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大人になったら

成人式の日、僕は当時組んでいたバンドでライブをしていた。別に行きたいわけでもなかったし、それで後悔もしていない。それに実家は青森県の北端で、東京で暮らす僕には遠すぎたし、何より東京での生活は刺激に満ちていて楽しかった。


僕が成人式に興味がなかった理由はたぶん漠然と「大人になったら純粋さを失う」と思っていたからだ。もちろん今の僕は形式上「大人」だ。電車に乗るにも美術館に行くにも大人料金だし、お酒も呑めるし煙草も吸える。表面上は充分すぎるほど「大人」だ。けど、中身は中学生ぐらいから変わっていないと思う。


小中学生の頃の僕はいわゆる「痛いヤツ」だった。アニメや漫画にのめり込み、暇さえあればゲームばかりしていた。普段の発言もアニメキャラっぽい感じだったし、本気で人間はニュータイプになれると信じていた。今でもニュータイプになれると信じて疑っていない。そしてそれは僕の表現活動に直結している。「純粋」であることが僕の表現の根底にあるのだろう。まあ、そういうところも成人式にいかなかった理由のひとつかもしれない。



「純粋さ」というのが僕には大事なんだろうなと感じている。最近は特に真っすぐな表現に惹かれることが多い。シンプルなもの、と言ってもいいかもしれない。とにかくそういう表現が心地よいのだ。僕は「純粋さ」とは可能性なんだと考えている。

そして、可能性とは年齢に関係なく、本人の意志で表現されるものだとも考えている。自分の可能性を信じられるかどうか。それはもしかしたら戦いであるかもしれない。



最近少し感傷的に考えることがある。

青森の実家に残って、それでも音楽家になりたかったと抗う自分。

うつ病になって何度も死にかけながら、それでも表現し続ける自分。

「純粋」であることが可能性を信じることで、それが戦いだとして、どちらにしても戦っていた僕。はたしていったいどっちが幸せだったのだろう。


そういえば、家族すら嫌って実家を飛び出した僕は、母親の仕事である料理を自分のYouTube動画企画にしている。まったく皮肉な話だ。



ところで、成人式に行かなかったからか同窓会も結婚式も呼ばれなくなった。もしかして僕は将来それを寂しく感じることがあるのだろうか。あるいは四十代くらいになれば呼ばれるようになるのだろうか。やっぱり別に行きたいとは思わないけれど、その可能性があるのも事実で、戦いとはそういうことも含まれているんだろうなあと感じている。


もしもそういう日が来たら「行ってもいいかな」って思えるくらいには大人になっていたいと願う。





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