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POST/PHOTOLOGY #0006/トーマス・ルフ《d.o.pe 10 Ⅱ》 ×POST/PHOTOLOGY by 超域Podcast 北桂樹

▷POST/PHOTOLOGY by 超域Podcast 北桂樹



トーマス・ルフ個展@Mai36(チューリッヒ)

2023年、トーマス・ルフはチューリッヒのギャラリー、Mai36にて「negative」シリーズの新作と新シリーズ「d.o.pe」を含む展覧会を行っていた。6月に4年間ギャラリーに預かってもらっていたトーマス・ルフの作品を受け取りについに行くことになっていたのだが、この展覧会が5月末までだったこともあり、会期中にこの作品を観ることは叶わなかった。

しかし、作品受け取りのやりとりを行う中で、アートバーゼルのブース内で少なくとも1点はこの「d.o.pe」のシリーズを展示するということをギャラリーから知らされていたので、かなり楽しみにしていた。

トーマス・ルフは僕の修士論文の研究対象の作家で、ドイツ、デュッセルドルフ・アート・アカデミーの卒業生で、いわゆるベッヒャー・シューレと言われる、90年代、00年代以降のコンテンポラリーアートにおける現代写真を牽引してきたアーティストの一人となる。70年代後半にアカデミーに入り、80年代こそドイツ写真らしい写真というというかモチーフのイメージ化に頼った作品制作を行い、ベッヒャーの系譜を思わせるタイポロジー的な作品を制作していたが、巨大なポートレート作品のシリーズ「Portraits」を創り、ベッヒャースクールのドグマを破ると、NASAからの画像データを活用した「Stars」、個人的な新聞記事の写真のアーカイブから画像を選んだ「Newspaper photos」、湾岸戦争時、連日のメディア報道の映像に登場した暗視カメラの映像を思わせる「Night」、インターネットの普及に合わせて広がるポルノ画像への批評性をもった「nudes」、現実世界から完全に切り離された「入力」によるイメージメイクである「Substrates」、インターネット時代のデータ写真の構造を露わにした「jpeg」と「撮影」を写真表現の「入力」にすることへのこだわりを持たず、僕が修士論文にて定義した「入力-技術的変換-出力」という写真の構造を自覚的に扱いながら、40年という長い期間、現代写真、コンテンポラリーアートを牽引する存在として写真というメディアの内部構造、その領域へと問いを投げかけてきた。写真領域に止まった作品制作を行うため、当然モチーフもあり、何かの写真であることは間違い無いのだが、何が写っているかよりも、どう作られ、どう写真を批評するのかによってシリーズが分かれるところは、

効果が意味を獲得する

レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語 デジタル時代のアート、デザイン、映画』
堀潤之訳、みすず書房、2013年、p. 26

と言われるニューメディア時代の表現を意識的に生きるアーティストであると言える。

トーマス・ルフと私、トーマス・ルフ展

僕は、写真の勉強を京都造形芸術大学の通信教育学部で学び始めてしばらくした2012年にギャラリー小柳と東雲TOLOTで大規模な展覧会を訪れたところから、ルフの作品に強烈に惹かれることとなった。TOLOTの高い天井の空間に260cmの「photograms」のシリーズが飾られていた作品の鑑賞は、当時まだ何もわかっていなかったなりにかなりの衝撃を伴って、受け止めることとなった。同時に開催されていたギャラリー小柳の展覧会も含めてこの時は時間があるとすぐに展覧会会場へ向かうという生活をして、10回近く展覧会を訪れた。今回チューリッヒで受け取ってきた作品はこの「photograms」の作品だ。この年に居てもたってもいられなくなり、デュッセルドルフにも作品を観に行った。

Thomas Ruff《phg 05_Ⅲ, 2013/2014》ed.37/100

その後、2016年から2017年にかけて国立近代美術館、金沢21世紀美術館を巡回する大規模な個展が行われた。この時は初期のシリーズから最新の「press++」まで多くのシリーズが飾られた。自身の初めての個展を経て、京都造形芸術大学の卒業制作を間近に控えていた僕としては、さまざまな刺激を受けに美術館へと足を運んでいた。額装だけ観に行ったり、サイズと展示の高さだけ計りに行ったり、「jpeg」のピクセルの数を数えて、画像の解像度を計算して出そうと試みたりなどこの時は11回ほど展覧会会場に訪れた。TOLOTの時には自覚がなかったが、この時にはすでにトーマス・ルフの作品がかなり好きだったことは間違いない。僕自身の作品シリーズで「Máni」というゼラチンシルバーのモノクロシリーズと「AA+A」というプログラミングによって制作したシリーズの制作の順番はベッヒャー以降の現代写真の歴史そのものとも言えるトーマス・ルフというアーティストの歴史の影響を受けて決めたのだ。

2018年に大学院で研究をスタートし、研究対象を誰にするのかということを考えた時、かなり悩んだが、トーマス・ルフしかいないと思いヴィレム・フルッサーの思想を下敷きにしたトーマス・ルフ研究をスタートした。作品が好きすぎるが故に、やや躊躇するところはあったが、結果的にスタートした時点で多くの作品を観てきていたということは圧倒的に研究を進める上で有利に働いたのだった。

その後、ARTSYのオークションで作品を購入したり、ギャラリーに作品を探してもらったり、アートフェアで作品を探し、作品集も買うなどルフに対する興味はいまだに尽きることはない。僕自身の現代写真に対する研究の前半戦の加速の時期は間違いなくトーマス・ルフ作品に対する情熱によって作られたものである。故に博士論文でも修士論文での内容を外すことができず、そこからスタートしたことで全体に軸が通ったと言える。

トーマス・ルフ《d.o.pe 10 Ⅱ》@アートバーゼル

今回紹介するのはそのトーマス・ルフの作品で「d.o.pe」というシリーズになる。作品はこれまでほとんどの作品の制作を「印画紙」という極めて写真的なメディウムを使用することで、写真という領域内から写真というメディアに対して批評的に作品を提示してきたルフがカーペットにイメージを出力した作品として提示している。フランスの数学者ブノワ・マンデルブロ(Benoît B. Mandelbrot, 1924-2010)が提唱した「フラクタル」という幾何学構造が作品のイメージを構成している。自然世界に出現するパターンの連続性がそれにあたり、氷の結晶の構造やシダ植物の構造、カリフラワーの一種であるロマネスコの構図、山や海岸線、雲の構図、生物の血管の構造などがそれにあたる。全体像の一部を拡大すると同じような構図が拡大された一部においても構造化されている。

Thomas Ruff《d.o.pe》@Art Basel Mai36 Booth
筆者撮影

ルフはこのマンデルブロ集合を専用のアプリケーションによって作り出し、それらを重ね合わせることで、人工的にこの「フラクタル」の世界を再現している。そうやって作られたイメージがベロア地のカーペットに出力され、タペストリーとして壁にかけられているのが今回の《d.o.pe 10 Ⅱ》という作品を含む「d.o.pe」というシリーズになる。

Mai36のブースに言われていた通り、入口正面に飾られていたのが《d.o.pe 10 Ⅱ》になる。支持体はカーペットになっていたとしても、ルフらしい高さ267cm、幅200cmに及ぶ大型作品。葉のようにも貝殻の様にも見える五角形に近い模様によって画面全体は構成されている。大まかに、画面の四隅は大きなもので構成されそこから画面全体へ広がっている。大きなものから小さなものへと続く連続は「流れ」のようにも見える。細かくなったところは大きなものが前景とすれば遠目には背景の様にも思えるが、幾何学パターンが細かくなっただけで、同一平面上に「在る」。さらには、大きな模様の中にはこのイメージ全体のような「フラクタル」の雲模様が広がる。

このMai36ブース以外にも同じシリーズの作品が1点、後日行ったエマニュエル・ホフマン財団の倉庫であるシャウラガー美術館では3点の同一シリーズの作品が今回観れた。

Thomas Ruff《作品名不明》@アートバーゼル
筆者撮影
Thomas Ruff《d.o.pe 07》《d.o.pe 01》《d.o.pe 09 Ⅰ》@シャウラガー美術館
筆者撮影

「d.o.pe」

一部モノクロームのものもあったが、基本的には鮮やかな緑や赤、オレンジ、紫といった色によって鮮やかに彩られた「フラクタル」はどこか原始の植物のような「サイケデリック」な美しさをもって、定着させられている。この作品は、イギリスの作家、オルダス・ハクスリー(Aldous Leonard Huxley, 1894-1963)が幻覚剤メスカリンの治験者となりその体験を記した『知覚の扉』という書籍を参照した作品と言われており、「サイケデリック」という言葉はハクスリーと英国人の精神科医のハンフリー・オズモンド(Humphry Osmond, 1917-2004)との文通の中で生まれたものである。その後、幻覚剤による幻視体験に見られる光景は「サイケデリック」と呼ばれるようになった。薬物や薬物中毒者を示すスラングをもじった「d.o.pe」という作品タイトルはそこからきていると考えられる。作品名の《d.o.pe》の後の数字はおそらくフラクタルの種類、つまり幾何学模様の種類であろうかと思う。確認した限りではその種類は01,03,06,07,09,10,11というものが存在している。その幾何学模様の中でいくつかのバリエーションがあり、アラビア文字で数字が後に追加されることで作品は分類されている。

わたしたちの脳は、記憶をもとに世界をパターン化して認知する「知覚の恒常性」によって制御されているが、幻覚剤はその制御機能を低下・バイバスすることで、ありのままの世界の姿を受け止める様に機能するといわれる。ハクスリーとオズワルドは、その時知覚する幻視体験を「サイケデリック」としたのだった。視覚領域で認知すべき情報が聴覚領域に流れ込んだりすることで、色が聞こえたり、音が見えたりといった幻覚症状があり、ちょっとした当たり前の出来事から無尽蔵に意味を見出してしまうようなことがあったようだ。そこには一種の「悟り」の様なものがあったとされ、それまで分からなかかった真理の様なものが「わかった」ように思えたりしたそうである。その意味において実際はどうであったのかは置いておいたとしても、世界を「深く深く」知れると感じる体験が「サイケデリック」な幻視にはあったと言える。

「フラクタル」はどこまでも続く、自然世界の幾何学構造であり、世界の構造の真理のようなものである。それを色鮮やかにサイケデリックに見せることで、『知覚の扉』におけるサイケデリックな世界を示したというのが「d.o.pe」なのだろうと思う。一方で、この「d.o.pe」は数学的に構築された人工物でもある。ルフはかつて「xycles」というシリーズでマクスウェルの数理曲線をコンピューター内の仮想空間にて再現し、それをヴァーチャルなカメラで撮影することで「数式」というものを表象してみせた。その対象が方程式である以上写っているものには過去も現在も未来もない。写真が過去を写すというある種の思い込みを作品によって乗り越えてみせ、写真を「時間」から解放してみせた。面白いと思うのはこの「xycles」はルフ作品の中でもめずらしく、キャンバスへのインクジェット出力によって仕上げられており、前述した日本での個展の時のトークショーでこれは作品なのか?と問われた質問に対し「カメラのアングルを決め、撮影はしている。でも、どうなんだろうね?」といったようにはぐらかしたということを聞いた。「d.o.pe」もまた、数式、アルゴリズムを表象化した数学的世界のイメージである。そして、今回もこの作品の仕上げをカーペットというルフとしては珍しく「印画紙」以外の支持体、メディウムを選んで作品化し、提示している。

ルフがどういうつもりでこれを「印画紙」以外の支持体によって示したのかの真相はわからない。ただ、「ポスト・フォトグラフィ」を「写真変異株」という概念によって考え博士論文を書いた僕としては、ルフの中での変異による「写真変異株」として考えられ、入力が数学的世界であれ、「これも写真だ」と思う。カーペットという支持体はより、イメージを具体的な世界と結びつけ、手触りが奥行きに対してリアリティをもたらす。それはイメージが均一な単なる表面ではないことを感じさせ、解像度とはちがう世界の「深さ」を作る。見えないが、この奥にも同じ構造があるのだという想像力がはたらくのだ。それが「フラクタル」という無限に続く幾何学構造を示すのに適していると思えた。

おそらく、本人に尋ねたとしたら、「どうなんだろうね?」ってまた答えそうな気がする。だから面白い。オブジェクトとしての写真の部分も確実に表現の領域として活用されている。トーマス・ルフはやはり今後も重要なアーティストだ。

まとめ

  • トーマス・ルフの新作「d.o.pe」は「xycles」以来となる数学的世界、つまり数式、アルゴリズムそのものが対象となった作品である。そこには写真的な「時間」というものは存在しない。

  • ある意味でCG(コンピューターグラフィックス)とも言えるイメージメイクの方法を選択し、世界のある側面に関する視覚的提案をしてきている。出力している支持体を「印画紙」ではなく「カーペット」というものを選択している点は、テクノロジーの進化による出力機械の進化という点もあるだろうが、あえてこの作品に当て込んできているところには見た目以上の何かしらの意味を感じる。

  • これが写真じゃないとしてしまうことは、今後発展するであろうweb3以降のパラレルワールドにおけるイメージメイクそのものを否定するようなものである。ある意味でどうなるか分からない世界だが、その構造がポリゴンからフラクタルになって自然発生するようになったら、その時その場所から切り出したイメージは現実世界であるここで作ったイメージと何がちがうと言えるのだろうか?そのあたりをどう否定せずに取り込んでいけるのかが写真家の仕事のひとつなのだろう。

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