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『君たちはどう生きるか』感想(ネタバレ有)――「洗練された悪意」とどう生きるか

※この記事はネタバレを含みます。

 2023年7月14日に公開の映画『君たちはどう生きるか』、公開翌日に観てきたので、備忘録も兼ねて感想を書き留めておく。
 なお、本作品は公開日まで、タイトルとキービジュアル以外ほとんどの情報が秘匿されるという極めて特殊なプロモーションが行われた。そのため、事前情報なしで鑑賞する状況が整えられたわけだが、それも含めての作品……という楽しみ方もできる。
 というわけで、まだ観ていない方はご注意を。ここから先は内容にがっつり踏み込んだ感想を書いていく。

ここから内容ネタバレ




◯循環する生と死

 2時間ずーっと生と死の話をされていた気がする。
物語冒頭から主人公真人の母親の「死」、立て続けに継母(であり叔母)の妊娠という「生」が描かれる。舞台を彩る印象的な海や鳥にしたって、生死に関わりがあるメタファーだ。海の彼方はあの世。鳥はこの世とあの世をつなぐ。
 別世界で真人を最初に出迎えたのは、輝く門とその向こうの墓。墓の主の正体は不明なままだが、継母がいた産室とそっくりだ。生と死は、鏡合わせなのである。
 生者の世界ではないあの世には、死者だけでなく、これから生まれる者もいる。マッシロシロスケ、じゃない、ワラワラがそれだ。
 死は生の先にあり、生は死の先にある。そんな世界で生きる住人達にとっては、死んだ母親が少女の姿で現れるのも、「最高じゃないか、真人をこれから産めるなんて」という彼女の台詞も、不思議でもなんでもないことなのだ。
 扉が並んでいるのは、果てなく真っ直ぐ続く廊下ではなく、時の回廊。この作品を貫いているのは、円環的な死生観だ。

◯洗練された悪意とどう生きるか

 物語終盤で、真人は大叔父から、「この世界」を継ぐように言われる。「この世界」の解釈も様々有り得るだろうが、私は大叔父の心象世界であるとともに、彼岸と此岸の狭間にある世界だと感じた。
真人なら、悪意に塗れていない穏やかな世界を作れると大叔父は言う。しかし、真人は否定する。こめかみに残る自分の悪意の印を理由にーー。
 この印は、物語序盤、学校に馴染めず喧嘩になった真人が、帰り道に自らを石で殴った時にできた傷だ。被害を大きく見せるため、いじめっ子たちに復讐するために。
 面白いのは、誰にやられたと憤る父親に、あくまで「転んだだけだ」と言い張るところだ。安易にいじめっ子の名前を挙げることしない。けれど父親を焚き付けるのにはその方が効果的だと、真人はおそらく理解している。無辜の被害者、大人に告げ口しない誇り高い男の子、そういう立ち位置を維持したままで、少年は周囲をコントロールする。

 これは明確な悪意である。

 当たり前だが、子どもは清廉潔白な存在ではない。かなり幼いうちから、子どもは嘘をつく。だから、嘘をつくことそれ自体は、平和な世界の創造者たる資格に何の影響も与えない。
 安易にいじめっ子の名を挙げるのだったら、語義矛盾に聞こえるかもしれないが、純粋無垢な嘘だった。子どもらしい悪意だった。
 だが、真人がやったのは、それとは違う。冷徹に他者をコントロールする、極めて大人びた悪意だ。

 この洗練された悪意こそが、少年が大人への第一歩を踏み出している印でもある。

 だから真人は、無垢なる作り手として世界(あの世)を受け継ぐことを拒否する。「これは自分の悪意の印だ」と自分自身と向き合った彼は、悪意を持った人間として、悪意に塗れた世界(この世)を生きることを選んだのだ。
 「君たちはどう生きるか」の問いかけに対するアンサーは、このシーンだったと感じている。

◯マジックリアリズムについて

 さて、この物語の表現手法は、マジックリアリズムといって差し支えないと思う。マジックリアリズムとは、ざっくり言えば「現実と幻想の融合」のことである。好きな人にはとことんばハマるが、万人受けに持っていくにはかなり難しい表現手法だ。
 現実と幻想が地続きで、さっきまでリアルな世界を生きていたキャラクターが突然、当然のように幻想を受け止める世界観は、「ついていけない」人を続出させる。実際、この作品の感想も、ちょっと検索したら「わけわからん」「置いてけぼり」「(宇宙猫の画像)」といったものが多かった。
 じゃあ「わかった」人がすごいのかと言うと、そういう話ではない。そもそもわかる人なんているのだろうか。宮崎駿監督自身が「私自身、訳が分からないところがありました」と言っているくらいだし……。


 一つ言えるのは、心象世界を素直に描けばマジックリアリズム的表現になってしまうということ。大叔父が作った世界はモロだし、メタ的な読み方をすると、この作品自体が作り手の心象世界である。
他人の心の世界なんて、100%わかるわけがない。自分の心の世界だって死ぬまで理解できないだろう。でも、99%わからない他人の心に、1%共感できる部分があったら、好感を抱くか嫌悪感を抱くかは別にして、すごく印象に残ったりする。
 私がマジックリアリズム全開の作品に触れた時は、鑑賞直後は特に心を動かされないことが多いのだが、数年経ってふっとどこかのシーンが胸に去来することがある。しみじみと心に広がって、自分の心象世界に溶け込むこともある。
この作品が合わなかった人も、そういう遅効性の感動がやってくる可能性はゼロではないので、あまりがっかりしすぎないように……かなり迂遠になったが、励ましのつもりである。

 余談だが、そもそも『となりのトトロ』にしたって、よく考えればマジックリアリズム的な世界観である。だが「まっくろくろすけって結局なに? 伏線かと思ったら違ったし」とか、「なんか急に謎のダンスが始まっておっきな木が生えたんだけどどついていけない」と困惑する人はほとんどいない。
 トトロが親しみを持って受け入れられ、君たちはどう生きるかは賛否両論なのは、どういう違いから来るのだろう。ぱっと思いつくのは「わかるように伝えようとしているかどうか」とかだが、具体的にどこがどう違うか、明確に説明できない。
 私たちはどう幻想を受け入れているのか。

○感想・意見・考察求む!

 Twitterを見ると、「ジブリ」や「宮崎駿」の足跡からこの作品を読み解いている人が多かった。私はジブリ作品を網羅しているわけではないので、今回その方向からの感想は控えたが、滅茶苦茶興味がある。過去作品との関連性も気になる。そっち方面から熱く語った文章があれば教えてほしい。
 また、扉の数字の意味とか、何故13の積み木を3日に1つずつ積み上げるのかとか、そのあたりの考察も知りたい。

◯最後に

 長々とお付き合いいただいたが、こんなのは所詮私の妄想である。嘘と言っても過言ではない。
 たとえば海や鳥が死のメタファーだともっともらしく書いたが、誰もそんなことは言っていない。他の解釈はいくらでもある。後日パンフレットが出た時に、的外れだと嘲笑の的になる可能性だってある。
 そうだとしても、

アオサギは嘘しかつかないとアオサギが言う。これは嘘か本当か。

 の精神で、呵呵と笑い飛ばしてくれれば幸甚である。

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