品企画プロデュース・・・産地、メーカー、卸業などの商品企画コンサルティングやブランディング、プロデュースなど ③きもの小売店経営コンサルティング・・・全国のきもの小売店にて経営コンサルティングを実施しております。現在約30店舗ほどの顧問先でお仕事をいただいております。 ④執筆活動・・・専門書の出版、きものや和文化の関連雑誌での

          石崎へのお仕事のご依頼について

          目結紋 〜なごみ2023.2月号より〜

          目結紋は四角の中心に点が構成され、四角の数が三つであれば三つ目、四つであれば四つ目といい、一番多くは十六目まで家紋として存在する。現在多く使われているのは四つ目紋であり、角が立っている菱状のものを「隅立て四つ目」といい、四角状のものを「平四つ目」という。 この紋の成り立ちは絞り染めの鹿の子文様を模したものといわれており、糸で縛って目のような文様ができるため目結と称された。 目結紋が文献に登場するのは平安時代後期の公家・平信範の日記『兵範記(ひょうはんき)」である。春日詣の

          目結紋 〜なごみ2023.2月号より〜

          巴紋 〜なごみ2023.1月号より〜

          新年を迎えるにあたり、今回は読者の多くが初詣に出向いた際に目にするであろう巴紋を取り上げる 巴紋の呼称の起源は諸説あるが、弓の鞆(とも)に形が似ているからその名が付いたという説が多数派である。弓の鞆とは弓を引いた後、弦が腕に当たるのを防ぐ腕輪のような道具である。平安時代後期の説話集『江談抄(こうだんしょう)』には「太鼓乃左右ヲ知事ハ、左ニハ鞆絵乃数三筋也」と記され、「鞆絵」と表現されていたのがわかる。そのことから武運の神である誉田別命(ほんだわけのみこと)を弓矢八幡(ゆみや

          巴紋 〜なごみ2023.1月号より〜

          白麻地七夕文様帷子

          早いもので文月に入り、私の住んでいる京都は祇園祭が始まる。 そして7日には七夕の節句を迎えることに。 七夕の歴史は古代中国の宮中行事である乞巧奠に始まり、6世紀に荊楚地方(現在の湖北・湖南地方)の年中行事を記した『荊楚歳時記』には7月7日に牽牛と織姫が会合する夜であると書かれており、その夜に婦人たちが七本の針の穴に5色の糸を通し、捧げ物を並べて針仕事の上達を願ったとのこと。 日本には奈良時代に朝廷に乞巧奠の行事は伝わり行われていたという。現在でも冷泉家では旧暦7月7日(2

          鷹の羽紋 〜なごみ2022.12月号より〜

          鷹の羽紋は動物紋の部門の属し、特に「違い鷹の羽」などは最も知られた家紋の一つといえるであろう。禽獣の羽を模したものであるが、平安時代の武官の礼装に用いられた武礼冠(ぶらいかん)に鷹の羽を差したことから、後に鷹の羽紋は多くの武人が家紋として使用するようになった。その種類もかなり多く、「違い鷹の羽」のほか、「並び鷹の羽」「抱き鷹の羽」「鷹の羽車」など多様な表現がされている。 鷹の羽紋が初めて歴史資料に登場するのは、「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」で肥後菊池氏の幟に記

          鷹の羽紋 〜なごみ2022.12月号より〜

          扇紋 〜なごみ2022.11月号より〜

          扇紋の種類は大きく「開き扇」と「閉じ扇」に分かれる。「開き扇」は、重ねや地紙(じがみ)の中に文様や文学を入れたもの、扇を様々な形に模した表現などがある。一方、「閉じ扇」は扇の並べ方で表現していることが多い。その他にも檜扇(ひおうぎ)や地紙のみの家紋など扇紋は多種多様に存在する。意味としては扇の末が広がることから「末廣(すえひろ)」とも呼ばれ、縁起物の代表とされてきた。平安時代の絵巻物などにも扇形や地紙形を模った表現が多数ある。 扇を最初に家紋に用いたのは鎌倉時代初期に常陸国

          扇紋 〜なごみ2022.11月号より〜