見出し画像

日本のロケット

日本のロケットの開発について振り返りたいと思います。

ペンシルロケット

日本のロケットの先駆者が開発した全長23㎝の極小ロケット

日本のロケット開発の先駆者・糸川英夫が開発したロケットです。半年間のアメリカ生活を終え、1953年に母校東京大学の生産技術研究所でロケットの研究・開発を行いました。ロケットの推進剤には朝鮮戦争時代の火薬を改良しました。また、機体の素材には戦時中の航空機製造用につくられたジェラルミン(アルミニウム合金の一種)が使用されました。1955年4月、日本発のロケット発射に成功しました。直径が18㎜、高さが23㎝のロケットでした。その後、タイプ別のペンシルロケットが開発されました。

画像1

ヘビーロケット

ペンシルロケットに次ぐ小型ロケット

糸川らはロケットの大型化に取り組み、開発されたのがベビーロケットです。直径は8㎝、長さが120㎝、重さが約10㎏と各段に大型化しました。高度6000mまで達しました。

画像2

カッパロケット

「国際地球観測年」参加を目指して

1954年、戦後の国際協力による科学技術の発展を目指してアメリカから国際共同プロジェクト国際地球観測年が提案されました。糸川らは参加表明し、そのために開発されたのがカッパロケットです。8号機は高度200㎞を超えて電離層の最下層に届くことできました。これにより、宇宙観測の範囲が大きく広がり、日本の宇宙開発が世界で大きな注目を集めるようになっていきました。

画像3

その後、順調に到達高度を伸ばし、人工衛星の打ち上げも予定されるようになると、新規射場の必要性から鹿児島県大隅半島にある内之浦(現・内之浦宇宙空間観測所)の射場建設に進みます。

Λ(ラムダ)ロケット

人工衛星「おおすみ」を打上げ、日本は世界で4番目の衛星打ち上げ国となった

1960年に高度1000㎞を目指す「ラムダ計画」がスタートしました。糸川は、衛星打上げを提案し、1965年に高度2000㎞へ到達することができました。1970年L-4Sロケット5号機が人工衛星となる「おおすみ」を近地点350㎞、遠地点5140㎞の楕円軌道に乗せることに成功しました。これにより、アメリカ、ロシア(旧ソ連)、フランスに続いて世界で4番目の人工衛星の打上げ国となりました。

他国が軍事目的ベースで膨大な予算を確保する中、科学目的で衛星を打ち上げた珍しいケースです。

画像4

M-V(ミュー・ファイブ)

高度10000㎞に達するロケットの実現

目標高度10000㎞を目指し開発されたのがミュー(M)ロケットです。M-3SⅡは、Λロケットをそのまま補助ロケットブースターとして活用し、2,3段目を大型化するなど積載量77㎏まで拡大させ、より大きい人工衛星を打ち上げることができるようになりました。全段固体燃料で、地球の重力圏を振り切る惑星間軌道へ送る能力をもったことは他国に例を見ない珍しいものでした。

1981年には、東京大学宇宙航空研究所が宇宙科学研究所として発展的に改組されました。

1997年、世界最大の固体燃料ロケットM-Vが誕生することになります。199年~2006年、低軌道へ約1800㎏の衛星を打ち上げることができるM-Vは、7機が打ち上げられました。

画像5

M-Vが打ち上げられていたころ日本の宇宙政策は大きな転換期を迎えていました。これまで、固体燃料ロケットで成果を上げてきましたが、液体燃料ロケットの開発も行われていました。液体燃料は、宇宙開発事業団により開発されていましたが、成果がでずにいました。2003年10月、国は宇宙開発の効率化として、宇宙科学研究所ISAS(固体燃料ロケット開発)と宇宙開発事業団NASDA(液体燃料ロケット開発)と航空宇宙技術研究所NAL(航空機研究)の3者を合わせて統合しました。独立行政法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)が発足されました。

宇宙開発予算の少ない日本では、液体か固体どちらか一つにすべきという議論があり、問題はM-Vのコストでした。2006年にM-Vは廃止されます。M-Vに代わる固体燃料ロケットとして、イプシロンの開発につながります。

イプシロン

日本の固体燃料ロケットのDNAを引き継ぐ期待の小型ロケット

M-Vの後継機として、日本が得意とする固体燃料ロケットの開発が計画されたのが、イプシロンロケットです。205億円の開発費をもって2010年から本格的に開発がスタートしました。

画像6

N-Ⅰ(エヌイチ)

日本が初めて挑んだ液体燃料ロケット

糸川らが科学観測衛星を打上げることを目的とする一方で、政府は大型の商業衛星を打ち上げるための液体燃料ロケットの開発を目指して1969年、宇宙開発事業団を設立しました。

液体燃料は、燃焼中に出力の増減を調整るすることがメリットです。宇宙開発事業団の設立当初は、専門知識を持つスタッフがおらず、暗中模索の結果、アメリカからデルタロケット技術の供与を受けることとなります。1975年Nロケット初号機の打上げに成功し、1982年まで7回の打上げに成功しました。

画像7

N-Ⅱ(エヌツー)

打上げ技術習得へ

N-Ⅰロケットで打上げ技術を習得した宇宙開発事業団NASDAが挑んだのが、ロケットの大型化でした。N-Ⅰ同様に、N-Ⅱロケットもアメリカのデルタロケットをライセンス生産しました。本体部の直径は、N-Ⅰと同様2.44mですが、打上げ能力強化のため、2段目のエンジンもより推進力の強いアメリカ製にし、1段目本体に外装される固体燃料補助ロケットが9本に増強されました。N-Ⅰロケットより国産化率が下がりました。1981年以降、通信衛星や気象衛星を乗せ8回の打上げを成功させました。N-Ⅰ、N-Ⅱロケットによりアメリカの技術を吸収し、国産化率向上にうけて邁進することになります。

画像8

H-Ⅰ

国産化率UPを目指し、2段目ロケットの国産化に成功

Nロケットの開発を通してさまざまな技術を蓄積し、国産ロケット開発にむけH-Ⅰロケットの計画が立ち上がります。1986年のH-Ⅰ試作機の打上げ成功以来、1992年の9号機まですべて打上げを成功させます。なお、名称の頭文字「H」は水素の元素記号に由来し、第2段の燃料に液体水素を使用することから名付けられました。

画像10

2段目のエンジンの自主開発に成功し、ロケットの慣性誘導も国産技術で開発されました。N-Ⅱの国産率60%から、H-Ⅰは80%~98%程度まで向上させることができました。2段目エンジンとして開発されたLE-5型エンジンの自主開発に成功させたことは大きな期待となりました。液体酸素と液体水素を推進剤とする国産初のエンジンLE-5は、軌道上でエンジンを停止、再点火できるという画期的な性能を持つエンジンでした。

画像9

H-Ⅱ

念願の全段国産化ロケットの誕生へ

H-Ⅰで1段目のエンジン以外の国産化を実現し、H-Ⅱで全段国産化を目指しました。LE-5を大型化し開発したLE-7です。1段目に外装された固体燃料補助ロケットエンジンも国産化に成功し、H-Ⅱロケットは純国産ロケットとなりました。開発費用は欧州アリアン5ロケットの1/3以下の約2700億円で済ますことができましたが、円高により国際市場で価格優位をとることができませんでした。以降、コストの削減を模索することとなります。


画像11

画像12

H-ⅡA

国際競争力を実現した大型ロケット

H-Ⅱの数百万点に及び部材の徹底した点検や再設計、構造の簡素化などによってコストカットが図られたロケットです。打上げ費用は、H-Ⅱの140~190億円からH-ⅡAの85~120億円まで大幅減となりました。

2001年8月1号試験機が打ち上げられ、2003年の5号機まで打上げは順調に進みました。そのような中、2003年10月宇宙科学研究所ISAS、航空宇宙技術研究所NAL、宇宙開発事業団NASDAが、宇宙航空研究開発機構JAXAに統合されました。直後の11月に打ち上げられた6号機は、1段目に外装された固体燃料補助ロケットブースターの分離に失敗し、太平洋上小笠原沖の海中に落下してしまいました。

しかし、2005年に7号機の打上げが成功し、以降すべての打上げが成功しており、通算の打上げ成功率は95%越えとなりました。

画像13

H-ⅡB

ISSへの輸送船HTVを打上げるために開発された日本最大の大型ロケット

H-ⅡBロケットは、スペースシャトルのプロジェクト終了い伴い、国際宇宙ステーションISSへの物資補給手段の確保として開発されたロケットです。輸送船であるHTVは、高さが9.6m、直径4.4mと大型バス1台分の大きさがあり、H-ⅡAを大型する必要性がありました。LE-7Aエンジンを2基搭載させ、1段目に外装される固体燃料補助ロケットを2本から4本に変更しました。ISSへ16.5tの荷物が届けられるようになりました。

画像15

参考
ロケットの科学(ソフトバンククリエイティブ株式会社)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?