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レバノン内戦の記憶

レバノン生まれ、パレスチナ人で、ムスリムの父を持ち、クリスチャンの母を持った友人。レバノン内戦時にムスリム側で闘った。その友人から聞いた話。

レバノン内戦が勃発する1年前、いつ戦争が勃発するか気運が高まっていた。学校では、カラシニコフを闘うことがいかに素晴らしいことが、学んだ。家でも、カラシニコフを持って戦うことが、名誉あることだと言われた。

父親はパレスチナ人、母親はレバノン人でキリスト教徒(マロン派)。当時、ベイルートのマロン派キリスト教徒が多く住む、アシュラフィーエに住んでいた。内戦勃発後、彼は父方のイスラム系グループに属し、戦線に立った。いまは、ダマスカスロードと呼ばれる、グリーンライン。内戦中は、スナイパーが目を光らす、キリスト教徒とイスラム教徒対立の最前線だった。彼は毎日、グリーンラインに行き、イスラム教徒が多く住む地区から、自分の家があったキリスト教地区へ、攻撃した。帰宅すると、家が、自分が属するイスラム系グループからの攻撃により、破壊されていることもあったという。

(ベイルート:内戦の傷跡が生々しく建物は、いまだ多く存在する)

近所の人からは、お前はキリスト教徒だ、と言われてきた。パレスチナ人ではない、キリスト教徒だと。家では、フランス語ではなく、アラビア語で会話をしていた。すると、キリスト教徒なのだから、アラビア語で話すなと言われたという。

内戦前から、そのような状態だったから、内戦中はさらに近所からの目が、厳しくなった。

宗教対立の色が濃く出た、レバノン内戦。両親は、離婚した。キリスト教徒の母親は、自分の息子が、敵であるイスラム教徒側に立ち、キリスト教徒を攻撃することが、受け入れられなかった。その後、父親も、兄弟を連れ、オーストラリアに避難した。彼はただ一人、レバノンに残り、家族や親せきからの助けもなく、闘い続けた。それが正しいと、信じていた。

(ベイルート:破壊された建物に住んでいたり、一部はお店になっていたりする。ここは隠れた、有名なアイス屋さん)

レバノンで公式に認められている宗派は、18ある。内戦が激化するにつれ、キリスト教徒同士、イスラム教徒同士でも対立するようになった。彼自身も、昨日まで一緒に戦っていた別のイスラム教徒グループに拉致され、あるいは繰り返し他のグループに引き渡され…といったことを、経験した。それでも、闘うことを止めなかった。戦争が、レバノンの問題を解決する唯一の策だと、信じていた。死を恐れず、闘うことに高揚していた、と当時を振り返る。

戦闘に疑問を持った転機が、2回あったという。

1回目は、敵の戦闘員を拘束し、仲間が殺害しようとしていたその場面を、通りかかったとき。その敵の戦闘員の姿が、自分の兄弟にそっくりだったという。彼は仲間に、この敵の戦闘員を撃つのであれば、自分は仲間を撃つと言い、処刑をやめさせたそうだ。

彼はその戦闘員と、内戦後に偶然道端で再会したという。けれど、お互い声をかけることもなく、その場を去った。「戦いが、人々の記憶に根深く残したものは深いと、感じた」

2回目は、第2次世界大戦のエピソードでも聞いたことのある、シチュエーションだった。

彼の名前は、典型的なキリスト教徒の名前だ。ある日、前線で彼の仲間が、彼の名前を呼んだ。すると通りを挟んで、彼の側を攻撃していたキリスト教徒グループの戦闘員が、反応をした。キリスト教徒の名前を持つ人間が、反対側(敵、イスラム教徒グループ)にいる、と。

彼の名前を聞いたキリスト教徒の戦闘員は、彼に話しかけた。そして、こっちでお茶を飲まないか、と誘ったという。銃を持ち、通りに出てきたそのキリスト教徒の戦闘員の姿を見て、安全だと確信し、彼も会いに出た。そして、飲みながら、食べながら、語り合ったという。

「そのとき、初めて敵の姿を見た。敵は、自分と同じ人間だと、その気はじめて気が付いたんだ」

酔っ払い飲み交わした後、2人はこう、約束した。

上官から、攻撃するよう命令されたら、互いに狙いを避けて、斜めに撃ち合おう、と。

それ以降、積極的に戦闘に関わることはなかった。ただ、グループから離脱すれば、自分の安全確保ができない、また上官の地位についていたことから、前線には行かず、籍だけ置いていたという。そして、自分の仲間によって捕まった敵を、こっそり逃がしていたそうだ。

(ベイルート:内戦で破壊され、残ったビルの窓に、カラフルなカーテンをつけた、アート作品)

内戦が終わり、キリスト教徒地区を運転していた時のこと、偶然、自分が逃がしたことのある対立グループ元戦闘員が彼を発見し、声をかけてきた。お互い、飲んで語り合い、かつての敵と対話をすることの大切さを痛感したという。そして今、彼は内戦時に対立していたグループ間の対話、戦闘員に駆り出される年齢の若者向けの講演、戦闘員や市民が当時の経験を語り合い、プロの俳優が即興でそのエピソードを演じてお互いの思いを共有し理解し合う、といった活動をしている。シリア危機後は、トリポリで対立していたアラウィー派とスンニ派の和解にも、働きかけた。

それでも、いまなお、内戦によってできた人々の間の溝は、深い。彼の母方の親せきは、内戦後、一度もイスラム教徒が多く住む地区には、足を運んだことがない。彼の親せきに限らず、意図的に、“敵”だった人々が住む地区を避ける人々は、少なからずいる。

(ベイルート:イスラム教徒が多く住む地区。建物に描かれた絵。ベイルートにはこういうウォールアートが多い)

宗教対立で語られることの多い、レバノン内戦。しかし、あれは「政治戦争」だったという人も多い。同じ宗教同士でも、対立していたのだから。


戦争の記憶は、世代を超えて、人々の関係に深い傷を残す。憎しみ、暴力、恐怖の連鎖を、どう断ち切るか。いまのレバノンが、これからのシリアの姿のように、感じた。


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