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それまで僕は「言語化能力」に憧れすぎていた

前回の記事でレイモンド・カーヴァ―が好き、と書いたのですが、どういうところが好きなのか、を今回は書きたいと思います。

タイトルを先に回収しておくと「言語化能力」というものにひどく憧れていた僕は、レイモンド・カーヴァ―を読んで言語表現についての認識を少し、改めたところがある、という話です。

抑え込まれた感情を表現できる文才を見た

僕が小説を読んでいて「感動」か「感動に類する感情」になる要素の一つに、「感情の抑制をみたとき」があります。

人ってなんか、何か言いたそうな顔っていうのが分かりますよね。何か言いたいけど我慢してる顔、うまく言葉に出来ずにもどかしそうにしている様子。もしくは、泣きたいのを我慢する。怒りたいのを我慢する。そういう様子って見れば手に取るように分かる。

そして誰かが感情を表に出せない状況を見ると、僕ら代わりにその感情を生み出しちゃう機能があるっぽいですよね。強力な共感能力が。

これは創作の場で利用されます。

泣きたいのを我慢している人を見ると泣きたくなってしまう。ドラマとかアニメとか、「抑え込まれた感情」を表す手法というのはよくあると思うけど、僕はまんまと引っかかってしまう。

そして抑え込んでいた感情を一気に吐き出すカタルシスというものも多くの場合は用意されていて、実にあっけなく「感動」させられる。

ドラマやアニメは俳優さんやキャラクターの表情・声などによって「抑え込まれた感情」というものが表現されるけど、文章にもそれはある。

しかし異常に難しいんですよね。視覚情報も聴覚情報も使わず「抑え込まれた感情」なんて繊細なもの、表現するのはほとんど神業だと思うのです。

しかしこれを表現できる文才を持つ人が、この世にはいるようだ、ということをレイモンド・カーヴァ―の作品を見て思い知った。

言語化は矮小化

言語化が上手な人は頭が良いなあ、と思ったことは何度もあって、自分が考えていること、感じていることをうまく言語化できる人になりたいなと十代の後半くらいからずっと思っていました。

多分「言語化」というのは一種のブームだったと思います。

言語化が上手だとバズったりできるらしいです。モノが売れるらしいです。僕は当時ライターとして仕事をしていたので、言語化能力というものは必須だと思っていました。

「みんなが気付いていたけど言葉にしていなかったこと」を見つけて言葉にすることで、実にたくさんの人たちの共感が得られるらしいので、憧れるのは当然だと思います。

言語化が巧みであること、共感を伴う着眼点を持つことは仮にもライターであることも最低条件の一つだと思っていました。

一方で、「言語化」に違和感を持ってもいました。

言語化とは、思考や感情を箱につめて手渡せるようにする作業だと思います。持ち運びしやすくするためのもので、簡単に配るためのもの。

小粋なプレゼントみたいにできれば良いです。しかし基本的にやっていることは矮小化です。

そもそも物事に「言葉」を当てはめることそのものが、矮小化であり、分離化の作業ですね。

分かりやすく伝える。共感できる言い方を探す。それらは一方で素晴らしい能力ですが、一方で、様々なことを切り捨てていることも僕らは知っている。


『大聖堂』のラスト



例えば幼い子が押し黙って何か言いたそうにしている。何か我慢しているような、怒っているような、涙をこらえているような顔をしている。

僕らはそういう人の抑え込まれた感情には敏感で、すぐに分かってしまう。そして必ず原因があることも分かっているから、つい色々と聞いてしまう。

言語化せよ、と要求してしまう。

どうしたの? 何か嫌なことあったの? どこか痛い? さっきのお菓子やっぱり食べたかった? もう少し遊びたかった? 何かやりたいことあるの? 何か怖かった? 眠たい?

みんな少なからず経験あると思います。幼い子の感情に言葉を当てはめて納得したかったことも、大人に色々聞かれてもどれも全部当てはまらなくて、でも当てはまらないわけでもなくて、押し黙るしかなかったことも。

「ある言葉」じゃダメなんだ、誰かが知ってるコトじゃダメなんだ、全部が全部原因で結果なんだ、でも何か適当な言葉で伝えなきゃならないんだ、と思うときのこの、言わば小さな敗北を繰り返しながら、僕らは適当な言葉を獲得していく。

このことに対する反発心がずっとあったことを、レイモンド・カーヴァーの作品が教えてくれました。それこそ、どの作品のどこでどうとは言えないし言いたくないけど。

そして、「そうか、こういう風に素直に、書けない部分は書かず、伝わらない部分は伝えずに書いても良いのだ、出来事と何か感じた自分のことを誰かの都合に合わせて分かった気にさせたりする必要はないのだ」というようなことを思いました。無理やり言葉にすれば。

レイモンド・カーヴァ―の文章が分かりにくいわけではないです。分かるやつだけが分かれば良いみたいな文章でもないです。機微に優しく触れる、声が聞こえてくるような文章です。

昔どこかで経験した言葉にならないけど確実に感じた何かが、パッケージ化されないまま、何かが過ったその瞬間そのままで、表現されているように僕には見えたのです。
 
便宜のため仕事のため、小さな敗北を繰り返して来た僕は、いつしか言語化できる者が勝つと、実感とは真逆の信仰を持っていたけれど、レイモンド・カーヴァ―の小説を読んで、現実的には小さく負け続けているっぽい、惨めな登場人物たちの、巨大な心が守られる文章を見たのでした。

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