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発達障害について考えてみても

昨晩から、また目の周りが醜く腫れあがってしまったので、今日は在宅勤務にすることにしました。

蕁麻疹が、もう、半年以上再発を繰り返しています。

いつも眠いし、疲れているのでしょう。


昨日のツムギとのやりとりは、今思い返せば夫の言う通り、短く済ませておけばよかったのだと思います。


ツムギは長期休暇には、ここに来るまでの間ずっと住んでいた祖父母の家に泊まりに行くことが恒例になっていたので、春休みになる前から何度か、いつ行くのかと聞いていました。

来たばかりの4年生のころは、私がだいたいのスケジュールを提案して、それを祖父母に聞いてみるような段取りをしていましたが、最近はちょっと過干渉な義父母とのやりとりにも嫌気がさしていたし、ツムギも友達との約束などを優先することが増えてきましたから、日程については自分で祖父母と相談するようにと伝えてありました。

先週ようやく、「来週なら来てもいいって言ってる」とツムギが言っていたので、早く日にちを決めるように、それも何度か話してありました。

今週に入ってしまってからは、「おばあちゃん、今週来るって言ってたけど、いつ来るのかしら?って心配しているよ。連絡して日にちを決めたら私にも教えてちょうだいね」と、毎日。


昨日は、少しだけ仕事の帰りが遅くなったので、夫と二人で先に夕食にしてもらうようお願いしていて、帰宅した私は、いつものツムギの隣の席に座り追って食事を始めたけれど、先に食べ終わったツムギは席を立つと、自分の部屋に行き、のんびりと寝る支度をしようとしていたようでした。

午後9時、リビングに戻ってきたツムギに聞きました。

「おばあちゃんの家に行く日は決まったの?」

「あ、明日から5日まで」

「え?明日から?決まったら教えてって言っていたのに、どうして教えてくれなかったの?」

「遅かったから、忘れた」


後から夫には、食事の直前に決まったから、LINEする余裕もなかったし、ツムギ自身もまだ明日から行くと言う実感がなかったんだと思うと、弁護することを言われました。


それなら、その通りに、
「あ、ごめんなさい。食事の支度でバタバタしていたから、言うの忘れてました」
って言えばいいじゃない。


昨日は仕事中に、「このお菓子食べていい?」とか、「制服届いたよ(写真入りで)」とか、自分発信のことは随時LINEで送ってきていたことが、私を苛立たせたのかもしれません。

「遅かったから、忘れた」と言われ、それは意味がわからないと聞き返すと、「ツムギにはわかるからいいの」と、聞く耳を持たなかったことも受け入れ難かったのでしょう。

今仕事で関わっている取引先の人、平気で遅刻をする、見え透いた嘘を言う、提出物を出さない、言っていることが伝わらない、など、まるでツムギを見ているような人とやり取りをせざるを得ない状況の中、相当な迷惑を被っていて、ツムギをこのままの状態で社会に出してはいけないという、焦りも生じていたのだと思います。


「今度から、ちゃんと言ってね」

で済ませればよかったけれど、いろいろな感情が渦巻いて、見過ごせなかったのです。


そうなると負の連鎖。

ツムギはもう、私の話など聞いていないので、私も話の着地点がわからなくなり、クドクド、話せば話すほど不機嫌になるツムギに、私は更にイライラ。

最後にツムギが「ひとつ言わせてもらってもいいですか?」と口を開いたので、少しはこちらの言いたいことが伝わったか?と僅かな期待をする私に、

「ひとつのことを45分も話すのやめてもらえますか?」

目の周りがムクムクと腫れていくのが鏡を見なくてもわかりました。


会話のキャッチボールができないのです。

ツムギは、常に勝ちたいと思っていて、キャッチボールをしようと言っているのに、バッターボックスに立つ。

ストライク以外の球には見向きもせず、質問を受けたときにだけ思い切りバットを振るのです。

仮に、キャッチボールは辞めて普通に野球にしようよ、となっていたとしても、その野球に共通のルールは存在していなくて、そんな打ち方をしたら試合にならないよ?と言っても、「いいの。ツムギにはこれが野球なの」と言われる感じ。

キャッチボールをしようと話し始めた私は、投げても投げてもボールをキャッチしてもらえないから、45分間、一人で投げ続けて、もう、腕が痛くてヘトヘトなのに、「打てないボールを投げ続けるの辞めてもらえます?」と、まるで、投手としての実力が備わっていないと全否定されたかのような気持ちになるのです。


「会話はキャッチボール」って、全人類の共通認識ではなかったのだろうか?

全人類の…というのが大袈裟であって、多様性を重んじる世の中なら尚更、もはや共通認識など存在しないのかも知れません。

それならそれで、野球したいなら野球でもいいよ、ツムギルールの野球にするならそれでもいいよ、と思っているのに、ツムギルールを聞いても教えてはくれない。


私が今、発達障害と診断されているツムギと対峙していてグルグルと悩むのは、こんな思いなのではないかと考えています。


定型発達の世界が全てと言うつもりはないの。
だから、発達障害の世界のことを教えてほしいの。


違う言語を話す外国人同士が、例えば異国の地で出会った場合、お互い辿々しい英語(それを世界の共通言語だとして)を使って話しているうちに、私だったら、「これはあなたの国ではなんて言うの?日本語ではこう言うんだよ」と、教え合ったりしながら、お互いの理解を深めていくのではないかと思います。


それが例えば、相手が日本に滞在している場合、私の方が、日本で過ごすのに困らないように、日本語や日本の習慣などを相手より多めに伝えながら、それでも、相手の国にも興味が湧いて、その人の国のことも聞いたりすると思います。


定型発達と発達障害の世界も、これとなんら変わりはないのではないかと思うのですけれど。


違うのだろうか?

発達障害の世界は、そもそも、言語や文化が違う人とは相容れる意味がないとされているのだろうか?

発達障害の人との接し方の本を読んでみても、どちらかといえば、定型発達の世界に、いかにして共生するかという目線で書かれたものが多く、発達障害の世界側から定型発達の人たちにはこうしてほしいと書かれた本は、あまり見ないように思うのです。


発達障害の人が6.5%もいると言われながら、定型発達の世界を正とする根拠はどこにあるのだろうか?


考えても考えても考えても、いつも答えが出せず、ツムギとどう接したらいいのか、わからなくなっていくのです。


でも、私だって傷つきたくない。
キャッチボールをしたくない人に、ボールを投げ続けて肩を壊したくない。

ツムギがキャッチボールをしたいと思うようになるまで、私は他の人とキャッチボールをしていればいいか、と考えてしまいます。


親ならば、諦めずに、
「キャッチボールをしようよ」
と、言い続けないといけないのだろうか?

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