見出し画像

対話とOD


最近いくつかの対話の場に参加してみている。どこも色がある。主催側の色なのか、ファシリテーターの色なのか、集まる人たちの色なのか。

感じるのは、一般的な対話の場とオープンダイアローグ(OD)的な対話の場の違いである。

一般的な対話の場とは、ODだけに限定されない広い意味での対話の場である。対等である、相手を尊重する、否定・批判・断定をしないなどのグランドルールのもとに行われるものだ。わたしが参加しているのは、対話の練習の場であり、対話を身につけて、日常生活の中にそれを取り入れ実践しようと志す人たちの場である。

一方、OD的な対話の場で、わたしが参加している場は、ODそのものの場もあれば、ODを学ぶための練習の場だったりする。

どちらも対話である。けれども色、感触が違う。質というか。

一般的な対話の場は、なんというか硬質である。硬い。どこかビジネスの空気を感じるのである。参加者それぞれにしっかりとした核のようなものが一本通っていて、そこから、鋭い線のようなものが対話の輪の中心に伸びていくイメージがある。そして輪の中心から各人の核に何かが戻っていく。何かというのはやはり線なのだが、中心に向かっていった線よりは太く、縁はぼやけていている。それは各人の核に戻っていき、核を仄かに包み、周縁部は微妙に変化をする。太陽のコロナの炎が揺らぐような感じだ。だが、核そのものは変容はしない。

一方、OD的な場は、より軟質である。柔らかい。話し手が語り始めると、輪の中心に焚き火が現れる。聞き手は焚き火に静かに薪をくべていく。火はときに大きくなる。火が小さく消えそうに見えても、皆で焚き火を見つめているうちに、炎がまた顔を出してくる。空間がじんわりと温かさで包まれていく。自分が空間に溶けていくような一体感があり、自分の中心部にあるはずの芯、周縁部も境目がなくなる。得体の知れない心地よさのなかで、力んでいた部分から力が抜けていく。変化として意識されるのは、自分が軟体化する感触である。

この違いは、どこからくるのだろう。

ODが治療、対人支援の場で用いられることが多く、実践も練習の場でも、支援的な立場の人たちが集うせいなのかもしれない。わたし自身が、当事者性が強いがゆえに、支援者のまとう雰囲気に安心安全を感じるということなのかもしれない。しかし、もし対人支援の場に、一般的な対話が取り入れられたとしても、きっとわたしは満足しきれないだろうと思う。あの焚き火の火が恋しくなりそうだ。

一般的な対話とOD的対話。どちらがよいということではない。
ただ、わたしはOD的な対話を好む ということなのだろう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?