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安楽死と尊厳死への私見

 数年前に「母の身終い」という安楽死をテーマにしたフランス映画を観た。脳腫瘍に冒され余命幾ばくもない母親がスイスでの安楽死を決意するが、それに反対する息子との葛藤が描かれる。そして、母親は自分の意志を貫きスイスへと向かう。彼女の凜とした佇まいが印象深い映画だった。

安楽死が認められている国

 現在、安楽死が認められている国は、上述の映画でも描かれた自殺幇助団体による安楽死が行われているスイス、00年代に相次いで安楽死法が成立したオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、それに2016年に医師による自殺幇助が合法化されたカナダなどがある。

 これらの国はいずれも、個人の人権が尊重され、民主主義が根づいている国であり、社会福祉も行き届いていて1人当たりGDPも高い欧米の先進国だ。

 私はこのように個人の意志が社会によって最大限に尊重されている国における安楽死の選択を支持する。自分の問題として考えてみたとき、自分がもし不治の病や難病に侵され、生き続けることが苦痛以外の何ものでもなくなったら、安楽死を望むかもしれないと思うからだ。私は自殺願望に取り憑かれたことはなく、むしろ生への強い執着を持っている人間であるが、それでもなお生より死を望む状況はあり得ると思うのだ。

日本で安楽死が認められるか?

 翻って、では日本で安楽死の法制化を進めるべきかというと、私はこれは絶対に認めることができない。なぜなら、現在の日本は上述した安楽死が認められている国々のように、個人の人権や主体性が尊重される民主主義の根づいた国ではなく、社会福祉も貧弱ですべての人が望む医療を充分に受けられるわけでもない。

 こうした社会では、病気に苦しむ人が安楽死を望むからといって、それが本当にその人の自由意志に基づいた何ものにもとらわれない選択であるとは限らない。介護する家族の精神的・肉体的・経済的負担を気遣ってとか、先進医療を受ければ病状が好転したり、苦痛が緩和されるかもしれないが、経済的にそれができないから、といった理由も考えられる。

 あるいは優生思想的な考え方、即ち、「高齢者や障がい者は社会のお荷物だから、さっさと死んだ方がいい」といった社会的風潮や「世間の目」が、安楽死の意志決定に何らかの影響を与えることも考えられる。

 つまり、「個人の自由意志」といっても、実は本当に自由な意志による決定ではなく、その人をとりまく様々な環境要因が作用していることが否定できない以上、安楽死は結果的に「社会による死の強制」になりかねない。こうした社会で安楽死を認めれば、本来、「個人の自己決定権に基づく自由な意志決定」であるはすの安楽死が、それとは真逆の「国家や社会による『生産性』のない『社会のお荷物』たる人々への死の強制」として利用されかねない。

安楽死に便乗した「障がい者狩り」事件

 すでに報道されている通り、安楽死を望むALS患者に薬物を投与して殺害したとして、医師2人が嘱託殺人の容疑で逮捕された。この2人は『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術:誰も教えなかった、病院での枯らし方』という電子書籍を執筆して高齢者を病院で殺す方法を披瀝していたほか、ブログやSNSで、高齢者に医療費を使わずにさっさと死なせろというような主張を繰り返していたという。

 この事件で多くの人が指摘しているように、彼らの「思想」は2016年に起きた相模原事件の植松聖のそれに通ずるものであり、個人の自己決定権の尊重に基づく欧米の安楽死容認とは無縁どころか、真逆の高齢者・障がい者抹殺にほかならない。こうした事件が相次ぎ、ネット上にもそれを支持する言説があふれるような国では、残念ながら安楽死は認められないだけでなく、その議論をする余地すらないと断ぜざるを得ない。

尊厳死とリビング・ウィル

 安楽死と似た概念に尊厳死がある。安楽死が積極的な「自殺幇助」であるのに対して、尊厳死は延命措置を施さないことによって、死にゆく人を苦痛から解放し、死を早めることだ。そして、尊厳死を望む者は、あらかじめリビング・ウィルを書いて、もしそのような状況に直面したとき、延命措置を望まない意志を明らかにしておくことによって、その意志を遂げることができる。

 尊厳死についてもいろいろ議論があるとはいえ、安楽死と違って現在の日本の法制度においても自殺幇助などには当たらず、医師の裁量の範囲に属する医療行為と見なされる場合が多いようで、終末期医療や高齢者医療の現場ではリビング・ウィルを患者に積極的に推奨するところもあるようだ。

 確かに尊厳死においても、安楽死で指摘したのと同様の問題がつきまとう。つまり、「自分の意志」といいつつ、実は介護する家族を気遣ってのものであったり、高齢者医療削減を求める世論や国の政策圧力に影響されることも考えられる。

 ただし、家族のことをいえば、数年間続く介護生活と違って、最期のときに延命治療することに関しては、本人がそれを望まなくともむしろ家族がそれを望む場合が多いようだ。(家族でも、生活をともにし介護をしてきた家族よりも、遠くで暮らす家族の方にその傾向が強いそうだが……)

 自分自身のことをいえば、実は私も50代後半に至ってリビング・ウィルを書くようになり(今日まで何回か書き直している)、今後、死に至る状況に陥り意識の回復が望めない場合、延命治療(胃瘻、水分補給、人工呼吸器等)を望まず、苦痛を緩和する措置を求める旨の意志を書き記している。

 根っからの個人主義者で、家族を思いやる気持ちはあっても、自分の望む最期を迎えたい私は、もちろん国や社会の意向を忖度する気などは毛頭ない。それに、リビング・ウィルを書くような人は、現在のところ、自分の人生や死に真剣に向き合い、よりより死に方を模索している人が多いと思うので、家族とは事前によく話し合っておくことはあるにしても、国家や社会を忖度してリビング・ウィルを書く人はあまりいないのではないだろうか。国(厚労省等)がそれを積極的に推奨するようになったら、そのときはよく考えてみる必要があるだろうが……。

命の質と量の問題

 2、3年前に仕事で開業医らの話を聞く機会があったとき、こんな話を聞いた。葬儀屋がよくこんなことを言うそうだー昔は老衰で亡くなるようなお年寄りは老木が朽ち果てるように痩せさらばえて棺が軽かったものだが、最近のお年寄りはずっしりと重い、と。つまり、やれ胃瘻だ、点滴だと水分を補給し続けるものだから、死ぬまで体重が落ちないのだ。老衰すると自然と食も細くなり水分もそれほど求めなくなって、限りなく自然死に近いかたちの死を迎えるのだが、延命治療をすると、かえって最期のときを苦しませて死ぬことになるのだ、と。

 今の医療、とりわけ高齢者医療において、命(生活)の質を担保するのではなく、単に時間的に長生きさせることを自己目的化した「延命治療」が行われていることは確かだろう。それを一概に、「すべての命は大切だ」と叫んでみても空しく響くだけだし、当の高齢者自身の幸せにもつながらないだろう。

 先頃、大西つねき氏の動画がSNS上で問題になった。私は彼の政治を志す者としての「命の選別」発言を絶対に認めることはできないが、全体を通して聞いてみると、このような終末医療や高齢者医療における死に関する問題意識もあってのことかと思わせる点もあり、その点は一考に値することだという感想を持った。

どう死ぬかはどう生きるかの問題

 いずれにしろ、人の死の問題は生き方の問題でもあり、生き方の問題の最終問題が死に方の問題であるともいえる。私のような徹底した個人主義者は、何者にも干渉されずに自分の生き方を追求したいし、またそうした人生を歩んできたつもりでもあるので、死に方も何者にも干渉されず自由に選びとりたい。そして、私のような個人主義者でなくとも、人間誰しも、本音ではそう思っているだろうし、そう生きてそう死にたいのではなかろうか?

 そしてまた、これからの政治に求められることは、個人の生活に干渉したり、人々の大切な人生を左右することではなく、誰もが生きたいように自分の命を全うできる社会、自由に生きて最後はその人らしい死を自然に迎えることのできるような社会を実現することなのではないのだろうか。

 安楽死も尊厳死も、そのような社会ではごく自然なこととして尊重されるだろうが、残念ながら、重ね重ね、今の日本社会と政治のありようは、それとは180度反対を向いているといわざるを得ない。

(参考)ALS患者に対する嘱託殺人事件報道に関する日本尊厳死協会の見解


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