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奥山に

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奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき 猿丸大夫

『古今和歌集』秋

(生没年未詳。詳しい経歴は不明。奈良から平安初期に活躍したとされる。三十六歌仙)

小倉百人一首

「せつない鹿の鳴き声響く秋」

 秋。一番せつなく思うのはどんな瞬間だろう?
身分の低い俺は、様々な場所で芸をしながら仲間と旅をしている。あちらこちらで歌を詠むので俺たちのことを「吟遊詩人」と人は呼ぶ。春夏秋冬、いろんな場所を旅してきた。自然は次々に表情を変え、楽しませてくれる。山道の果てに凛々しい梅の木と出会った春。草木に生命が満ち溢れる夏。どこまでも続く雪原のただ白一色の世界に立てば、自分まで真っ白になってしまいそうな冬。

そして、俺が一番好きな秋。赤や黄色、紫の花々が咲き乱れ、野を彩る。山頂より紅葉が始まり、やがて山全体を染め上げる。里の美しさも負けてはいない。黄金色の稲穂、収穫を祝う祭りのにぎやかな装束に音楽。俺たちもここぞとばかりに唄い踊る。食べ物だって豊富でおいしい。俺はなによりも秋が好きだ。

 秋の歌、たくさん作ってみたが、一番美しくせつない秋の景色、どんなものだろう。色づいた山の景色? なにもかも赤く染まる夕方? どれも捨てがたいが、秋ならではのせつなさと言えば……。
 そのとき、俺の耳に鹿の声が届いた。「キュイー! キュイー!」と力強く猛々しい、そして消え入るときに何とも言えないせつなげな余韻を残す声が。そうだ、中国の古い詩にも、古人の歌にも鹿の鳴き声を詠んだものがある。黄色い荻の落ち葉を踏みしめながら歩く一頭の雄鹿。蹄が葉を踏む音。そして、恋しい相手を呼ぶせつなげな声。それだけでは足りないな。その声を耳にして、感情を動かされる人の姿を詠みこもう。遠い奥山で鳴く鹿に思いを馳せ、恋人を愛しく思い出す。その一瞬に秋ならではの切ない光景があるのではないだろうか?

  山の奥深く、紅葉を踏み分けながら妻を恋しく思って鳴く鹿の声を聞くとき、なおさら身に染みて秋が悲しく感じられるぜ




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