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ノーマライゼーションについての補足

何の話かというと、庵忠名人のこの記事。

こちらの記事を拝読し、自分を守りつつ周囲に合わせて自分を変えながら表現する敬語はやっぱいいな!と一人悦にいっておりましたが、ちょっとノーマライゼーションについて補足したく、コメント欄では収まらなさそうだったので、一つ記事にしました。

障害者を “普通” と違う人と見るのではなく、ごく自然に、そういうこともありうるという意識をもつこと

これは庵忠名人が言っているというよりは長尾達也先生が言っているわけですが、これって文字にすると簡単ですが、とっても大変なことなので一応補足しておいたほうがいいかなと。(出典を全て読めば分かることかもしれません。蛇足ならそれでよかったということで)

会社の雑談で障がい者への虐待のニュースの話になり、同僚は「その人にできることをさせてあげればいいのよ」と笑顔で言っていました。イメージの中だけの話であれば「優しい気持ちがあれば障がい者を受け入れられる」と思っていて構わないのですが、実際に一緒に働いたりすることになったとき、そういう意識で障がい者をとらえていてはお互い不幸になるかもしれません。

例えば、通常の会社が知的障がいの人にできる仕事だけを8時間分用意するのはかなり大変です。知的障がいに対する知識のない会社が、善意だけでやろうとしたら、苦労だけして失敗してしまいそうに思います。

これが精神障害ともなれば、これもまた大変です。
統合失調症で、勤務時間中に幽霊退治に出掛けなければならなくなったり、躁病で自分の発明を商品化するために社長室に乗り込んでいったりする人たちと一緒に働くことを想像してみてください。(就職できるような症状の軽い人ならこんなことはしませんが、決して冗談や誇張した話ではありません)

身体障がいであれば、『こんな夜更けにバナナかよ』という映画をご覧になった方もいると思います。

障がい者である彼が生きるためには24時間ボランティアが必要でした。

『ジョニーは戦場へ行った』なんて映画もありましたね。
日本には昔、見世物小屋がありました。障がい者を見世物小屋に入れるというのは今では人権問題になってしまいますが、昔の時代なりの居場所を与え、収入を確保する方法だったのかもしれません。

江戸川乱歩の『芋虫』なんて本もありました。正直に申し上げてトラウマになりそうな本でしたが、もしその人が本当に身近にいたら「あなたのことでトラウマになりそうだ」というわけにはいきません。

”そういうこともありうる”は、”普通”であることとは違う

誤解を恐れずに言うと、障がい者は障がいを持っているだけの普通の人ではないということです。

障がいをもちながら生活しなければならない人には、同じ障がいを持っていない人からは想像もできない苦労がきっとたくさんあります。想像もできないということは、それはコミュニケーションが難しく、本人は「こんなことを言っても伝わらない」と抑えていることがたくさんあるであろうということです。それを、私だったら分かってあげられる、と安易に思うのは双方にとって危険なので、安全な距離を保ちつつ、少しずつ知る機会、出会う機会を増やしていけたらいいのかなと思います。

人格障害が精神病棟に3人入院していたら、院内が大混乱すると聞いたことがあります。自傷癖のある人を同時に複数は受け入れないようにしているという病院もあると聞きました。

障がいの程度は人によって違うので、ほぼ健常者と同様に生活できる人もいますが、中には専門家でも扱いが大変な人たちもいます。(精神的・身体的ともに)

実は、自分たちが普通と思っているその自分たちはそんなにマジョリティじゃない自分の想像を超えた人たちが実は思っている以上にたくさんいる。それを指して”ごく自然に、そういうこともありうる”というふうにとらえていけたらいいかなと思います。

障がい者教育では『惑星ソイル』という「二足歩行しかできない人間」がマイノリティとして扱われるSFを教材として使っているところもあるようですが、ご紹介できるサイトが見つからなかったので、こちらを代わりにご紹介します。健常者と障がい者が入れ替わる体験ができるレストランです。

最後に、認知症について、介護の現場からリアルな体験を書いてくださっているよしぱらさんの記事をご紹介します。誰もが老いればこんなふうになっていくわけですから、まさしく”ごく自然に、そういうこともありうる”ことですよね。


世界や自分自身をどのような言葉で認識するかで生き方が変わるなら、敬意を込めた敬語をお互いに使えば働きやすい職場ぐらい簡単にできるんじゃないか。そんな夢を追いかけています。