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【映画のパンフ 全部見せ】No.12『七人の侍(1954)』

『七人の侍』の日本公開は1954年4月のゴールデンウィークで、同年度の邦画配給収入ランキングで3位になる興行的成功作となった黒澤明監督作品。
オリジナル版の長さは207分であり、映画館での公開時は前編→休憩5分→後編という形で、インターミッション(途中休憩)をはさんで公開されました。

このパンフは初回公開から21年後の1975年、『オリジナル207分版の再上映』の時のものになります。
(過去に160分の短縮版も作られましたが、現在U-NEXTなどの映画のサブスクで見れるものは、この207分オリジナル版です)

3時間越えでムチャクチャ長いけれど、ムチャクチャ面白く、満足感でお腹いっぱいになる作品です。

クランクイン間もなく御殿場ロケが始まった。中央黒澤監督▲(パンフ2Pageより)

黒澤 明
 活劇というものは、とかく、活劇のための活劇になり易い。
 しかし、人間を描く手をゆるめずに、壮大な活劇を組み上げられたら、どんなに素敵だろう。
 これは、助監督のときからの僕の夢であった。また、時代劇というものを、全然新しい角度から考え直して見る事。
 これもまた、十数年間、僕の頭から離れない大きな課題であった。
 「七人の侍」は、そういう僕の二つの野心からはじまったのである。
(略)

パンフPage03より
平面から飛び出してきそうな躍動感(パンフ7Pageより)

解説
 「風と共に去りぬ」と並んで、そのスケールと面白さにおいて全世界が映画史上最高の傑作と認め「荒野の七人」をはじめ西部劇の歴史も変えたこの「七人の侍」は、黒澤明監督が「生きる」に続き、一年半の日数をかけて昭和29年に発表した作品です。
 封切当時は3時間27分の長編でしたが、その年の秋、ベニス映画祭出品のため監督自身の手で2時間44分に編集、見事ベニス映画祭銀獅子賞を獲得しています。
(略)

パンフPage03より
七人の侍紹介(パンフ4Pageより)

「七人の侍」の記憶と記録
ーーー私のほこりだらけの古いノートがあった
東宝アドセンター取締役 斉藤忠夫


(略)
そこには「七人の侍」の正確なデータが書いてあった。
撮影開始 昭和28年5月27日
撮影終了 昭和29年3月16日
完成   昭和29年4月20日
制作費  2億1000万円
出動人員 3万3000名
馬頭数  3300頭
使用フィルム 13万フィート
上映時間 3時間20分

(略)
「七人の侍」の企画をたてたのは27年の春だった。橋本忍が沢山の剣客伝や武将言行録を漁ったがうまくいかない。最初は剣客伝をオムニバスで描こうとしていたが、黒澤、橋本の二人がある日「失業武士が百姓に雇われる話」を思いつき、しかも戦国時代の浪人と設定したことからはじまった。
(略)
小国英雄の案によって、侍の中にカードのジョーカー役を創作したことによって解決策も考えられ、またはじめから本を書き直しはじめたとか、ジョーカー役、すなわち菊千代である。
頭初剣豪久蔵役であった三船敏郎は、この新しく生まれた菊千代の役に移行したのである。
(略)

パンフPage10より

私がここ高知に移住してから大変お世話になってる方から「映画のパンフレットあげるよ」ともらった数冊の中に『七人の侍』が入っていて驚きでした(他にも寅さんとかもあり、今後載せていく予定です)。

今作の脚本を数人で書くということの凄さが感じられます。書いていって話が進まなくなったり、誰かのアイデアで活路が開いてまたはじめから書き直したり。いざ書き出すと一人の菊千代というキャラクターが、書き手が止めるのも聞かず勝手に動き出して話が転がっていったり。
そうやって出来上がっていった脚本を、監督が一年半かけて撮影して作った作品。

観てて思わず「スゲえ!」と言ってしまうような、生きてる間になかなか出会えない作品と思います。

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