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クイズ王の末路

( クイズ王に過ぎないはず )の学歴信仰。 未だに社会を覆う宗教。

学力・偏差値というのは、喩えば、刃物の切れ味。能力値と言ってもいいが、包丁の切れ味の値を示している、つまりツール( 道具 )の話である。

この包丁を、優れた料理人が魚に使えば、より旨い刺身が我々に供される。 人殺しに使えば、一刺しで絶命である。

こういう「馬鹿と鋏は使いよう」のような話は、ツール(の性能)にすぎないものをあたかも人間の質、人格のように錯覚するところから過ちが起こる。優秀な頭脳という持ち道具を、いったい何に使うのか?

そもそも人は何のために勉強するのだろうか
贅沢な、いい生活を自分及び肉親者らがするため。その頭脳や知識をそれだけのために使うのか。たとえば議員や官僚や学者らは、どうなのだろうか。もっと崇高な目的を抱いてはいないのだろうか。

どうやって儲けようと自由であるが、他人の不幸などは興味なし、どれだけ悪辣でも犯罪紛いでもいいから金を稼ぎたいという高偏差値の人間がいたならば、これはその勉強・能力が、他者の迷惑へと直結するかもしれない。
それが特殊詐欺でもIT課金でも財務省の悪巧みでも、有能な頭脳の結実が何なのか?が問われるのは当然である。

その意味で、学歴・経歴信仰のアホらしさにほとほと涙が出る想いだ。
木原官房副長官や松川るい議員なども見ていても、つくづくそう思う。
少し前は三浦夫妻の驚くべきエゴイズムが世間を賑わせた。呆れる事例はその他、枚挙に暇なしだ。
華麗な経歴からは微塵も察することができない、その人格のおぞましさ、身勝手さ。 しかしそれもそのはず、たまたま彼らの持つ〝道具〟が優秀だった、というだけの話であるのだから。ハナから人間性とは無関係である。

このくらいの話は当然、学校で家庭で、勉強させようとしている側の指導的な立場の大人が、生徒・学生に繰り返し説き聞かせているはずなのだが……。

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