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夕暮れの夫婦

「うん、すきよ、だいすき、ドストエフスキー。」

僕のこと好き?と尋ねた時の、妻の常套句だ。
チャイコフスキーだったり、ストラヴィンスキーだったり、
バリエーションはある。
ドス、が若干言えてなくて、ドフってなってるのが可愛い。

「適当だなあ」と返すのがいつものやり取りで、
それで愛情を確認しているように思う。

空が赤みを帯び、近所の公園から
バイバーイと叫びあう無邪気な声が響いてきた。

醤油とみりんで何かを煮る香りがして、
僕はようやく、夕飯のメニューに気づく。
親子丼だ。

夕飯が親子丼の時は、幸せな時。
なんとなく、料理で妻の気分が分かる。

ピザを焼くのは、寂しい時。
キムチチゲはムシャクシャしてる時。
バーニャカウダは、ちょっとエッチな気分の時。
レトルトカレーは、ほんとにめんどくさい時(これはそのままかな)。



妻のアキとは、大学のゼミで出会った。
「沈黙が苦にならない二人は、良い関係である」と聞いたことがあるけれど、
彼女とは不思議と最初から、そういう空気の中にいた気がする。
まだ大して話もしたことがない頃、
たまたま研究室で二人きりになることがあって、
気づけば2時間以上も無言でそれぞれの作業をしていた。

ちょうど今のように、窓から西陽が射してきた頃、
僕はふと、顔を上げて彼女の方を見た。
彼女もまた、顔を上げて、それからお互い表情も変えず、
瞳がオレンジに色づく様子を数秒間、見つめ合って、
そしてなんとなくぽつりと、「付き合わない?」なんていう言葉が出た。

彼女は少しだけ眉間を寄せ、それから上目で考えるような素振りを見せて、
でもすぐに「いいかもね。」と言った。
以来、今に至るまで、彼女との言葉のキャッチボールはごく最小限で、
それでもお互いに何が言いたくて、何を言ってほしいのか、
何となく分かった。

「よしくん、今なに考えてる?」
いつもの返事を返さなかったせいか、珍しく妻が続けた。
相変わらず顔は伏せたまま、雑誌をパラパラとめくっては、
ページの角を折って印をつけたりしている。

僕は少し、心配になってきた。
鶏肉はもう煮えていて、いい加減、水分がなくなってしまう。
目線だけをキッチンに移すと、妻ははっと気づいて、火を止めに行った。

そう言えば、新婚初夜の夕飯が親子丼だった。
理由を聞いたことはないが、きっと妻にとっては自信のあるレシピで、
そして何か思い入れのあるメニューなんだろうと思う。

妻が戻ってからもしばらく、僕らはうつむいていたけれど、
僕はふと、顔を上げて彼女の方を見た。
彼女もまた、顔を上げて、それからお互い表情も変えず、
瞳がオレンジに色づく様子を数秒間、見つめ合って、
そして僕は、力を振り絞って、もう一度訊いた。

「僕のこと…好き?」

気づけば妻の瞳には溢れそうなほど涙が溜まっていて、
それがすうっと右の頬にこぼれた時、こう言った。

「うん…すきよ。だいすき。」

僕が聴けたのは、残念ながらそこまでだった。
意識が一層遠のき、くしゃくしゃに崩れる妻のレアな表情を
それ以上は見ていることができなかった。
腹部を押さえていた左手も感覚がなく、静かに床に落ちた。
シャツとズボンは、既に真っ赤に染まっていた。

幸せな親子丼の日に、妻がなぜこんなことをしたのか、僕にはわからない。
僕らはいつだって、何となくお互いの言いたいことが分かったし、
言ってほしいことだけを返すこともできた。

ただ、もしやり直せるのなら、
彼女の行動の一つ一つに、鬱陶しいぐらい興味を示して、
怒られるぐらいしつこく質問をして、
そうして、もっと色んな彼女の表情を、
彼女が奥底に抱えているものを、引き出してみたかった気がする。

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