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#7 音階と言語

武満徹と木村敏の対談を読んで、なぜか思い出した先輩の修論の話から、ソシュールの話へと飛んでしまったけれど

偶然か必然か、こんな一節を見つけた。

ドレミファソラシドという音階は純粋な関係に過ぎず、ドはそれ自体では何の意味も担っていない。しかし示差的である。ドはレではなく、レはミではない。この音階を用いて作曲家が一つのメロディを生み出した場合に、はじめて作曲家の意味志向が分節されて一つの意味が生れる。あらかじめ分節された即自的な意味が存在し、人がそれを発見し、《実質》を用いてそれを表現するのではない。

丸山圭三郎『丸山圭三郎著作集Ⅰ ソシュールの思想』、岩波書店、2014年、p157。

丸山は言語が差異でしかないことを、音階のアナロジーを用いて説明している。

もちろん丸山が言いたかったことは、最初から世の中にドという音が存在した訳ではない、ということなのだろうが

「この音階を用いて作曲家が一つのメロディを生み出した場合に、はじめて作曲家の意味志向が分節されて一つの意味が生れる」

という部分に、武満はどんな反応をするだろう。

武満は「この音階」そのものに、苦しめられていたのだから。

「この音階」で出来る「意味」の「分節」には限界がある。

だから「この音階」そのものを越えていかなければならない。

これを言語のアナロジーへと戻すならば、作家が言語そのものを越えないといけないということだ。

音階と言語。兄弟なのかも。

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