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『構成員に過剰に苦労を強いるようなバカバカしい日本の風習』を変えられない理由と、その解決策について

ちょっとこのタイトルでこのトップ画像使わせてもらうのディスってるみたいで気が引けるんですが、合理的で無意味な負荷の少ない環境を実現したとしても「気合」は大事だと思っているぜ!とは言っておきます。

最近、兵庫県の学校で教師を集められなくて、一部中学校ではちゃんと授業が行えない状況にまでなっているというニュースを見ました。

今の学校の先生の「負荷」って物凄いんですよね。

私の友人にアメリカ人夫と日本人妻のカップルがいて、そのアメリカ人夫が奥さんが働いている公立小学校の先生の業務が過剰すぎてクレイジーだっていつも言ってたんで、まあアメリカ人から見るとそうかもねアハハ・・・と呑気に思っていたんですが。

その後その小学校教員の女性本人から実態を聞いたら日本人の普通の働き手から見ても常軌を逸していて、これはちょっとマジで続けられないだろう…と思ったということがありました。

一般企業にも激務度合いに差がありますが、その中でも「最もブラックな激務」に近いレベルの働き方をしている。

しかもその「ブラックな激務」のかなりの部分が、「単に教科を教える仕事」以外の副次的な業務(部活動指導だったり書類つくりだったり教員組織主催の”自主的な”勉強会だったり)だというところが「ブラックな一般企業」どころではない理不尽さで。(結果としてその部分の残業代的なものも払われていないことが多い)

結局その友人カップルは、奥さんも退職して、一緒にアメリカに再移住してしまったんですが、まあそれも仕方ないよねという気持ちになりました。

こういうことは日本中の「ありとあらゆる場所」に存在する問題なので、まあなんとかしないといけないことは皆わかっているけどなかなかうまく行っていない。

都会のインテリ階層が共有する良識的発想からすれば「当たり前」なことが、日本社会の現場的事情とぶつかりあった時に「当たり前」には通らず、逆にその境界線上で巨大な理不尽が発生してしまう現象、あなたも日本で暮らしていたら見たことが(場合によっては身を持って体験したことが)ありますね?

とくに私はマッキンゼーという外資コンサルからキャリアをはじめて、今は日本の中小企業相手のコンサル業をやっている人間なので(詳しいプロフィールはこちら)、その「二つの世界の当たり前」どうしがぶつかりあってどこにも動けない状況に陥る話をよく見ます。

ではどうしたらいいのか?

「経営コンサルタントで政治的には多少保守派寄りの中道路線」の自分からの解決策は今までもいろんな形で述べてきたわけですが(先日出した私の本などをどうぞ)、ある「大学教授で政治的にはバリバリの左翼」の人のPTAにおける試みを書いた本が大変おもしろくて、共感するところが多かったので今回はその話をします。

そのコンセプトを一枚絵で予告的にあらわすと、以下の図(クリックで拡大します)のようになります。

「ゴミの中のダイヤ」を協力して拾い上げられれば、「ゴミ」を捨てるのは問題なくなるんですね。逆に「ダイヤも含めて全部捨てられるんじゃないか」という警戒心があるうちは、「ゴミ」を捨てることはできないということですね。

260228_ダイヤの山

では以下、もっと具体的に考えていきましょう。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●「現行制度が存在する意味」に理解を示しつつ頑固に変えるべきところは変えていく

この記事冒頭で書いた「バリバリの左翼な大学教授がPTA会長になる話」というのは以下の本です。

政治学者、PTA会長になる

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とても勉強になる良い本でした。

とにかく「政治的な立場」は自分とかなり違う感じなのに、「具体的な改革案」は物凄く「全く同じことを考えている」ぐらいに同じだったところがポジティブな驚きでした。

「政治的に見ると対立するようで、具体的な課題については同じことを考えている仲間」といかに協力しあえるかが、これからの日本ではとにかく大事ですからね。

(ちょっとこの”あまりに政治的立場が違うようで具体的な事に関する意見が同じ”という現象事態を掘り下げて、現代日本におけるリベラル派の苦境の打開策について考えた記事を別に書きましたので、そちらもご興味があればどうぞ)

で、そうやって「基本的な立場が全然違う者同士」が協力しあるには、「自分たち側のベタな正義」と「相手側のベタな正義」を両方対等に尊重した上で、「メタな正義」の方向に動かしていくことが大事なんですね。

PTAの本で岡田憲治氏がやってるのも、基本的にはそういう「メタ正義的発想」に自然になっているところに凄く共感しました。

結構最初は「遅れた日本社会を俺が改革してやる」的にぶつかりに行ってるところもあったんですが、その後アレコレと強烈な反発を食らいながら色々と学んでいって、最終的には

・負荷の高すぎる活動のかなりの部分を廃止あるいは置き換える事に成功

・結果としてフルタイムワーカーでも参加可能なイメージができ、普通に立候補者だけで埋まるようになった

…という変化が起きているようです。もうひとつ良いなと思ったのは、

・事務的・儀式的な要素をできるだけ効率化することで、「親同士、あるいは親と教員がざっくばらんに話しあえるコミュニケーションの時間」自体はむしろちゃんと増やした

…事も素晴らしいと思いました。

・基本的に親は自分の子供の学校に関わりたい素直な気持ちがある人も多いが、今までは敷居が高すぎるし無駄な作業や行事も多すぎて二の足を踏んでいた

・いざフルタイムワーカーでもある程度参加可能なのだ…というイメージができれば自発的参加者は十分集まる状況になった

…というあたりは、今の日本に「まさに必要な改革とはこういうものだ」という感じがするんではないでしょうか。

実際、私は経営コンサル業のかたわら文通を通じていろんな人の人生を考えるという仕事もしているんですが(興味ある方はこちら)、地方出身で都会にやってきてたまたま住んだ土地で子供を学校に行かせることになると、なにかのきっかけがないと「地域の人の知り合い」「ママ友パパ友」みたいなのはなかなかできない、という話をしている人は多い。

PTAというのはそういう役割を果たすはずの存在なので、「無駄な負荷」は減らしつつ、そういう「人間関係を作りそこにコミュニケーションが生まれる場」としての機能はむしろ強化する方向になっているのは素晴らしいと思いました。

「PTA的なもの」が嫌いな人は、そういう「機能」の事とかお構いなしに「駄目な部分」だけを糾弾して「すべてを完全に廃止」しようとしてしまいがちなんですよね。

そうじゃなくて、

・「どうしても嫌な人が抜けやすくする」

・「強い拒否反応がないならある程度は関わりが自然に残るような仕組みにする」

…というバランスに配慮した決着が大事なんですよ。

人間社会というののは、「強く強烈な自由意志による要求」と「強く強烈な自由意志による拒否」の間ぐらいに、「縁」でランダムかつフレキシブルに繋げる仕組みが本来は沢山設計されていて、それが社会の厚みや安定感を生み出すようになっているんですよね。

以下の記事で書いたような、東浩紀氏の言葉で言う「誤配」がもたらす社会の厚みの源泉がそこにはある。

「PTA的なもの」が大嫌いでいっそ憎悪している個人主義者のインテリだけが全体を一手に細部まで設計しようとすると、そういう「誤配をもたらす知恵」が雲散霧消してしまって、人口の1割ぐらいのトップオブトップにポジティブに行動的な人以外が生きづらい構造になってしまうんですよ。

そういうところでの細かい価値観の違いが色々あるので、結局「必要なものまで全部捨てられてしまうのではないか?」という危機感があるから「ちょっとした事を変える」こともできなくなる

「必要なものは残すしむしろ強化もします」という信頼感が生まれたら、むしろ「参加者のほとんどがもうやめたいと思っているようなこと」は問題なくやめられるのだということだと思います。

この記事冒頭に掲載した以下の図(クリックで拡大します)は私の著書からなんですが、要は「ゴミの中にあるダイヤ」を選り分けることができたら、「ゴミ」の部分を捨てるのに反対するやつなんてほとんどいないのだ…ってことなんですね。

260228_ダイヤの山

2●社会のアメリカ的分断を超えるために、地道なメタ正義的解決が必要

PTAも、とにかく日本中で、「リベラルで都会的な個人主義者」からすると悪名高い存在のひとつだとは思うんですが、日本においてなぜこういう改革が進まないかというと、

「改善策として提示されるものが、”社会の半分”しか代表していないから」

…という事に尽きると私は考えています。

要は、「政治的議論」(特にSNSで常時行われているような)って、「インテリ出身の都会在住の個人主義者」しか参加してないんですよね。経済的にもまあまあ恵まれている階層であることが多い。

その「特権階級の内輪の論理」だけをゴリ押しすると”社会の半分”の意見しか含まれない具体策になってしまうので、本当の”社会の実情の全体像”と合わないから実現できなくなる。

こういう齟齬が日本中のあらゆる場所にあって、たとえば以下の記事↓で書いたように…

「最低限の遵法精神とか他人が自分にちゃんと関わってくれる信頼感とかが当然手に入る環境」で生まれ育っていると「熱血先生」的な人の存在意義が理解できないんですが、そう思えているってこと自体が非常に「特権的」なことなんですよね。

そういう「当たり前の安定感」が簡単には手に入らない環境で生まれていれば、「熱血先生」的な関わりは物凄く重要なものなんですよ。

また例えば、以下の記事↓で書いたように…

「中小企業の現場感」を知らない人が、たまに中小企業における理不尽な事例を改善するべき!という話をする時に出す解決策が、「あまりにも資本力のある大きな会社でしか実行できない策」であったりすると、社会の周縁部では結局実行しえないで、余計にブラックな環境が「地下に潜って温存」されてしまうことになる。

こういう時に「インテリが考える”正しさ”をゴリ押しすることこそが社会の最優先事項なのだ」という発想がここ10年アメリカ由来で世界中に撒き散らされているんですが、そうやってると結局

・社会の中心部の恵まれた階層内で、物凄く些末な”配慮のマナー”が強烈に研ぎ澄まされて違反すると一発アウトみたいな運用になる

・社会の中心部以外では、その「厳しすぎるマナー」に対応する余裕がないので最低限の優しさや配慮すら剥奪されたブラックな環境が放置されてしまう

…という「アメリカ型社会あるある」になっていってしまう。

そこで必要なのは、私の言葉で言えば「相手側のベタな正義」と「自分側のベタな正義」を並列的に両方必要なものとして両立を考える「メタ正義感覚」という発想なんですね。

特に以下の質問票(クリックで拡大します)の「質問2」と「質問4」が大事なんですよ。

260228_メタ正義トライアングル

つまり敵側の「言っていること」に対していちいち反論していくんじゃなくて、「その敵の存在意義」を考えて、そこにある課題を「自分たちの価値観的にもOKな形で代理解消する」ように持っていくことが必要なんですよ。

3●「片側だけのベタな正義」では押しきれない課題が日本中に放置されたまま山積している。

こういう「メタ正義的解決」が必要で、それができずにただ放置されている課題は今の日本に沢山あるんですよね。

PTAよりもさらに難易度が高いと思いますが、冒頭で書いた「学校教員の負担軽減」についても似たような課題が横たわっていると思います。

結局「教師の時間外負担を即刻全廃せよ」「こんなの全部いらないじゃないか」という押し込み方をすればするほど、日本社会が自分たちのコアの価値を守る警戒感から余計に「なにもかもやめられない」状況に押し込んでしまう。

「北風と太陽の話」ではないですが、この記事冒頭で載せた「ゴミの山の中にあるダイヤ」の図のように、「過剰な苦労を軽減しつつ、その献身の本来的な意図だった部分は別の形で代替できるようにしていきましょう」という運動に人々を巻き込んでいくことによってのみ、日本全国津々浦々で必要な「変化」を起こしていけるようになるでしょう。

つまり「ベタな正義」どうしの争いを放置せずに「メタな正義」に両側から人を巻き込んでいく風潮を立ち上げていくことが必要なんですね。

その他、例えば教員負担が問題になっている”部活動”をどうするかとか、最近ネットで話題の京都の舞妓さんの労働問題とかに至るまで、とにかく日本社会のあらゆる場所で放置されている課題は、「片側だけのベタな正義」では押しきれないんですよね。

「対立する二つのベタな正義」を超える「メタな正義」を設定してそこに人を巻き込んでいく地道な活動が津々浦々に必要なんですよ。

今の時代、この解決が難しいのは、『都会のインテリ視点』から見ると片側だけが「完全に許されざる悪」で、片側は「どう考えても最優先されるべき善」に見えてしまうってことなんですよね。

「時間外で過剰な参加が必要ななにか」なんて全部やめてしまえばいいじゃないか。そんなことをさせているボスってなんて時代遅れのクズなんだ!日本社会ってほんと遅れてるよねー!

…とひとしきりSNSで騒ぐと自分が完全な正義の一員になった気持ちになれて気持ちが良いですし、次の日には忘れてしまってその世界がどうなろうと知ったこっちゃないですからね。

ただ、結局そういう「時間外的献身」の積み重ねによって、アメリカではもう希望のないスラムみたいになってしまう「社会の辺境」においてギリギリの日本的秩序が保たれていたりする。

だからむしろまず、そういう「献身によって支えられている日本社会で必須不可欠の機能」があって、それを別の形で代替していきましょう…という発想に両側から知恵を集められるかどうかが、「本当に変える」ために必要なことなんですね。

そうすれば、いきなり「時間外的献身」をゼロにはできなくても確実に減らしていけるし、そこに参加する人を無理やりな義務感でなく「本当の自発性」ベースで賄うことも可能になる。

たとえば「部活動における教員の過剰負担」的な問題を重大視する人は「部活というカルチャー」が嫌いな人が多くて、「部活という文化を滅ぼしてやる」と思いがちだから実現しない。

逆に「部活っていいよね」と心から思っているタイプの人が、現実的に子供たちに「部活の醍醐味」を体験させてあげられるような仕組みづくりに参加するように持っていければ、徐々に別の仕組みに置き換えていく事も可能だし、そういう成功例も少しずつ出てきているでしょう。

その他たとえば舞妓さんの労働問題が盛り上がってもなかなか解消されないのは、「そこの周囲に動いている経済行為によって支えている伝統工芸や文化の保存」に一切関心がなく、むしろそんな極東の土人の文化など消滅したって構わないと思っている人の声しか反映されないから必死の抵抗にあって解決しなくなる。

逆にそういう「文化全体」をなんとか保存したいという強い意志を持った存在が、色々と具体的に新しい経済的な仕組みを作っていくことで、本当の変化は進んでいく。

実際、労働契約をクリアーにした形での花街を作る動きは日本全国でそこそこ広まってきているようですし、そこで「正しさ絶対主義」の人が無理やり現場的事情を踏みにじるようなことをしなければ、新しい着地点は見つかっていくでしょう。

4●「変わり始める」までは強く主張することが大事だが、その後は”完全な相対性”の思考に「明け渡し」ていくことが必要

とはいえ、「変わり始める」までは強く言っていくことも必要なんですよ。

岡田憲治氏もPTA改革の最初は結構高圧的に言いまくっていたようですが、それが必要な段階もある。さっきの舞妓さんの話も、もう少しちゃんと圧力を与える事が必要な時期がまだ少し続くかもしれません。

しかしその後、以下の図(クリックで拡大します)のように、「滑走路段階(問題解決が動き出すまで)」から「飛行段階(問題解決が動き出してから)」にちゃんと受け渡していくことが大事なんですね。

160528_滑走と滑空3

いざ課題解決の機運が高まってきたら、あとはいかに「飛行段階」のモードに転換できるかどうか。

「飛行段階」において大事なのは、「抽象的な正義だけで問答無用で相手を殴りまくれる」という構造自体を完全に社会の中からある意味排除していく事だと私は考えています。

…といってもこれは、「言論弾圧」をする必要はなくて、むしろ「言論の自由」をいかに維持できるかにかかっている。

「相手側の事情を理解せずに自分たちサイドの事情だけを押し込もうとすれば、自然と押し合いへし合いの硬直状態になる」

↑こういう環境を維持することで、「アメリカ型にインテリの論理だけを無理やり押し込むことは決してできない」情勢を最後まで維持できるかどうか。

そうすることで、「インテリの内輪の論理の先鋭化」だけを無理やり社会に押し込む結果溜まった怨念が爆発して強烈なバックラッシュにあい、妊娠中絶の権利すら危うくなるという「アメリカ型社会の課題」を乗り越える、21世紀の人類社会の希望の旗を、日本発に立てていくことができる。

果てしなく分断されていく人類社会の「次の希望」として、以下の図(クリックで拡大します)のように、あらゆる「抽象的論理からだけのゴリ押し」によっては”決して破れない”袋によって作られたサスペンションのようなものを日本発で作り出すことが大事なんですね。

図3-2

そうすることで、以下の図のような注射器の先に穴をあけ、「人類社会の分断」の「どちらがわのエネルギー」にも等しく背中を押されながら具体的な改善を繰り返していく「日本」というビジョンが生まれる。

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「リベラル側のビジョン」も具体的な人心と溶け合わせながら一歩ずつ実現していけるし、「リベラル派の高圧さ」への反発も、具体的な人心と溶け合わせながら一歩ずつ実現していける。

5●片方側から無理やり押しきれなくなった時代こそ、対立を超えて行くチャンス

最近の日本は迷走につぐ迷走って感じですが、今まで「片方側から押し切れていた」のが押し切れなくなってきているというのは本質的には良いことなんですよ。

安倍政権的な「右派側からの押し込み」も、「自由で開かれたインド太平洋」的に米中冷戦時代の平和維持のための確固とした国際的枠組みにまで昇華したので、役割を終えてそこから先は岸田政権になってさらに国内的に無理やり押し込むことはできなくなってきている。

一方で「リベラル派のアジェンダ」も欧米諸国におけるように一方向的に押し込むことは日本ではなかなかできないのもそれ自体良いことだと評価すべきだと思っています。

これはもっとマクロに見ると、人類社会全体で、「欧米由来のグローバリズムやリベラル派の先鋭化した理想主義」が”世界の半分”でしかないことが国際情勢的に明らかになってきて、片側から無理やり押し込むことってできないんだな、という当たり前の現象が「当然のこと」になりつつある状況を素直に反映しているだけだとも言えます。

日本はその間で、「日米同盟があるから明らかに欧米側に立っているが、歴史的経緯から”上から目線の欧米文化の押し付けに対する反発心”も普通に理解できる」という特異的な立ち位置を確保することができている。

結果として、「最も先鋭化した欧米基準から見れば全般的にうっすら反リベラルだが、逆に欧米で先鋭化しているような”何が何でも全力で反リベラル”な人は少数派」で、保守系政党が旗を振って「女性活躍」とか「反差別運動」みたいなのを少しずつなら進めていける環境になっている。

ここで「ローカル社会側の自律性や伝統」を「踏みにじって進んだ」と思われないようにすることの重要性が、年々果てしなく分断されていく人類社会において今後どんどん明らかになっていくでしょう。

とはいえ、単に「引きこもりながらほんのちょっとずつだけ変えていく」だとただジリジリ衰退していくだけなので、「攻め」の姿勢もいかに実現していくかが大事なんですが。

「攻め」に転換するにしても、この「片方側から押し切ることは決してできない」情勢を維持しながらいかに「攻め」に転じられるかが大事なんですよね。

6●大声で糾弾したりせず、静かに本質的に大きな変化を起こしていく

上記ツイートにも書いたんですが、最近久々にコンサルっぽい仕事をある大企業から依頼されて、その会社について調べてみたら、

・世間的にその会社のメインと思われてる事業は売却済み
・コア技術が活かせる有望分野にどんどん移動
・結果平均年収は同業他社よりかなり高め

…になっていてなかなか勉強になりました。

別に、メディアで有名になる「カリスマ経営者」とかいなくても、普通の人は知らないうちにどんどん必要な変化は起きていく…こういう「議論のモード」が、私と同世代かちょっと上ぐらいの人たちの共通認識として立ち上がってきているのを感じます。

これが「今日本に密かに立ち上がってきている令和の解決方式」なんですよね。

以下のインタビューでも話したり、

https://www.minnanokaigo.com/news/special/keizokuramoto1/

とか、以下の記事とかで書いているんですが、

平成時代の堀江貴文氏のテレビ局買収と、令和の鬼滅の刃の大ヒットを支えているビジネスモデルにはかなり共通しているビジョンがあるんですね。

ただ、平成時代は「アニメの作り手」の事情とか価値観とかおかまいなしにマクロに見た合理性を「ぶっ壊す!」方式で押し込もうとしていたので、押し合いへし合いになってしまってどこにも進めないままジリジリと衰退する30年間になってしまった。

一方で令和の時代には、アニメ業界の現場が物凄くわかっている人が主導して同じことをやったので、鬼滅の刃の世界的ヒットにまで繋がった。

「時代に合わせた変革」と「自分たちの伝統的な価値観の一貫性」と「新しい時代なりの価値観の取り入れ」が全部両立する解決策を見出すことができている。

過去30年「押しきれずに徐々に衰退するだけだった」のは、「押し切ってしまって解決不能な分断を抱え込んだ」よりはマシだったと私は思っています。

ちゃんと「分断せずに解決可能」な情勢になるまでは、アベノミクスで昭和の遺産を食い延ばして死んだふりしていたからこそ、これからできることがある。

さっきの舞妓さんの労働問題でもそうなんですが、周辺にある和服製造業界も含めて、「孤立無援な状況で無理やり食い延ばす」ために過剰な無理が関係者にかかっていた不幸が日本中に沢山あったと思います。

それを「グローバルの威を借る狐」による「ぶっ壊す圧力」ではなくて、「ちゃんとその社会の伝統と一貫性を維持しつつ転換するぞ」という高い意志を持った存在が「メタ正義的」に差配することで、今後あるべき着地点も見えてくるでしょう。

日本の知的エリートは、アメリカみたいに社会が自分たちに全権を与えて思う存分活躍させてくれないことに恨みを抱きがちで、社会の逆側が崩壊状態のスラムになっても恨みを強烈に溜め込んだとしても、それでも自分たちにもっと独占的な権限を与えてくれよ!という風に考えがちな人もいるんですが。

しかしそこで、ちゃんと「両側からの納得」を引き寄せるメタ正義的な機運づくりを面倒臭がらずにちゃんとやれば、いずれ「バックラッシュに怯えずにインテリが力を振るえる」理想の関係性を作り出すことができるはずです。

それは、「政治的課題」だけでなく、過去30年右往左往するだけだった経済的課題についても、同じ事が言えるはず。

「一握りのインテリだけが全てを決める」形ではない、「メタ正義的な空気」が無数の具体的な課題を現場発に解決させる流れを後押しするような形で、必要なことが粛々と決まって変わっていける経済に変えていける、あと一歩のところまで来ているんですよ。

今後、アメリカで反リベラル派のバックラッシュが深刻化し、ヨーロッパ的秩序にプーチンが暴虐な挑戦を突きつけ、米中冷戦もどんどん抜き差しならなくなっていくということは、つまり人類社会全体で見て「片方側から無理やり押し込む」がどんどんできなくなっていくということなんですね。

「メタ正義的」でない「ベタな正義」の押し付けが、人類のあらゆる「個」が自分のエゴを無条件に放出していく時代に押し合いへし合いになって機能不全になっていくんですよ。

しかしそうなっていけばいくほど”消去法的に”、日本社会内部で「メタ正義的解決」を共有していくことが容易になってきます。

「ベタな正義のゴリ押し」が逃げ場のない袋小路に追い込まれる情勢になればなるほど、「メタ正義的」解決以外を人間社会が完全にハネつけるようになっていくからです。

そうすれば、さっきの「二俣の注射器の図」のように、「どんどん日本の成功を人類社会のあらゆる存在が後押ししてくれる」構造に持っていくことができるでしょう。

図2-1

平成風に『改革派』が大騒ぎして悶着を起こすまでもなくちゃんと調べないと誰も気づかない程静かに必要な変化がいつのまにか完了してるのが令和の成功パターンなんですよ。

ノイジーな党派争いに巻き込まれず事情通なら大体皆同意してた最適解に知らないうちに変わっていく道をエンパワーしていきたいですね。

そういうツイートに以下のようなコメントをくれた方がいたんですが、まさに!だと思いました。


「上から目線の正しさ」を無理やり押し込んだ結果常にバックラッシュに怯え続ける欧米社会のスタイルでもなく。

逆に中国やロシアのように最初から強権的に権力で押し込んでしまうようなものでもなく。

皆が全員バラバラに言いたいことを言い合ったまま、しかし「人工的な概念を無理やり押し込むことは決してできない完全な相対性」が維持されているからこそ、最後の最後に消去法的に浮かび上がってくる「ど真ん中の具体的解決策」だけが積み重ねていけるような。

結果として、岡田氏のPTA改革のように、社会の中にある無数の現場レベルで「逆側の立場」との対話が確保されながら改革が一歩ずつ進むことで、「社会の逆側を断罪&糾弾しまくって無理やり改革した国」よりも、「リベラル派の理想の実現度」においても上回っていける未来は可能だと私は考えています。

経済面の改革にも、気候変動対策的なエコ課題の事業化といった問題についても全く同じことが言えるはず。

「ウサギとカメの競争」の「カメ」の道を堂々と行きましょう。

そこに我々の次の繁栄の道はありますよ。

というわけで、岡田憲治先生の以下の本、たいへんおすすめです。ぜひどうぞ。

政治学者、PTA会長になる

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また、先日出た私の新刊

日本人のための議論と対話の教科書

…もよろしくお願いします!

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今回記事の無料部分はここまでです。

ここ以降は、最近の日本で静かに起きている「大きな変化」についてもう少し書きます。

さっきの「仕事を依頼してくれた大企業が、調べてみたらいつの間にか大きく変貌していた」話の連続ツイートでも書いたんですが、

パナソニックの小売の方針転換っていうのが地味に話題なんですが、これって凄い大きな変化なんですよね。

日本においては、メーカーよりも小売が王様だったというか、家電メーカーよりも家電量販店の権力が強すぎて、方針を量販店が引っ張りすぎて国内に過剰に最適化した商品展開になってしまい、グローバルで見た日本の白物家電の強烈な凋落を招いてしまったところがある。

このへん、販売チャネルをメーカーが抑え続け、グローバルな展開の合理性と国内市場での活動があまり乖離せずに済んだ自動車産業の国際競争力が全然落ちていないのと対照的だなと思うわけですが。

そしてこの背後には、「パナソニック松下幸之助vsダイエー中内功」の大論争ってのが昔あったんですよ。

松下幸之助的な「共存共栄」ビジョンに対して、一世代下で太平洋戦争の前線で一兵卒として大変な苦労をした反骨精神の塊の中内功が徹底的に逆らって攻撃をしかけた論争があったんですね。

「共存共栄を掲げる良識」みたいなしゃらくさいパターナリズムよりも、「財布の紐を握っている”お母ちゃんたち”の方が偉いのだ」的な、「中内功的なありとあらゆる”上位者”に噛み付く反骨精神」みたいなものが、昭和末期から平成時代への「デフレ経済」を作ったのだ…と言っていいぐらいだなと私は思っていて。

でもその「反骨精神」って、結局タコが自分の足を食ってるみたいな構造にあることが、平成30年まるごとかけて明らかになってきた中で、ついに「新しい着地点」が見えてきてるってことだと思うんですね。

ある意味で、「戦争という傷」ゆえに、日本社会の中の反骨精神が、合理的な程度問題を超えて「日本国」的なものを原理主義的に敵視することを一種「自己目的化」してしまうことで、社会全体の混乱を生み出していたところが、この「ダイエーの時代以降の国内激安小売が王様の時代」にはあったと思うんですよ。

上記のパナソニックの方針転換は、そういう流れごと転換しようとする「物凄く大きな改革」なんだけど、それが地味にスルリと動き始めていること自体が実は凄いことなんですよね。

そしてそれは経済行為における転換に留まらず、「戦後左翼の紋切り型的発想」が転換する流れでもあるはずなんですね。

「自己目的化した無限大の反骨精神」が、グローバリズムという「共通の外敵」とぶつかることで、今まで「敵同士」だったはずの松下さんと中内くんが、「共通の敵」に向かってタッグを組む、「ベジータとゴクウの共闘」とか「ルカワから花道へのラストパス」とかみたいな、「少年漫画的胸アツ展開」みたいな構造に持っていく流れが起きているんじゃないかとか。

以下の部分では、それが持つ意味は何なのかとか、「無限大の自己目的化した反骨精神」をいかに「全体最適」的な合理性に合致させていくかがこれから大事になるんだ、といった話をします。

この「連携」が本質的なレベルでもうまく動き始めることによってのみ、昭和末期から平成30年を貫いてきた日本の「デフレ時代」は終わるといっていいぐらいのなにかがあるんじゃないかと自分は考えています。


2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。また、結構人気がある「幻の原稿」一冊分もマガジン購読者はお読みいただけます。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

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また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

さらに、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。(マガジン購読者はこれも一冊まるごとお読みいただけます)

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