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映画「怪物」クイアをめぐる批判と是枝裕和監督の応答(記事)を読んで

是枝裕和✕坪井✕児玉鼎談(抜粋)
朝日新聞デジタルRE RONより


【是枝】あの少年たちと同じような状況の子たちへの勇気づけとか、寄り添って肩を抱くみたいなスタンスはおこがましいと思ってしまう。それはテレビのドキュメンタリーをやっている時からそうで、むしろ弱者に寄り添って分かったつもりになることを回避したいと思ってきた。

【坪井】けれど、「マイノリティ当事者を描いた作品をつくる」のであれば、本編に描かれた者と同様に弱い立場に置かれている者たちが作られた映画をどう受け取るかというのと向き合い彼らを“まなざす”ことと、自分はあなたたちに決して差別の矛先を向けない、敵にならない、と明らかにするのは最低限必要だと思います。「これはクイア映画でもある」と表明することは、「あなたたちを透明化しない」というスタンスの明示になり得る。
私たちは誰もが別々の存在だから、完全に分かり合うことは無理だし、個のつらさや経験はその者だけのもので、他者が勝手に代弁してはならない。だからこそ、分かったつもりになるのではなくて、分からないこそ尊重する、のが重要だと思います。

【児玉】クイア映画には固有の歴史や文脈があるので、それをやろうとした時に、既存のスタンスが汎用できないことはあると思います。是枝さんは自分はマジョリティだからクイアの立場で何かを代弁するのは傲慢だと考えているのは分かりますが、その誠実さとしての1線を維持したまま、これは性的マイノリティのあなたたちの物語なんだ、ということはできる。これまでマジョリティを自認する作家たちはあまりにも、「あなたたちの物語」ではなく「みんなの物語」だと言い過ぎてきたように思います。
「クイア映画」を「普遍的な映画」と称することがなぜ危ういかというと、物語を彼らのもとから奪って、「普遍」とされる自分たちマジョリティの枠組みに押しやってしまっているからです。


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私は、ツイッターでゲイを自認されている方に「私たちも同じだ」という言葉をかけて決定的に理解されていないと傷ついてしまわれた経験を持つ。
分かり合うことは不可能であり、「私たちも同じだ」という言葉がマジョリティ側から発せられるときに、マジョリティの物語の枠組みへと押しやっていることにこの鼎談で気づかされた。
でも腫れ物に触るように避けるのではなく、こんな経験も重ねながら共に生きていけたら、と思うのはまたマジョリティの傲慢な夢なのかもしれない。
なぜなら、このような経験はマイノリティ側に消えることのない傷跡を残すことがあるのだから。包摂とは何を以って包摂なのか。彼らを「透明化」しないためには、何が必要なのか?私たちが分かっていないことに謙虚になること以外に道はなさそうだ。


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