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「報道制作部ママ」の称号

54歳、この春会社勤めを卒業しました。


定年は誰が60歳だと決めたのだろう。
今でも思い出す、大学4年の春。いきなり何かが降ってきたかのように、就職活動途中でマスコミ業界へ舵を切った。既に活動を始めていた人達とは、かなり水を空けられていたことは分かっていたし、きっと、何をいまごろ?!とバカにされていたことも分かっていたけど、何とも思わなかった。自分の人生だ悔いのないように行きたい。好きな仕事をしたい。ただそれだけだった。

面接会場や企業説明会へ行くたびにそれは強く感じることになったが、構わなかった。時々母や祖母に、へこたれながらも就活に関して面接の練習のように随分夢を語って話して聞かせたことを今でも覚えている。

専業主婦の母からすれば、何とも迷惑な話だっただろう。でも祖母も母も目をキラキラさせながら話を聞いてくれて、背中をいつも押してくれたことに心から感謝している。

 TVの仕事ができれば良かった。「人が喜ぶ仕事は何か?」そしてとりわけ祖母が喜びそうな気がした、TVの仕事は。それだけで何の根拠もなかったが、何かきっと活かしてもらえる。そんな自信だけが支えだった。

バブルの香りが薄っすらと残る就職前線、売り手市場の中ある制作会社への就職が決まった。

希望は番組制作だったが、この業界での可能性や向き不向きなど自分で分かるはずもなく、業界の中の人に判断してもらっての配属だと信じるしかなかった。

最初の配属先は編集。機械を扱うところだが、番組作りになくてはならない重要な部署だった。配属されたところでとにかく頑張ろうと思った。まずは3か月、そして3年…それからいつの間にか30年、だろうか?

いろんなことがあった。仕事は、幸いにも4つの部署を配属転属し、それぞれの部署で重要な仕事をまかせてもらえるまでになった。

仕事以外でも女性差別、セクハラ、パワハラ、体調不良、恋愛、失恋、結婚。産休育休、モラハラ、離婚。職場の人には、いろんな気遣いをさせてしまったかもしれない。いやさせてしまった。経験のない人もいるかもしれないけど、良いも悪いも私はたいていのことは一通り経験したかもしれない。

そして、31年10か月 会社勤めを卒業した。

 いい仕事をして会社をよくするために労働組合を立ち上げ、組合活動を行い、一時期は執行委員長まで担い、会社のプライドを守るのに仲間と必死に活動した。

優秀な後継者を育てては取られ育てては取られ、その後育てる後継者は入れられないとの会社の判断に、もう何の未練もなかった。

辞めるときに一緒に働いてきた仲間に「報道制作部のママ」という称号をいただいた。そうだったかもしれない。働く仲間が元気でいい顔をしていることが、私は何よりも嬉しかったし、少しでもいい職場環境を作ってあげたいと思って働いていたから。

私が就職した頃は、OnとOffとりわけ会社とプライベートを分けることが出来る人のスタンダードのような風潮があって、会社の人は会社の人。プライベートでは関係無い人みたいな。私はその様な人付き合いをあまり好まなかった。会社の人であっても心から接したし付き合い方も変えなかった。

有り難いことに会社の仲間もそんな私に心底心配をしてくれたり、いろんな痛みを分かち合い喜び合うアットホームな関係を築いてくれて、本当に良い会社だったと思う。

たくさんの経験をさせてもらえて、人生の大半を支えてもらい、会社には本当に感謝しかない。

ただ、その会社員生活を支えてくれたのは他でもない家族であり息子であったことは言うまでもなく、これからはそちらへ重心を移してこれまで出来なかったことに自分を活かしたいと思っている。

出来ればOn、Offと分けてしまわず過ごして行けるようにというのがこれまでの人生を経ての感想。

無理のないように頑張る。会社勤めではそれを教えてもらったと思っている。

本当にありがとうございました。
2023.5.2



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