見出し画像

『ペパーミント・キャンディー(2000)』を観ました。

イ・チャンドン監督作品は大好きだか見ててツラい。
作品の内容も演者さんも撮影もなにもかもが素晴らしいのだが、人間の中にある「どうしてそこを見せようとするのか」というところをしっかり捉えてくる。そんなもんだから、自分の中にある隠したい感情を、明かりに照らされてハッキリ見せられているようでツラい。
『ペパーミント・キャンディー』はもう何度か観ていたが、今回でデジタルリマスター版(映像が綺麗に)になったということでまた見た。そしてまたツラかった。

いきなり川岸で完全に追い込まれてテンパって(余裕がなく崖っぷちの状態)るオッサンが叫んでいる。それなのにキャンプに集まった人たちは懐かしい同窓会みたいな雰囲気で、軽快な音楽を流して踊ったりして呑気である。追い込まれたオッサンは列車にぶつかる時に「もう一度戻りたい!」と叫ぶ。
そこから時間は巻き戻っていく。過去へ過去へと描かれ、このオッサンがいかにしてここまで追い込まれたのかが明らかになっていくのである。

主演のソル・ギョングが20代の青年から40代の中年男性までを一人で演じたなんてことも凄いのではあるが、ひたすらお話にだけ集中してもらっていいいと思う。過去の出来事を見ていくと、なんでこのオッサンがここまで追い込まれたのかが少しずつわかってくる(最後まで見ればきっとそれがわかるはず)。

私は「本来映画ってのはこういうことを描くものじゃないか」とさえ思ったりするが、そういう直球が投げれる人はなかなかいないし、うまく投げれることもまれだと思う。作る過程でさまざまなことが入りこんで、どうしても曲がってしまうことが多い。
なんとかイ・チャンドン監督の投げる直球を最後まで見届けてみたら、後味はそんなに悪くないと思う(決してよいわけではないけれど)。

人の人生を逆に見ていくので、それが絶望からはじまっても、転落の前の「調子に乗る」という場面がある(この落差で人はシにたくなるのだろう)。ここが見ててしんどい。なにか理由があって、このオッサンは調子に乗っている状態になっているのであろうが、人生うまくいっている時はまわりの人を平気で振り回していることが多かったりする。
『自分は好き勝手やってて、妻には辛くあたる』みたいのは私は見ててツラい。「そんなことしてるから追い込まれるのだ」とか思うが、同時に「何故こんなになったのか?」という疑問もある。結末は絶望とわかっているが、「過去に何があったのか?」がこのお話に最後まで引きつける。

作品中のシークエンスのはじめに、1箇所だけ『1980年5月』と月まで表示されるところがある。韓国の人であればこれでわかるそうであるが、光州事件(1980年5月18日〜27日)があったのが1980年5月である。
主人公はこの日に、民主化運動を鎮圧する側の軍人の一人として、出動する。

光州事件( https://ja.wikipedia.org/wiki/光州事件 )

「この人のことが好きなのだけれど、もう今の自分はこの人にふさわしくないから、この人と自分はいっしょに生きていくことはできない」ってのは切ない話である。
だって、相手のことを思っているからこそそんなことを思うのであって、相手のことをどうでもいいなんて思っていたら、「相手はどうだか知らんけど、とりあえず自分は相手のことが好きだからいっしょになってやろう」とか思うだろう。
「そんなに好きなら、何もかも捨てる意気込みでいっしょになれよ」とか思うが、今作の主人公はそれを選べない。過去にあったある事が鎖のように身体にも心にも巻き付いて、取り外すことができないのだ。それで別の選択をしてしまい(それに巻き込まれた人も犬もたまったもんじゃないわ)、それは確実に本人は幸せとは逆の方向に流されてしまう。

主人公が「もう一度戻りたい!」と叫ぶ。それは自分がまだ壊される前の頃にである。そして可能であれば、過去にあったある事を変えることができればと願う。自分は自分のままで生きていきたかった。自分は自分のままであの人を愛して生きたかった。
いったいどこから踏み外したんだろう? どこから自分を見失ってしまったんだろう? どうしてもこの生き方しかできなかったのだろうか? それとも別の生き方を選ぶことが、もしかしたらできたのだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?