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シエラの帰還点

 鼻血で汚れた袖口を見て、ここに鏡がないことを感謝した。
 向かってくる拳が見えたとしても、躱すのは無理だったろう。振動する床に体を預けながら、そんなことを考えた。

 閉じた世界には序列が生じる。それを決めるための闘争は避けられないし、ここでそれが起きるのは自然なことだ。なにしろこの機体は一度も着陸せず、七年間も飛び続けているのだから。信じられない話だけど、少なくとも僕を殴った男はそう説明した。
「十二人目」
 手を差し伸べながら男は言う。僕はそれを無視して身体を起こした。
「ここではお前が十二人目だ」
「数が数えれんのかよ」
 差し出されていた手が拳に変わる。左の頬骨が砕けるかと思った。
「数えるまでもねぇ。機内には常に十二人いるんだ。増えもしないし減りもしない」
「矛盾するだろ。僕が増えてる」
「補充されたんだよ。昨日ひとり減ったからな」
 男は片頬を歪めた。
「死んだのさ」

 夜間飛行中にそれが起き、大人たちが忽然と姿を消した。残された未成年者たちは当初パニックだったらしい。それはそうだ。無理にこじあけた操縦室も無人とあらば、墜落の二文字が頭をよぎる。だがパイロットも燃料補給も必要とせずに、機体は飛び続けている。

「君もここへ来ちゃったか」
 それは男から解放され、ようやく鼻血が止まった頃だった。聞き覚えのある声に反射的に立ち上がる。勢いがつきすぎて鼻骨が痛んだがそれどころではなかった。そこに、あの日となにも変わらない彼女が立っていて、物悲しげに微笑んでいるのだから。少し背が縮んだように思えるのは、この二年の間に僕の身長が伸びたからだろう。
「イズミ姉ちゃん。心配してるよ、おばさんたち」
「もう私のいない生活に慣れたでしょ」
「そんなことあるわけないだろ。帰る方法を探そう」
 姉ちゃんはほんの少しだけ首を傾げた。
「君とならやれるかもしれないな」
「なにを?」
「ここのトップを殺すの。例えば、エンジンに放り込んで粉々に」

つづく

電子書籍の表紙制作費などに充てさせていただきます(・∀・)