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僕もむつかしいことはわからないけど。「最近、説明過多なコンテンツ多くない?」についての自答。

「僕たちはむつかしいことはわからない」というYouTube番組があったことを、田中ひろのぶさんのTwitterで知りました。

どうやらラジオ的なおしゃべり番組があったようだぞ。これはいいぞーとtweetをクリック。近頃は、アーカイブが残ってくれて幸せです。

https://www.youtube.com/watch?v=Fg5cSB89QfU

↑これです

眠れぬ夜はいつも、憂鬱なマラソン大会みたくゼエゼエと時間が過ぎ去るのを待っているわたしにとって、こういうしゃべりラジオはとてもいい深夜徘徊のおとも。

「どこに連れてこうとする気もないし、別に毒にも薬にもする気はない」
そんな喋り手の温度感は、よくある夜の、何も聞きたくない耳をふさぐのにとってもイイカンジなのです。

番組はお三方+ゲストが入れ替わり立ち替わり、いくつかのリスナーの質問になんとなく答えるという形式。
質問もどれも興味深いし、それに対する各々のつぶやきも聴いていて心地よい。

でも「オレは愚民どもに憤ってるんだ。呆れているんだ」みたいなズシンとした感情もどこかずっと匂っていて苦しさもある。それもまたなんというか「そんな感じだよなぁ」みたいな感じ。

そんな中、わたしにとって特に興味深かったのがキタモトさんの質問でした。

「最近、創作物のなかで、過剰に説明するものが多い気がします。世の中的にそういう流れになっている気が。白黒はっきりつけたがる風潮。曖昧なものや、余白が好まれない空気、正解を求める傾向を感じます。
それは、未来ある若者にとって生きやすい世の中ではないと思うのです。大人たちにできることはあるでしょうか?」

この質問、正直かなりドンピシャに近くわたしも思っていることでした。ただわたしは未来ある若者のことまで考えなかったし、「大人にできることはあるだろうか?」という投げも素敵だなと。

この質問についてのおしゃべりを聴きながら思うところがすごく多かったので、思考整理がてらnoteを書きます。


まずわたしはどちらかというと作り手側の立場で聴いていて、燃え殻さんの言葉に結構共感していました。

わたしは、受け手としてはアンテナの感度の低い人間です。自分の波長に近いところばかり受け取って遠い周波数はとんとわからん、そんな消費者ですので、「説明過多やなぁ・・・」も「まじわからん・・・」もどちらもたくさんあります。その上で、最近の日本はストレートな描写が多いな、と感じたときに、毎回自問することがあります。

「おまえがみてるものが、どれくらい局地的で偏ってるか、把握してるか?」

「おまえが直接的だとか説明過多だとか測ってるそのモノサシは、どれくらい深く測れるんだ?」

この二つの問いでだいたいわたしは封殺されます。

そして、おまえはまたかと、心に唱え直します。

全ての創作者に対して、その作品をつくりきったことへ敬意を常に持つこと。当たり前に感謝することとおんなじですぐ忘れるので。

そして、その創作物の深さは自分の感度や知識の深さと鏡合わせであること。さらにいえば、深めるのは自分の作業であること。

その作品を「浅い」の一言で断じた瞬間自分が浅くなるから、断じるなら「好悪」で断じること。あなたのキライには文句を言われる筋合いからね。

「深めたい」と思えば、縦横無尽に掘ってみて、自分の浅さ加減を把握すること。

「興味ない」と思えば、ただ立ち去ること。


まぁ、何度も唱えてる時点で、肝にしっかり銘を刻めるのはまだ先ですね。


それで皆さんがこういうのが説明過剰なんだよといろいろ例に出しておられたのですが、この「なんかみんな思ってる感じの残念感」を自分なりに整理したいなと思ったので、してみました。

わたしはそういう”残念感”の中には「説明過剰」のほかに「押し付けがましさ」「あざとさ」が同じくらいのカロリーで存在してるかな、と思いました。
ついでにトッピングとして、「食傷」。

「説明過剰」
「押し付けがましさ」「あざとさ」
ついでにトッピングで「食傷」

うまい作品というのは、ピースを提示して、ぱちっとはめる作業を読み手にゆだねてくれることが多いように思います。
その時、頭の中で火花が散る。
快感が生まれる。感動できる。
感動は、作品そのものじゃなく、自分の中から生まれるものです。

ピースばかりあって、完成図がほぼよくわからないのが難解な作品。
最後だけこちらにはめさせてくれるのが、万人向けな作品。
最後のピースだけ隠す、という風にすると「解釈は人それぞれです」的な作品。
になるのかなと思っています。

ところが、作品側で全てのピースをはめて完成させてしまうもの。これが「説明過多」と言われるのだろうなと。この手の作品が嫌いな人たちは、「いや、せめて最後は自分でやらせろよ!」となる。もしくは「あんたは一個もはめなくていいよ!」くらいの人もいるかも。

ただ、そういう説明過多な作品が全部駄作なわけないですよね。
共感とか発見とか音楽とかビジュアルとか、感動の要素なんてそれこそまだまだ開拓できる余地ですし、説明過多がキライな人でも、そういうの全部キライっていう人はおそらく少ない。

ですがここに「押し付けがましさ」「あざとさ」が加わると、はい、わたしもかなりキライなモノになってきます。
ただ、それでもまだ「そういうジャンルだよな」と思えば観れます。
トドメに「食傷」がトッピングされると、もう終了です。

「押し付けがましい作品」は、主にこちらの「感情」を露骨に操作しようとしてきます。

映画の予告編なんかは、指摘されてましたね。おいしそうなとこだけ見せる。おいしそうが過ぎるからおいしそうじゃない。
「シズル感」にも似たふてぶてしさです。

「露骨さ」が重要で、ようは「こういう感情にさせよう」「泣かせよう」という意図の透けぐあい。演出の過剰さ加減。
作者の意図、というのにわたしたちは各々ビンカンで、イコールそれが作者との対話になります。そこで「こいつわたしを操作してきてんな」と思ったらそりゃ不快にもなります。
つまり隠すのがヘタ。あるいは隠さないのがヘタ。

説明過多でも、押し付けてはこない作品もある。
説明不足でも、その「説明してません感」をいちいち押し付けてくる作品もある。

わたしたちが「その手の作品」に感じる不快感は、この2項のボリュームで決まるのかな、と思っています。
そしてそれがしめしめと世に出回りまくってると、不快感はさらにブーストされる、と。


作者の気持ちになってみます。

「どの程度説明するか」という問いは、おそらく創作する全人類が考え続けているもんかと思います。
「自分だったらここが気持ちいいメモリ」もきちんと把握しているでしょう。

いちばんパイの多いメモリはどの辺りか、を常に測っている人も多いでしょう。
結局のところそこのメモリがいちばん、その作品に関わって幸せになる人が増えるからです。

燃え殻さんのいうように、昨今よく言われる「もっとわかりやすくしなさい」という指摘は、作り手の「伝えたいことが伝わらなかった徒労感」を作り手サイドみんなが、作ってきた人生で感じてきたからじゃないかと思います。やっぱ「わかるやつだけわかればいい」なんて言えないから。わかってほしいもん。売り上げに直結もしちゃうよ。

その「パイメモリ」が下がってきたな、という感覚の中で、上の方のメモリが好きなひとたちは、不満を覚える。批評家は批評する。

わたしたち消費者は読み取る能力が下がってしまったのかもしれないし、作者のどなたかは消費者をバカにしているのかもしれない。

けれどわたしは、おそらく多くの作り手の「できるだけ人を置いていきたくない」という気持ちは全面的に尊重したいです。

「バカにされてる」と思うこともあります。また自答します。
「おまえがターゲットじゃないだけだぞ」と。

「こんなに説明しやがってバカにしてるのか」という怒りは、「こんなに説明されないと理解できないやつはみんなバカなんだよ」という「バカにしてるのはお前だ」に反転してしまいます。

古賀先生の著書の例文で、自分の嫌いな文章を分析せよという箇所の中に
「わたしは人をバカにしたような文章がキライなのだ」
というのがあって、これには首がもげるほど頷きながらも、

この「バカにされ感」が主観であることもセットで覚えておかねばならないな。と、いま思いました。


「最近説明過多が増える世の中でどうすればいいのか?若者にできることは?」


という問いにわたしが自答したのは、


それは周波数が各々違うだけで、つまりただのジャンルの違い。
「ホラー」や「アクション」と同じく、「美しい説明不足」と「わかりやすい」というジャンルがあるだけだよ。

そして、「説明不足」を愛する人たちは、「わかりやすい」よりは少ないかもだけど、別に絶対値としては全然少なくないよ。作り手も、受け手も。だって、あなたもそうでしょ?

だから「説明過多」がいやならそこからただ離れて「説明不足」ジャンルを掘ればいいだけだよ。
できるなら「美しき説明不足」の素晴らしさをあなたが語ればいいんだよ。そのジャンルの発展に繋がるから。それを愛する人が増えたら、需要の変動をつかんだ作り手側が、それを製作するようになるから。
というか好きなものを語るだけで価値だから。

そんで、たまに自分のモノサシの長さを疑って、
作品は自分で深めるものだぞ、と目を開いてそれをみてみて。
又吉さんの文章の読み方の深さなんかはめっちゃ参考になるよ。

もし大人のあなたが若者にできることがあるとすれば。

「深い味わい」とか「ものの味わい方」を、ステキに伝える努力をして。うまくいけばきっと、お互いが鏡になって、双方より豊かになれるかもしれない。

そうでなくても「のちにそうなる伏線」を与えて。何年か後に、そういえばあのおじさんこんなこと言ってたけど、こういうことかぁ、みたいなヤツだよ。
そして、別に回収されなくてもいい。
マウント取るみたいに思われる危険が高いから、そこは注意ぶかく気をつけて。



ふー、長くなってしまった。

この質問だけじゃなくて、全部おもしろい質問、回答でした。

もっかいURL載せます。

https://www.youtube.com/watch?v=Fg5cSB89QfU

わたし、燃え殻さんと二村ヒトシさんのラジオも愛聴してるんですよ。
所在の皆無な時間の薬に、こういうおしゃべりラジオ、もっと処方してくれないかなぁ。







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