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8.いつでも最初で最後


今日は息子の誕生日。
十数年前の昨日の今頃(夕方)は、破水からの陣痛がはじまったころで、
十数年前の今頃は、出産後の疲れも忘れてしまうくらい、初めてのおっぱいやらオムツ替えやらであわあわしながら病棟で過ごしていたんじゃなかっただろうか。

そんな暇などあるわけがない、なんてわからなくて
入院中は本でも読もうかなあなんて、悠長な気分で持って行った分厚い小説はいまだに読めてない(笑)


息子は一人っ子。
がんで子宮も卵巣も全摘したので、年齢的にも物理的にも次はない。
だから、息子とともにする経験はいつでも、最初で最後。次はない。

もちろん兄弟がいても、毎回同じ経験をするわけじゃないと思う。
わたしには妹がいるので、同じように育ったはずの兄弟姉妹でも、性格も育ち方も違うのはわかっている。

だけど、
新生児の首がすわらないってこんな感じだったなあとか、自分を求める小さな手や声とか

ああ、こんなんだったな。って、我が子で追体験をする機会はわたしにはもうやってこない。

毎回毎回が、手探りの一発勝負。
その経験はときに煩わしく、だけど、とても甘美だ。


保育園の書類記入やオムツや布団への名前つけとか
小学校の授業参観や役員活動とか
中学からはじまったお弁当づくり、受験にむけての親子面談とか

おかあさんやってるな、わたしっていう体験が
毎回新鮮で楽しかったりするんだよね。
だって初めてっていつでもドキドキじゃない?


人生の意味とか役割とかそんな大層なもんなんて、あるわけない。と思いながら生きてきたのに

息子が生まれたときに
ああ、わたし、この子に会うために生まれてきたんだ。
もし、わたしの人生に役割があるのであればきっとこれなので、もう半分は果たしたからあとの半分は育てることと、自分の好きに生きることにしよう。って思ったんだ。

母の日になるたびに
そして誕生日がくるたびに思い出す
わたしのあのときの後悔と懺悔を握りしめながら
(ブログに書いているので、そのうちnoteに転載します)

葛藤と迷走と愛情と母親ならではの丹力(なんかそういうのあると思うんだよね)をお供に「最初で最後」を飽きるまで味わいつくそうと思う。


わたしはずっとわたしのために生きてきたけれど、
そして、多分今もそうだけど、
それでも、誰かのために一生懸命になれる
その最たるものは、わたしにとっては子育てだったみたい。

いつでも最初で最後だから。



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