『雪見酒』 短歌:天野慶 脚本:岩本憲嗣

■登場人物

 岡野辰之(おかのたつゆき・男・忍<おし>藩士)

 岡野まち(おかのまち・女・辰之の妻)

 田中将吾(たなかしょうご・男・元同心)

<STORY>

 明治二年三月。

 秩父の山里に一人静かに暮すまちの元に田中将吾と名乗る男がやってくる。

 彼はまちの夫である辰之に助けられたと言うと一年前に江戸で起きた出来事を語りだす。

将吾 春に降る雪は積もらず溶けてゆく逢えただけでもしあわせでした

    明治二年三月。山深い中に建つ古びた屋敷。庭先には満開の桜。雨の降るなか将吾が

    やってくる。

    その背後にまちがやってくる。

まち あの……何かご用でも?

将吾 え?あ!そ、その、某(それがし)は……実に見事な桜であるなと……。

まち あぁ……有難うございます。

将吾 その!もしや……岡野まち殿では?

まち え?……何故私を?

将吾 御主人に、辰之殿に助けて頂き申した。

    慶応四年一月。江戸市中の蕎麦屋。

    外は雪が降りしきる。辰之はそれを見ながら一人で酒を呑んでいる。

    そこに将吾がやってきて徳利を置く。

将吾 雪見酒、付き合いましょう。おごりです。

辰之 気が利くな。でもいいのかよまた。

将吾 辰之殿は我が恩人。それに……辰之殿と呑むのは実に楽しいですから。

辰之 俺との酒がか?

将吾 えぇ。時勢に流され私が失ったものを今も変わらず持ち続けておられる。

辰之 へっ。女房放って彰義隊なんかに加わってるのがか?

将吾 羨ましい。私はその逆だ。今を守る為に己が想いを隠すと決めてしまった。

辰之 安心しな。酒の礼も兼ねて代わりに存分に暴れまわってやるからよ。

将吾 それですが……そろそろ潮時かもしれない。新政府の連中いよいよ……。

    目の前の酒を呑みほす辰之。

辰之 美味ぇ。なぁ将吾。ここの酒の美味ぇのはこいつのせいもあると思うんだ。

将吾 切子細工の猪口……ですか?

辰之 こいつをくれてやったら喜ぶだろうな……俺以上の酒好きだ、あの女。

    明治二年三月。まちの家の縁側。

    古びた猪口で酒を呑む将吾とまち。

将吾 いやはや仰られた通り。無類の酒……。

まち まったく、あの人は碌なこと話さない。それで、あの人が恩人というのは……。

将吾 はい。某は江戸で同心をしておりました。ある日私の妻が誤って川に落ちたところを

   辰之殿に。それと……。

まち あの人は頭を使うこと以外なら大抵得意ですから。

将吾 辰之殿は……そう、男が惚れる男です。

まち 何ですかそれ。主人を褒めたところで出せるのは酒くらいですよ。どうです、もう一

   杯?私は頂きますから。

将吾 え?しかしもう随分と……。

まち 弱いですね。酔わないとこう……大丈夫です。訊かせて下さい。そうなんですよね、

   主人のことを伝えに……。

将吾 ……えぇ。一年前。上野で戦が起きました。辰之殿の彰義隊は大敗。その晩のことで

   した。いつもの蕎麦屋の近くで辰之殿にお会いしたのは。

    慶応四年五月。蕎麦屋近くの路地。

    深手を負った辰之がフラフラ現れる。そこに将吾がやってくる。

将吾 辰之殿?辰之殿ではござらんか!?

辰之 よう将吾。どうだ憂さ晴らしの一杯。

将吾 何を言って……それより早く医者に!

辰之 馬鹿。彰義隊なんかを診ようもんなら新政府の連中に目ぇつけられるだろ。

将吾 ならばうちに……。

辰之 人の話聞いてたか。お上が新政府に変わろうがおめぇの役割は変わらねぇ。江戸の治

   安を守る町同心。俺はそれを乱してる厄介者。違うか?

将吾 されど、辰之殿は!!……助けます!

辰之 やめろ!見つかったら勤めを失うだけじゃ済まねぇぞ。

将吾 結構。元々薩長の連中に従うなど……。

辰之 いい加減にしろ。お前は良くても女房はどうする?折角助けてやったんだ。

将吾 それは……しかしここで捨て置けば辰之殿の奥方はどうなります?

辰之 ……は、ははは、確かに。どうなっちまうんだろうな。

    新政府兵士たちの足音が聴こえる。

辰之 やべぇ。おい!さっさと逃げろ!!

将吾 嫌です!!

辰之 ったく、ききわけのねぇ……男だ!!

    辰之、将吾の刀を抜くと自らの腹を一突き。そのまま仰向けに倒れる。

    そこに新政府兵たちがやってくる。

将吾 そ……そんな……。

    明治二年三月。まちの家の縁側。

将吾 私などを庇わんが為に……私は……。

まち あの人らしい……まるで桜、まるで雪。

将吾 え?

まち だってそうではないですか。桜も雪も美しさの只中にあってすっと消えゆく。あの人

   は迷いに囚われるのが好きではないのす。今その時最善と信じるがものに全て捧ぐ。

   それが私であり、将吾殿、貴方であった。

将吾 某は……。

まち 私はそんなあの人が大好きでした。ですから……有難うございます。あの人がそうし

   て望む形で最期を迎えられたこと……わざわざ報せに来て下さって。

将吾 ……違います。報せるだけではありません。私は……これもお渡ししたいと。

    将吾、まちに切子の猪口を差し出す。

将吾 蕎麦屋の主人に譲って貰いました。あの日、辰之殿が仰っていた……。

まち まったく……これ以上呑ませてどうしようってんですかね、あの人は……。

    切子の猪口に酒を注ぐまち。切子細工を空に翳しじっとみつめる。

まち え?

    切子細工に白い何かが舞い落ちる。気が付くと辺りに降っていた雨は雪に変わって

    いる。

将吾 雪見酒……ですね。

まち えぇ……本当あの人は……。

    まち、満開の桜に降りしきる雪を見つめながら猪口の酒を呑み干す。

    空になった猪口にポツリポツリと水が滴る。それはまちの瞳から溢れ出た涙で

    あった。

まち 春に降る雪は積もらず溶けてゆく逢えただけでもしあわせでした

    【終】

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