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「とある町での13年間の記録」その3_115

13年間の記録を書いてみました。
完全に自己満足のまとめです。

前回までのあらすじ
・22歳で教員になる
・最初の方は楽しいけど上手くいかないこともたくさんあった
・担任2週目
・研修講師
・3校目へ

31歳@3校目

中学から高校へ異動するのは珍しいことだが可能だ。
なんか隣で面白そうなことやってるなと思ってお願いして異動させてもらった。

とにかく丁寧に接しようと心がけた。
生徒を呼ぶときは基本的に敬称(〜さん、〜くん)をつけて呼ぶようにした。
私なりのリスペクトの表し方だった。
これはかなり良かったと思う(こちらが敬称をつけているのに途中から下の名前で呼ばれ始めたが笑)。

勤務する学校で独自に設定されている科目の指導が何よりも面白かった。

ただ、この年の途中から、「このまま教員で良いのか」と思い始める。

32歳@3年生の担任

3月に人事異動がわかる。
人事異動の情報を聞いて、「あれ、このメンバーなら担任あるぞ」と思った。案の定「担任」と言われた。
全然希望してなかったけど断る立場にないので返事は当然イエス。

28歳の時に担任を外してもらった生徒がいるクラスの担任だった。
「お前、あの時やり残したことがあるんじゃないか」と誰かに言われているような気がした。

コロナの影響でまともな行事ができないまま淡々と日々が過ぎた。
この年は飲み会やどこかに遊びにいくこともままならずすごくストレスが溜まった。人に会って何かを適度にすることは大事なんだなと思う。

この年は1度だけ職員室を出た後に本当に教室に行きたくなくなった。
進路活動をしている生徒たちの前ではそんな顔できなかったけど本当に最低限の仕事しかできなかった。
夜は全然寝れなかったし普通に布団に入っているだけで涙が出てきた。
人と比較しまくった。
ストレスチェックで引っ掛かり、面談で「抑うつ状態」と言われた。

仕事を離れたくていろんなことを考えた。
実際に転職活動をして内定をもらってたけど、勤務先に申し出るのが遅くて辞めるのをやめた。

人生で1番精神的に落ちた年だった。
ここで潰れておいて良かった。

「無理せずできることをやろう」
「人と比較するのをやめよう」
「生きているだけでまずはオッケー」
と自分へのラインをガッツリ下げた。
これで良かった。

担任した38名はとっても素敵な生徒たちだった。
今振り返っても、「担任して良かった」と思っている。
出会いに感謝。

33歳@分掌部長

分掌(ぶんしょう)とは仕事をするグループである。

楽しく仕事ができた年だった。
32歳の時に(人知れず)勝手に潰れていたから、部活の顧問を負担の少ないものにしてもらった。土日にゆっくりできたのがありがたかった。

映画の世界に没頭したり、本を読んだり温泉に行ったり、旅行に行ったりした。

藤井風さんのフリーライブを見て衝撃を受けた。すぐにライブチケットを申し込んだ。彼の世界観にかなり救われている。

ちょっとずつ元気になってきた。でも、次の年で教員生活は一旦終わりにしようと思い始めた。

34歳@分掌部長

部活の顧問に戻った。この生徒たちと最後に全道大会に行きたいと心から思ってできるだけのことをした。
初戦、第2シードの学校と当たった。考え抜いたオーダーで「これしかない」と確信した。勇気のいるオーダーだった。選手の頑張りで勝てた。試合終了後に「このオーダーは1番ないと思ったオーダーでした。完敗です」と相手の監督に言われた。マスクの下で世界一ニヤニヤしていたと思う。

準決勝は選手の頑張りで勝利し、全道大会の出場が決まった。本当に嬉しかった。

新チームはスポーツを楽しめる選手たちで、スポーツを指導する原点に戻れた気がした。出会うべくして出会った選手たちだと思う。

学校で働いていると、ついつい学校の世界で物事を考えてしまう。
もちろん教科の勉強も大事。
ただ、これから先の世界は
「人と一緒に何かをする力」
も大事だと思う。
それは学校と社会にも言えると思い、色々調べていくと「社会教育」という分野があることを知った。

13年関わった教育分野から離れるのも何かもったいないなと思ったし、直感が働いたので次は社会教育の分野に関わることにした。

これが正解かどうかはわからないけど、自分が選んだ道を正解にしていけばいいと思う。

適度に働いて、遊んで、楽しく生きていきたい。

このnoteを数年後に読み返したときに、「あの時こっちにきて良かったね」と数年後の自分が思えていたら最高だ。


以上、13年間の自己満足振り返りでした。お読みいただきありがとうございました!




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