「きみたちはどう生きるか」を観て

 ふと思いつき、昨日大分遅い時間で宮崎駿最新作の「きみたちはどう生きるか」を観てきた。広告をしていなかったにも関わらず、すでにかなり観た人は多いようだが、一方で難解だというような噂もあることを観た後で知った。実際のところ皆さんは何を感じたのだろうか。

 僕は実のところこれまでのジブリ作品よりも殊更難解だとは思わなかった。かなり千と千尋にストーリーの運び方は似ていたように思う。両者ともに、日常からふと異世界のようなところに迷い込み、また何もなかったかのように日常に戻っていくという形である。もちろん本当に何もないのでは意味が持たせられないので、主人公以外は異世界の記憶が消えているのに、主人公だけがその記憶を持ったまま日常に帰っていくわけだ。

(これは余談ではあるが、日常→非日常→(少し見え方の変わった)日常という物語によくある構造は、他の分野でもよく見られるものだろう。お笑いでよく引用される「緊張と緩和」にしても、日常→ボケという非日常→ツッコミで日常に戻る(ボケによる常識の相対化が起こっている)のような形だし、音楽でも協和音→不協和音→協和音(終止に聞こえる)のような構造が多い。仕事の楽しみ方とかにしても、仕事をして帰ってきて風呂に入ったりビールを飲んだりしてリラックスするというようなものも、同じ感じだ。人が気持ちよいと感じるためには、このような仕掛けが必要なようだ。人間の知覚が相対的なものであり、絶対量でなく相対的な変化を感じ取るものであることを考えると、一度緊張させてから弛緩させるという仕組みが必要なのはうなずけることである。)

 千と千尋と構造が似ているとはいえ、テーマまで同じかといえばそうとは限らない。僕にとっては千と千尋におけるテーマの方がよりわからなくて、今回の作品の方がテーマはわかりやすいものであったように感じた。
 千と千尋においては、少なくとも僕にはなぜあの異世界のようなところに千尋が入っていくことになってしまったのかわからない。あの世界が何なのかも、どうしてあんな世界があるのかもほとんど説明がなかったような記憶である。「千と千尋の神隠し」はよりアート的な作品であると思っている。
 一方、今回の作品では、主人公にも母親が死んで義理の母との関係が微妙であったりして、転校先で自分で自分の頭に石をぶつけてそれを自分でわざとしたことを正直に言えない、といった、克服すべき問題めいたことが分かりやすくある。この後者の問題は吉野源三郎の「きみたちはどう生きるか」に多少寄せたモチーフなのだろう。友達との問題で卑怯なことをしてしまう、というモチーフがこの小説には大きく取り上げられている。このように、主人公には異世界に飛ばされて冒険をすることによってより成長すべきであるような背景がすでにある。また他方では、本を読みまくって現実世界に嫌気がさしたような大叔父というひとがいて、主人公が飛ばされる異世界はこの人によって作られたものであったようだ。つまりこの異世界は、現実世界に嫌気がさして理想的な世界を作り出したいと考えた大叔父がそのために作りかえていっていたものだということだ。おそらく元々死後の世界であり、生前の世界であるようなものとして大叔父が表れる以前にもあったはずなのではないかと思うのだが。

 そして物語の最後には主人公はこの異世界を残そうとはせず、元の日常の世界に帰っていく。ひみや、アオサギといった友達と頑張って生きていく、というようなことも言っていた。つまり、結論としては現実世界の理不尽さに呆れて別の理想郷を作ろうとするのではなく、理不尽さを引き受けつつ面白い友達と生きていく、といったものになっているんじゃないだろうか。そしてこのなにやらうようよしたような多様な友達、がでてくるのは色々なジブリ作品の特徴でもあるだろう。こういう点も今までのジブリ作品の総集編のようなところがある。先ほどの千と千尋と構造が似ているという話であったり、ハウルが落ち込んだときのようにお母さんの偽物が溶けたり、火のモチーフや紙に襲われるところなんかも、ハウルっぽいと感じた。特にこの二つの作品のエッセンスが濃く入っていたような気がした。

 現実世界の理不尽さ、と言ったが、理不尽さというか、要は母が死んでしまって義母と暮らしていかなければいけないということに物語の中では象徴的に表れている。その母が「きみたちはどう生きるか」を主人公のために残してくれていた。そして異世界の中で成長していった結果、主人公は義母のことをお母さんと呼ぶことができるようになっていた。これはある意味で「きみたちはどう生きるか」の中で問われているような社会学的認識、というようなもの、人は死に、残された人はそれでも生きていかなければいけない、ということを知り、受け入れるといったことだろう。異世界の中で主人公は捕らえた魚を自分の手でさばいたり、死んでしまったペリカンを埋めたり、生と死の循環のようなものを象徴的に体験していたように思う。

 


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