小休止 # 12 - 自分語り -

文章を書く時、心をざぶざぶと洗濯している気持ちになります。

そして、どんな内容でも、とっても痛い。

ちょっと怖い表現になってしまうのですが、心臓を取り出して裏ごしして、真っ赤な部分を全部洗い流して白に戻していく作業に近い。

鬼気迫る勢いの割には、文章が柔らかくて、「 私ってアンバランスだな 」と、思ったりもします。

周りの評価が気になるので、自分語りってあまり得意じゃないんだけれど、今日はちょっぴり挑戦してみました。
( でも、発信源が自分なんだから、みーんな自分語りじゃない?自分のことどんどん話して欲しいなあ、私の世界もちょっとずつ変えたいもの。と考えたりもしています )

皆様には、苦手なこと・嫌なことってありますか?
それは自分に向いていることですか?外に向いていることですか?
きっと、どちらも皆それぞれの相応な数量抱いて生きていると思います。

私自身は、自分に向いているものが多いかなって考えています。
あんまり、相手にされて嫌なことって実は無いって最近気づきました。
だって、私が「 うっ 」って思ってしまうことって、自分が持っていない物事を当たり前に謳歌している人を見て「 羨ましい 」から「 自慢してみっともない 」とか「 私だって頑張っているのにずるい 」から「 人の気持ちを考えないのか 」って思っているだけだもの。
比べちゃいけないのに、そもそもそういう性格じゃないのに、そこにアンテナを立てていないと、将来損したり置いてけぼりを喰らってしまいそうで怖くなって、無理に舌打ちしながら生きているだけなんだなあと思います。

思っているけど、すぐに治らないの。
でも、とってもとっても自分をいじめているようで辛い。
だから、ゆっくり自分と話し合って見つけていきたいなあと思い切り悩んでいます ( なるべく他者に迷惑をかけぬよう… )

自分の感じた気持ちの元を純粋に紐解いていくと、シンプルなところにたどり着くので、文章を痛みを感じながら書くというのはいいことだなあと思います。
そして、それを公開するというのは、リアルな側面で影響し合っている人たちの目に触れる可能性が少なからずあるため、丁寧な表現になっていく。言葉遣いが、自分の好きな届いて欲しい色合いになる。
( 私は自分の言葉を、雑誌 " リンネル " 被写体のような色彩だと信じている )
結局、書き手は読み手の感受性を信じて発信をするのですね。
でも、それは、自分の発信を信じる=自分を信じる・大切にする、ということに繋がっていると思うので、素敵なことなのかなって感じます。

そういう背景があるためか、人様の文章も、小説よりエッセイを最近よく読むようになりました。
「 想像の森 」の中に、自分や物事の本質を託すのもとっても素敵だと思うけれど、「 現実の空気 」と宣言した上で、それらを風に託す方が、人間臭くていいなあと思ったんです。

いつか、私の空気とそれぞれの空気が、風の中で混ざり合って、もっと深く新しい、互いが作用し合う環境になればいいなあと思います。
そうすれば、誰かの世界に、私の居場所もきっと作られていくのではと期待します。

エゴがあっても、人間らしくて、いいじゃない。



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