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#7 「めんどくさい」には対話が必要。なのか?

めんどくさいの哲学 #7

 めんどくさいは、気付いてない場合がある。いや、「めんどくさいな」と思うことはたくさんあります。でも、つっこんで「何がめんどくさいの?」と自分に問うまではいたらない。問うこと自体がめんどくさいことには気付いてない、という話を前回しました。じゃあ人は、そこに気付くことはできるのでしょうか? って、ちょっとややこしいかな?

 そんなことを考えているときに出会ったのが、精神科医の斎藤環さんと漫画家の水谷緑さんの『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』という本でした。オープンダイアローグはフィンランドで生まれた心の病の治療法で、日本ではまだ本格的に導入している施設はないのだそうです。当人、家族、精神科医、心理士、看護師など、さまざまな立場の人が車座になって対話をするのですが、特徴的なのは、ただ対話をするだけでいい、という考え方です。さまざまな人が、さまざまな立場で語り合う。結論めいたものにもっていかない。対話のための対話を続けていくうちに、対話のおまけみたいに当人に「気付き」が訪れるというものです。

 この本に納められているエピソードのひとつは、引きこもりの青年の話です。31歳で部屋に引きこもっている。父親は「いつまでも何をやっているんだ!」と叱責し、青年は激昂して暴力をふるう。母親は「あの子は何を考えているのかわからない」とおろおろしている。そんな家族とのオープンダイアログで治療者は、それぞれの人たちに何を考えているのかを聞いていく。それぞれの思いがあり、思い込みがあり、誤解があり、わだかまりがある。けれど、それをひたすら聞き、対話を続けていくうちに、青年は「子どもの頃からずっと否定されてきたけど、初めて自分の話を聞いてもらった気がする…」と呟き、その後事態は改善へと向かっていきます。

 ぼくはこの話を読んだときに、ひとりで引きこもっている人にとって、思いを言葉にして話す、ということがとても大切なのではないか、と思いました。
 オープンダイアローグをする際、治療者がしてはいけないことは、説得、議論、説明、尋問、アドバイス、体験の否定なのだそうです。これはひとえに、当人が何のバイアスもかけられず、思いを言葉にできる環境を作る、ということなのではないでしょうか。ニュートラルな環境の中で、当人が、もやもやと自分が思っていたことを言葉にすることで、自分が何を思っているのかが素直に形になっていく。それが「気付き」につながるような気がするのです。
 もちろんオープンダイアローグは、ただ話を聞くだけでなく、治療者たちもいろいろな感想や意見を出していくなど、いくつかのルールがあり、それほど単純ではありません。だから、当人が言葉にすることだけが「気付き」につながる、というわけではないのですが、それはひとつの鍵なのではないかと思うのです。

 話をもどしましょう。
 このnoteの課題は、ニート状態になりかけているが、めんどくさくて行動を起こさない(せない)ぼくの息子たちに、何かしてやれることはないか、ということでした。彼らが自ら考えて、次のステップに踏み出すにはどうしたらいいか。めんどくさいのループからどう抜け出せばいいか、ということです。
 オープンダイアローグの考え方でいけば、なぜ踏み出さないんだ!と叱責したり、もっとこうしろ!と説得したりすることでは、人が気付き、考え始めるということはありません。自分のことを振り返ってみてもそれはわかります。「…をしろ!」と言われた途端に、それをするのは嫌になる。それをするのは義務になる。つまり考えることにはつながりません。「もっと考えろ」と言われて、考え始めたことはまずないのです。

 そこで必要なのは、「思いを言葉にする」ということなのではないでしょうか。「めんどくさいの哲学 #5 「考える」と腹の底がスースーする。とは?」で紹介したように、20分間タイマーをかけて、ひたすら書き続けるということも、思いを言葉にするということです。
 言語学用語である、話すこと(パロール)と書くこと(エクリチュール)に、「考える」ことの秘密が隠されている、という気がするのです。


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