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スタジオジブリの雑誌『熱風』の記事で、御田寺圭a.k.a”白饅頭”氏と対談してきました。

これは前後編の「後編」なんですが、前編では、主に「経済・経営」的な話題において、「安倍政権時代の経産省的無責任な言いっぱなし」文化を補完するにはどうすればいいのか?という話をしました。

上記の「前編」をざっとまとめると以下のようになります。

安倍時代の特徴である平成時代風の「言いっぱなしの改革ビジョン」は、「マクロに見た方向性としては正しい」けど「現場とのラストワンマイルの調整」が放置されているので全然実現しない(あるいは非常にイビツな形になってしまう)。

「現場側の事情」と「マクロに見た合理的方向性」をいかにすり合わせるか?がこれからの課題。

それによって、『知的階層がゴリ押しに改革を進める結果、社会の現場レベルにソッポを向かれて、時々妊娠中絶を禁止されるほどのバックラッシュに悩むことになる欧米社会の悪癖』を超える社会ビジョンを示すことがこれからの日本の使命なのだ。

・・・つまり一個前の記事においては、「政治面におけるネオリベ(≒新自由主義≒市場原理主義)」的な風潮をいかに日本社会と無無理に接続するのか、その「現実と理想とのラストワンマイル」をいかに埋めていくべきか・・・という話をしていたのですが。

一方で、そういう「経済面における現実的すり合わせ」を安定的にやるためには、同時に「政治・文化面における現実的すり合わせ」も表裏一体に必要だよなと思うわけです。

経済面におけるグローバリズム的押し付けが「ネオリベ」と総称されるものだとすると、政治・文化面におけるグローバリズム的押し付けは「ポリコレ(政治的正しさ)」と総称するのが象徴的にわかりやすいと思うのですが。

この「ポリコレ」的政治・文化面における課題において、「マクロに見た方向性」と「現場レベルの事情」をちゃんと対等にすり合わせる方式を日本全体で徹底的に共有していくために、凄い大事な論調を提起しているネット論客として白饅頭氏(本名=御田寺圭)という人がいるんだと私は考えていてですね。

で、ネットでの白饅頭氏の活躍について知ってる人は今更だと思いますが、彼がスタジオジブリの発行する「熱風」というフリーペーパーで連載を持っていて、その紙面で対談をしませんか、という話を貰って先日行って来ました。(8月10日発刊号に載る予定です)

都内某所にあるスタジオジブリのオフィスにて

ちなみにこの「熱風」って無料のフリーペーパーなのはいいんですが、定期購読以外では限られた書店に発刊日近くにいかないと手に入らない非常にマニアックな媒体みたいなのでご注意ください。(このリストに載ってる書店に8月10日以降に行っていただければと思います)



で、白饅頭氏といえば、「フェミニズムとポリコレの敵」みたいな印象で、彼と仲良くしてると「失望しました!」って言われる人が沢山いるみたいな話もあったりするんですよね。

でもそういう意見は、彼の価値を見誤っていると私は考えています。

今回の対談だけでなく継続的に一緒に何かやれないかという話が出ているので、普段仲良くしているウェブメディアの編集者に一緒に来て貰ったんですが、彼も最初は

「ええ?白饅頭氏ですか?ウチはリベラル派の媒体なんで彼はちょっと・・・編集会議通せる自信がないですね」

ウェブ編集者J氏

って感じだったんですが(笑)でも対談を最後まで聞いて、

「凄い本当はリベラルな人だった。これなら企画もやっていけるかも」

ウェブ編集者J氏

…と言っていました。

この「白饅頭氏の世間的印象」と「御田寺圭という論客の本質」とのギャップを考えることが、これからの日本の「ネット論壇」的に非常に大事なことだと思うので、実際に対談した感想なども含めながら、「論客 白饅頭氏=御田寺圭」が持つ両義的な重要性とは何なのか?について掘り下げる記事です。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●ネット上の白饅頭氏と実際に会った御田寺圭とのギャップは何を意味するか?

白饅頭氏は、例の可愛いイラスト自画像(名刺にも入ってました)とか、あと「表現の自由問題」でいわゆる「オタク側」を擁護する論陣を張っていたり、秋葉原在住だったりという多重のイメージ戦略があって、ある種「オタク的」あるいは少なくとも「文化系」のイメージがあると思うんですね。

でも、先述の同行したウェブ編集者いわく、

倉本さんが仲間を募って一つの流れを生み出すために保守派っぽい擬態をしているように、御田寺さんは「オタクに擬態している非オタク」なんだと思います。彼のファンは、彼本人があれだけ精悍で男らしい感じの人物だと知ったら嫉妬して幻滅するんじゃないですかね?

ウェブ編集者J氏

…みたいなことを言っていて笑いました。

論客として十分すぎるほど収入があってもいまだに肉体労働を定期的にしているだけあって日焼けして凄い精悍な感じだし、持っている服や小物のセンスもいいし、一番イメージしやすいのは、一昔前の電通とか商社とかリクルートとかの「体育会系陽キャなエリートサラリーマン」の印象が近いです(本質はかなり違うけど外形的印象としてはね)。

そういう人たちが共通して出す、「独特の胴に響く低い声」の感じなんかがまさにそういうグループの人みたいな印象がありました。

彼の言論のコアにあるのは、「オタク論壇」的なものであるというよりは、

・色々と貧困的な状況で生まれ育った出自
・フォークリフトに載る現場労働者としての体験

…このあたりからくる、「インテリ階層の独善性」への批判をする論陣を張っていく部分だと思うんですね。

その意味においては、一世代前のマルキスト的な左翼性の”一番良い部分”というか、彼の自覚としては「ヒップホップ的レペゼン性」をちゃんと持っているところがあるんですよ。

そのへんが、彼が単なる差別主義者とは言えない良識がある部分だというか、というか「彼のような言論」自体が「左翼的良識の敵」だと糾弾されてしまう今の状況自体の危険性を表しているというか。

2●「白饅頭防衛線」を突破されるともっと酷いことが起きるぞ!という直感をいかに尊重できるかが今後の分水嶺

一緒に行った編集者が対談の最後に、

今のネットにおいて「白饅頭の敵」になるようなリベラル勢力が必死に主張しているのは、あまりに酷い差別主義を隠しもしない極右的なものが今の日本では止められなくなっているからだ

ウェブ編集者J氏

…という話をしていたんですが、一方で御田寺氏は、以下のように答えていて。

自分は「そういう直接的な右翼的言説」に参加したことはないのは注意深く見ればよくわかるはずだ。そうではなくて、そういうリベラル派の急進主義が、人間社会を維持するための大事な絆を引きちぎってしまうと、その先で「もっと酷いバックラッシュ」が起きてしまう事を止めようとしているのだ

白饅頭氏(御田寺圭)

この感覚↑は私も凄いわかるんですよね。

彼と私は同じ神戸出身でも、まあ私は別に富裕層出身ってわけじゃあ全然ないですが貧困層でもない一方で、彼は相当苦労してきた界隈の出身らしいので。

同時に、彼のように実際に現場レベルで肉体労働をしてきた経験があれば、その「周囲にいた人たち」が「自分」に信託している、「俺たちの事情を忘れないでくれ」という信頼に答えられているかどうかという大事な基準が言論の基礎となっていく。

はっきり言って、「売れて」からも定期的に原点を忘れないように肉体労働をちゃんと入れるとかって、マジでそんな事する人なかなかいないですよ。その点だけとってみても凄いエライ。

昔の「無頼派ブンガクシャ」とかでも売れてからそんなこと絶対しないですからね(笑)そのへんの「本気度」が違うというか。

今日本のネットのSNSの「”ガチ右翼”とは違うアンチリベラル論壇」みたいなのがありますけど、僕は全員知ってるわけではないですが、少なくとも白饅頭氏は、「単にリベラルがムカつく」みたいなレベルでなくそれぞれなりに一貫した社会の理想像を明確に持って活動している人のように見えます。

一方で私も、「前編」の最初で自己紹介したように、外資コンサル的価値観と「日本社会」とのギャップを放置していたらどこかで大爆発するだろうと思って、わざわざブラック企業や肉体労働現場やカルト宗教団体に身を持って潜入した上で今は中小企業コンサルをしている人間なので、「問題意識のコア」が凄い共感できるんですよね。

(その一環で僕もフォークリフトには乗らなかったけど物流倉庫で働いていた事はあるので、「曜日によって凄い扱いづらい荷物が届いてゲンナリするんですよね。荷主の国ごとに凄い積込みがメチャクチャな国があったりとか」みたいな「物流現場あるある」で盛り上がったりしてそれも楽しかったです。)

要は、そこにいわば「白饅頭防衛線」みたいなものがあるんですよ。

その「防衛線」を突破されてしまうと、もう「非インテリ階層」が「インテリの言うこと」を聞く義理なんて全然ないぜ!ってことになってしまう分水嶺があるんですね。

アメリカはその「防衛線」が崩壊してしまったので、数千万人の怒れる「反リベラル」派が、もうインテリが言うことにはとにかく全部反対して、徹底的に逆なことを実現してやる!というムーブメントが止められなくなっているわけですよね。

でも、「リベラル派の理想」は、本来「白饅頭防衛線」を崩壊させない形でも実現していけるはずなんですね。

というか、そうしないといけないはずなんですよ本来は。

そこに、「リベラル派の理想に擬態した単なるインテリのエゴ」を決して通さず、社会の絆を崩壊させずに、「具体的な改善」だけを選択的に通す「選別膜」のようなものを作っていくことが必要なんですね。

つまり僕が主張したいことは、

リベラル派にとって「ガチの極右勢力」は確かに不倶戴天の敵かもしれないが、「白饅頭防衛線」みたいなものとは、発展的にお互いを利用し合う形に決着する必要がある対象であるはずなんだということ

…なんですよ。

3●言葉での殴り合いだけが重視されると、言語能力と「蓄積された用語」のある人だけに特権的に権力が渡される不均衡が生まれる

それに関連して、彼が言っているのは、

現時点で言語化可能なメッセージだけが重視される社会になると、言語化能力がある人の権利だけが無制限に通る反面、自分が生まれ育った環境にいた仲間や、肉体労働者のように”言葉を持たない”存在の権利は徹底的に軽んじられる社会になってしまう。その不均衡を是正することが必要だ。

白饅頭氏(御田寺圭)

こういう感じの問題意識なんですよね。これも私は凄いわかるんですよね。

以前以下の記事で書きましたけど、たとえば「地方の中小企業のリソース」には限度があるんで、「彼らが実現できない正しさ」を押し込まれてもどうしようもないんですよね。

むしろたんに「正しさの押し売り」にしかなってないと、それを実現しようがない現場レベルではどんどん「地下経済化」するしかなくなるので、余計に「優しい良識」の外側にはじき出されて生きる人が増えてしまう。

そのあたりに無自覚だと、

社会の中心部で非常に厳密なマナーが違反すると一発アウトというレベルで整備される一方、社会の末端はそういう「優しさ」から完全に排除されたカオスが広がっていってしまう

…という「アメリカ型社会あるある」にまっしぐらになってしまうからですね。

もう少し詳細にこの「インテリの論理だけが通る不均衡」の現場レベルでの現象について解説すると、以下のようになっているんですね。

A・ローカル社会になればなるほど、使えるリソースが少ない中でなんとかやりくりして回している。溢れるほどの資本が使えなくても、構成員があまり飢えないように、あまりに酷い過重労働が一箇所に集中しないようにやりくりする本能レベルでの紐帯がある。

B・しかし、社会の中心部にいるインテリが、そこに抽象度の高い正義の基準だけで「アレは善、これは悪」みたいに殴りかかってくると、その「現場レベルで培われた助け合いの連鎖」が崩壊してしまう。

C・インテリは自分たちの内輪で良い格好ができる「ネタ」にできるからいいけど、でもそういうインテリ階層は次の日にはその地方のナントカとかいう村がどうなろうと全然意識にも登らなくて忘れちゃってる事が多い。

D・一方でそのローカル社会側では、その「ローカル社会を回す当事者意識」を持ってる人よりも、「都会のインテリの流行にオモネッて、果てしなく高所からその社会が遅れてると断罪する存在」を過剰に持ち上げることになってしまう

↑ここの「論功行賞の歪み」が社会を一番病ませるんですよね。

結果として、「人種的多様性」みたいなのが増えるたびに「活躍できる人間の種類」はむしろ物凄く狭いストライクゾーンに入る人以外許容されない社会になっていってしまう。

それはここ一週間ほどなぜか掘り出されて読まれてる以下の↓記事に書いたような課題があるんですよ。

もちろん、辺境地域の閉鎖性がそのまま放置されることなく、ちゃんとした知性が深く考えた改善を通用させていくことは非常に大事なことですが、そのためには前半記事で書いたようにいかにそれを「無無理に溶け合わせていく」プロセスを右も左も皆で真剣にサポートしていく必要があるんですよ。

「問題点の指摘」→「現状の事情の理解」→「問題の改善」とスムーズに受け渡しが行われればいいけど、このプロセスの一歩目にすぎない「しかかり品」の「問題点の指摘」だけが溢れかえっていてそのまま放置されれば、そのローカル社会はどんどん機能不善化していってしまうわけですね。

私の本からの以下の図のように、「課題が認識される」までと、「課題が認識されてから解決策を積み重ねる」までに必要なメッセージの出し方は違うんですよ。

この図左列の「滑走路段階」で課題出しが終わったら、双方協力して右列の「飛行段階」のモードに順次移行していく必要があるんですが、アメリカ型の社会改革モードを絶対視していると、この部分の移行が全然できないんですよ。

だから、「”LGBTQの後”にさらに略称アルファベットが増え続ける」レベルの「ある意味で些末なマナー」は徹底的に大問題になるのに、初等教育の予算が学区によって違いすぎて貧困層が完全に固定されてしまうというような、「格差の根本問題」が徹底的に放置されてしまう。

いやいや、トランス女性が疎外感を感じずにすむ社会にするの大事ですよ?でもそれこそが「社会の中で唯一絶対に優先されるべき課題」だと主張するとモメるに決まってるじゃないですか。

人それぞれ心を痛めている課題がある中で、「トランス女性の生きづらさ」はあらゆる課題よりも常に優先されるべき問題で、白人男性の貧困問題や自殺率が有意に高い問題などは「マジョリティの甘え」に過ぎないから対処する必要がない・・・とか言うのが「正義」であるはずがない。

そういう「カルト化するリベラル派のゴリ押し」のバランス感覚の欠如ゆえに、「物凄く些末なマナー」みたいなものが強烈に違反したら一発アウトレベルで普及する反面、アメリカ社会は世界的に見ても「経済階層」が相当に固定化された「アメリカンドリームなんて存在しない」社会になっていってしまっている。

なんか最近の日本の政治を批判する言葉として「やってるフリ」っていうのが流行ってましたけど、アメリカのこういう部分における「やってるフリ」しかしないレベルは日本人の想像を絶してますからね。

「そうならないためのギリギリの防波堤」が「白饅頭防衛線」なんですよね。

彼は「欧米由来の一方的な正しさ」を徹底的に相対化しようとする言説を一貫してすることで、この「インテリの言うことなんて絶対聞いてやらねーからな!!」というモンスタームーブメントが止められなくなってしまう悲劇をギリギリのところで止めようとしている存在なのだ、と理解すると良いのだと思います。

4●「人文社会学アカデミアのカルト化」に「白饅頭防衛線」で対抗し、「具体的で対等な話」にいかに持ち込めるかが、アメリカ型分断に陥らないために必要なこと

なんか先日、「表現の自由関係の参院選候補者」赤松氏に対してだったと思いますが、

「フェミニズムというのはアカデミアでちゃんと定義されているものなのだから、素人が批判してはいけない」

某フェミニズム系社会学者

…的な事を言っている人がいてショックを受けたんですよね。ちょっと私はあまりこういうネット論戦的なものに疎いので誰が誰だかわかってないまま流れ去ってしまったんですが(白饅頭氏は発言主を一発で特定してました)。

でもなんか、こういう↑「アカデミアの内部でこう言っているのだから問答無用だ」という態度って問題だと思うんですよね。

というのは、例えば「新自由主義経済学(ネオリベ)」だって、「アカデミアの内部から出てきた」ものなんで、「経済のプロの経済学者が言っているのだから問答無用だ。素人が口答えするな!」的に社会全体に押し込まれたら困るわけじゃないですか。

人文社会系に比べてその有用性が比較にならないほど厳密に担保されている例えばワクチン行政とかですら、人々の「気持ち」と溶け合わせるように普及させないとしょうもないバックラッシュで悩まされることになるわけですしね。

一部の「政治的活動にコミットする型の人文社会学系」では、その内輪で議論された内容を社会が丸呑みにすることを当然のように要求する傾向があって、それが余計に混乱を引き起こしているように思うんですね。

「学問の自由」というのはその「象牙の塔の中での議論において政治的圧力を受けて歪められたりしない」ということであって、それを「世の中が丸呑みに受け入れなくてはならない」という意味ではないはずです

「自分たちの内輪の議論を社会全体が問答無用で受け入れるべきだ」というのは、まさに「カルト」の論理そのものですよね。

この「ネオリベ経済学カルト」が世界を席巻するのと同じように、「人文社会学系のポリコレカルト」も全く同じモードでローカル社会の事情をなぎ倒そうとするので、余計にその「理想」ごと跳ね返されかねない状況になっているんですよ。

で、「ネオリベ経済学」だって大枠では良いことを言っている面も沢山あるんですよ。実際それで経済全体としては成長している国が多いですからね。

でもその「実践面」において実社会側とのすり合わせを軽視すると、副作用としての格差問題が社会不安に繋がったりといった色々な困難にぶち当たるわけじゃないですか。

以下のインタビューで言ったように、

https://www.minnanokaigo.com/news/special/keizokuramoto1/

私のクライアントの中小企業で、ここ10年で150万円ほど平均給与を上げられた成功例も、「9割までは頭の良い人が考えた大枠を通用させていくこと」が大事な側面は明らかにあるんですよ。

しかし「残りの1割」のところでしっかりと現場側の「事情」と向き合って細部のすり合わせをやっていかないと、結局それは長続きしないし、しょうもない人間関係的なことで大爆発して安定的な成長どころでなくなってしまったりもする。

そういう「経済面」における問題と同じように、「ポリコレ系政治課題」面においても、この「人文社会学系アカデミアのカルト化」を「白饅頭防衛線」的なもので相対化し、どっちもどっち的な拮抗状態をまずは生み出すことが大事なんですよね。

先日の対談でも御田寺氏が力説してましたが、そこを無理にインテリ側の事情だけで押し切ってしまうと、アメリカで妊娠中絶の権利が危うくなったりレベルじゃなくて、それこそタリバンレベルのバックラッシュを誘発してしまえば、もうそこでは「欧米的理想」が完全に吹き飛んでしまった社会になってしまうからですね。

5●「事情を理解して共同戦線を作る」「疎外された気持ちを否定しない」をセットでやっていく

私のクライアントの中小企業で、地方だけど結構女性活躍も進んでいる会社の社長が非常に良いこと言っててですね。

それは、

・この会社の事情を理解してもらい、共同戦線を作っていく
・疎外されたと感じたその子の”気持ち”は決して否定しない
・・・これらをセットで両方進めていくことが大事

某倉本圭造のクライアント企業の社長氏

これ、凄いナルホドと思ったんですよね。

今は「日本社会側の事情」を言語化する機運も能力も積み重ねられた用語もなくて、全部「旧時代的な差別主義者のエゴ」扱いされて断罪されまくっているので、自分たちの事情を守るために強引にでも黙殺さざるを得なくなっているところがある。

結果として、差別されたと感じている人の異議申し立てが「お気持ちw」とか言って馬鹿にされがちな決着になってしまってますよね。

でも、別に誰の「お気持ち」だってちゃんと「そうだよねえ」的にそのまま受けいられる社会になってる方がいいに決まってるわけですよね。

ただ、「アメリカンに過剰にポジティブな人でなくてもマアマア安定した秩序の中で生きていける」日本という社会を維持するためのアレコレの事情が、一切言語化されずに「旧時代の遺物」として問答無用で殴りまくっている勢力が一方であるので、「日本社会に疎外されたと感じている人の気持ち」も「お気持ちw」的に排除されるだけで終わってしまっている。

例えば、女性がいなかった中小企業に女性を入れるようにしていくためには、女子トイレがないとか、社食に女性用メニューがないとか、そういうレベルで細かいことを実現していく必要があるんですよね。

でもそういうの、コスト的にできることとできないことがあるんで、「絶対こういう設備がなくては」みたいに問答無用で押し込まれても困る。

でもその「事情」を相互に尊重できる機運さえあれば、できる限りの事はできるし、「疎外されたという気持ち」を否定する必要もなくなるわけですよ。

そういう「具体的な改善」を共有していけるかが大事で、両側からそういう「具体的改善」を積み重ねる運動が進んでくれば、「全部社会のせいにする糾弾自家中毒マニア」も「ただ黙ってろとハネつける運動」も、両方立ち枯れるように持っていけるはずだと思っています。

要は、「丁寧に混ぜ合わせればちゃんとインテリ以外の人心との調和が取れて、理想がバックラッシュに晒される事もなくなる」ってことなんですよ。

人間社会を成り立たせている相互の義理の連鎖みたいなものを無理やり引きちぎって、個人主義者のインテリだけが生きやすい社会に無理やり変えようとしたら、反発が起きて社会が不安定化するのは当然なんですね。

だからこそまず、「人文社会学系カルトの糾弾中毒ムーブメント」を「白饅頭防衛線」で相対化して、「拮抗状態」に持っていくことが必要なんですよ。

6●「数字が半分になってない理由」を全部”差別”のせいにするのをまずやめ、「そこにある原因」をフェアに掘り下げるべき

上記のクライアントの社長氏の言ってることを聞いてると、日本における女性活用の難しさを色々と考えさせられるところがあります。

そのクライアントは愛知県のとあるメーカーの会社ですけど、愛知県にはトヨタに限らず分厚いメーカーの蓄積があるので、キラキラしてなくて地味だけど結構高給だし、海外駐在とかもありえる仕事は沢山あるんですよね。

でもこの「キラキラしてなくて地味な職種」という点が大問題で、愛知県は全国から男が仕事を求めて入ってくるけど女性は「キラキラした仕事」を求めて東京とかに転出超過になっちゃってるんですよ。

彼らが女性採用を渋ってるというわけではなく色々策を講じようとはしてるんですが、分野的ギャップがそもそも大きすぎるんですよね。

クライアント氏が言うには、「営業事務」という名称の募集では女性は来ないが、「マーケティングマネージャー」にすると来てくれるとか言ってて笑ってしまいましたけど。

でもここで、「キラキラしてない地味な職種」であることは、別にその会社が差別主義だからってわけじゃないですよね?現状では日本の女性があまりそういうのに興味ないってだけの話じゃないですか。

ジェンダーギャップ指数的に「物凄く丸めた数字が半々になってない理由」というのは、あと一段ブレイクダウンすれば無数の個別的課題が見えてくるんで、ただ大上段に殴っていても改善できないんですよ。

その他にもいろいろ、一個前の記事で書いたように日本ではスマホの中の小さな部品とか産業機器とか特殊な化学製品とか、世界シェア100%近いような超強い分野があって地方でも地味に高給出してるし世界駐在可能な職種もあるんですが、どれも全部「今の普通の日本女性が興味を持つには傾向的に分野が地味すぎる」んですよね。

ある意味で「あまりアカデミア的流行と関係ない地味なことでも人生かけてやる人材をカルチャー的に確保できている」事が強みの源泉みたいなところもあるんで、単に「女性を”キラキラのキャリアウーマン”的方向にエンパワーする」というよりも、「そういう地味な分野にも女性が興味を持ってくれるように」あるいは「興味を持ってくれる特有のタイプの女性が、具体的な特有の障害でキャリアを諦めないように」持っていく必要がある。

そうやって「日本社会側の事情」をもっと言語化して、それに適切な対処が行われないと数字は改善しないタイプの課題が沢山あるんですよ。

そういう「特有のミスマッチ」は、「大上段の差別解消論」ではなくて、「特有のミスマッチの具体的解決」によってしか前に進まない。

「キラキラ系」じゃないけどマアマア高給を出せる伝統的な日本の会社に対して、数は少なくても「興味がある女性」だっているはずなんだけど、そのミスマッチ解消は「差別問題」というよりも「個別の事情をちゃんと吸い上げること」によってしか解決できないんですよ。

そういう会社に入った女性がその会社で出世していくにあたって具体的に人生の中で困ること・・・に対して、その会社側の事情も勘案した上で両方満足できる具体的なしくみを個別に作っていく必要がある。

それはマクロに見て「差別がある!」と糾弾していれば進む改善ではないんですよね。一個一個の個別事例を、「両側の事情」を吸い上げて変えていく必要があるので。

今の「カルト化する人文社会学界隈(のうちの政治活動家タイプの人たち)」は、こういう社会のニーズにちゃんと答えられてないということが、まさに「白饅頭防衛線による挑戦」なんで、それには学問の本来的使命を思い起こしてちゃんと対応していただかないと。

私はコンサル業にかたわら「文通」をしながら色んな個人の人生について一緒に考える仕事もしていて(ご興味があればこちら)、そのクライアントにはいわゆるLGBTとかワーキングマザーとかでいわゆる「日本社会におけるマイノリティ属性」の人もたくさんいるんですけどね。

彼らが結構共通してよく言っているのは、

「アメリカンな差別解消運動」が大上段すぎて、「自分の境遇」の改善に繋がっている実感がない。必要な活動だと思うし感謝もしているが、どうしても凄く他人事に聞こえてしまう。

…という嘆きなんですよね。

なんでかというと、既に「特定の会社の中で働いている女性」がそのまま上がっていくためには、「その会社特有の課題」を”両側の事情を持ち寄って”解決する機運が必要だからです。

そこを大上段に「あらゆる古い社会の抑圧を許さない」みたいな攻撃姿勢でいると、それでねじ込んで出世してもその女性がそこで凄く「働きづらい」んですよね。

「その会社なりの価値の出し方や強みの維持の仕組みを尊重した上で、女性ならではのライフイベントへの配慮などもしつつ、ちゃんと出世して残ってくれやすい仕組みが必要ですね」

…というのは、既に会社側も働く女性側もリアルに考えていることなんで、あとはいかに「両側の事情を吸い上げられるか」が大事なフェーズになっているんですよ。

さっきの「滑走路段階」と「飛行段階」の図でいえば、「飛行段階」に入ってきた課題について「脅し」や「相手の事情全否定」のモードを残していると解決の邪魔にしかならなくなるわけです。

今の日本社会は既に「脅し」よりも「具体的な個別課題」をいかに無数に無数に実体に即して変えていけるかが大事なフェーズに入っているのに、例えばフェミニズム学者が全力でバトルしているのは「トランス女性のトイレ問題」だったりすると、「いやいやそれも無意味とは言わないが!」と「大多数の普通に働いている女性」から理解が得られなくなるのも当然だと思います。

もちろん、人によって得意不得意があるんで、「アナーキスト型に糾弾しまくるしか自分の生きる道はない」タイプの人もいるかもしれませんが、そういう人はぜひスムーズな問題解決の邪魔をしないように「飛行段階」に移った課題からは徐々にフェードアウトして、まだ「滑走路段階」の課題にどんどん移っていっていただけるとありがたいです(笑)

怪我をした身体の古い組織を食べて処理する細胞と、そこに生命を再建する細胞が、それぞれバラバラに動きつつ全体として連携が取れるようにしていく必要があるんですね。

今は「何かが差別だから許せないと糾弾できる理由」をいくらでも簡単につくれる魔法のステッキみたいなのがあって、その「糾弾ごっこ」だけがヒートアップしてしまうんですけど、そのほとんどが、

「あと一段中立的にフェアに原因の掘り下げが行われたら解決が進むのに」という現象

…なんですよね。

もっと「社会問題」レベルにおいて象徴的な例が「私立医学部入試の傾斜配分」問題で、それがアメリカみたいに貧乏人はマトモな医療が受けられないような国にしないための必死の現場的取り組みの結果生まれていることがわかれば、

この入試差別は是正する。→女医が増えても崩壊しない医療制度改革を行う(そのために、今のような”コンビニ受診的医療”を諦めてもらう面も出てくるかもしれないが、それでも日本的万人への医療の平等性は維持できる制度を考える)


こういう難しい調整をちゃんと「皆で取り組むべき課題」として引き上げることができるなら、延々「女性vs日本社会」でしょうもない叩き合いをする必要もなくなる。

そこを単なる被害者意識で「日本社会が女を差別しているからだ」という風に糾弾するモードがいかにアンフェアなものかが理解されないと、日本社会もいずれアメリカみたいに数千万人が「リベラル派の理想を全部否定してやる」と全力で燃え盛る分断社会になっていくんですよ。

さっき書いたように、
・日本社会側の事情を、単に差別主義と断罪する前にフェアに深堀りして理解する

と、

・「疎外されたという気持ち」を否定せずに包摂する

…というのは、「どっちも」やらないといけないことだし、片方を拒否すると片方も当然拒否されてしまう問題なんですね。

7●「次のステップ」に行くはるか手前で「嘆いてみせる」で終わらないために

要は具体的に「ポリコレ側」の人に要望したいのは、別にそれほど難しいことではないんですよ。

「ジェンダーギャップ指数」的にアレモコレモ全部丸めてしまって色々と問題が指摘されている数字で大上段から殴るのをやめて、あと一段深堀りした具体的課題について、「具体的な改善を考えられる層」に質問を手渡すだけでいいんですよ。

別に社会のあらゆる細部の課題について、「ポリコレ勢力」が詳しく実情を知っている必要はないわけですね。

でも、

「医学部入試の問題」にしろ「伝統的大企業における男女比の問題」にしろ、「政治家の男女比の問題」にしろ「東大の男女比の問題」にしろ、家事分担の男女比にしろ、全部「違う個別具体的な原因」がある

んですよ。

だから、それぞれの小課題に対して、「大所高所から断罪するリベラル派の学者の内輪トーク」じゃなくて、「実際に現場レベルで当該分野を毎日切り回している層」の中に協力者を見つけて、そこに「どうしたらいいか」質問を投げるだけでいい。

”たったそれだけの事を全方位的にちゃんとやっていく”だけで、「ポリコレ問題」と「日本社会」の関係性は劇的に変わるでしょう。

”たったそれだけのこと”ですけど、それが全然されてなくて、「いかに日本が差別的か」と悲憤慷慨してみせることだけが「メインコンテンツ」みたいな状況で、ちょっとでも自分たちに批判が向いたら徹底的に攻撃性をむき出しにする・・・ということを続ければ続けるほど、日本における「リベラル派野党」の議席はどんどん縮小して消滅寸前になっていってしまう現状は変えられなくて当然だと思います。

一個前の「前編」記事で、経済分野について書いた事と同じで、「既に変えていこうと思ってる相手にグローバル視点で概論的に比較した”脅し”」の部分は不要どころか有害で、

1 「具体的にここを変えてください」
2 「こういう事情があるんです」
3 「なるほどではこうすればどうでしょう」
4 「なるほどそれはいいですね。やりましょう」

↑こういうのをただただ無数に無数にあらゆる細部の課題について積んでいけるかどうかが大事な局面になっているんですよ。上記の四行の会話の二行目の時点で全力でブチギレて大騒ぎしてたら話が進まないの当然ですよね?

そのためには「差別問題」だと思われていたあらゆる現象の背後に「日本的な社会のセーフティネット」がある事を理解して、一個変える時に連動して社会のあちこちを配慮しながら変えていかないと、結局その「差別問題を一個解消するごとに日本社会がアメリカ型格差社会に落ち込んでしまう」因果関係を止められなくなるのだということをご理解することが第一歩として絶対必要なんですね。

つまり「差別問題」と捉えるのではなくて「大半の人間が楽に生きるための役割分担」として過去に発達してきたものを、「別の時代に合わせた役割分担に変えていく」という「徹底的にニュートラルな発想」で読み解いていかないと、「そこにあるリアリティ」を細部まで読み出して解決することができなくなるわけです。

8●具体的提案がなく「被害者意識自体がメインコンテンツ」みたいなのは愛想をつかされつつある

つまり、日本社会側に、「ポリコレ的に純粋化された理想」からして問題がどこかにある時に、そこにはたいてい「差別意識があるから」というだけではなく、日本社会を「アメリカンに物凄くアクティブな人」以外でも安穏と生きられるようにするための協力関係の結果として「とりあえず役割分担」していた構造があるんですよね。

そういう意味で、今の「差別解消運動」は、非常にアンフェアな数字の出し方をして、その数字が半分半分になっていない理由を全部「日本社会の差別性」のせいにして糾弾して終わり・・・みたいな感じになっていて、そういう運動は愛想を尽かされて当然だと思います。

それを一方的な「差別意識」に原因を求めること自体が、大げさに政治闘争風の言葉でいえば、

『欧米文明とは別個の社会の成り立ちで人々が助け合って日常をギリギリ回していることに対する敬意がない、ドス黒い文化帝国主義的な差別意識がダダ漏れ』

だから拒否されるんですよ!

結局現状の「欧米的理想」が、人類社会全体の2割もいない圧倒的特権階級の欧米諸国の「外側」に波及していかない理由について、単にその残り8割は野蛮で物事を理解しないクズどもだからだ的な差別意識を撒き散らすことなく真剣にその丁寧なローカル事情の吸い上げの必要性について痛感するのがマトモな人権平等意識というやつなんですよ。

一個前の前編記事で、

「具体的な問題の掘り下げができてない「外資コンサルのプレゼン資料ほど、前半でやたら杜撰な数字の出し方をして”脅し”まくる形式になっている」

…という話をしましたが、ポリコレ分野においてもまさに同じことが起きていると言えるでしょう。

「アメリカみたいに社会の末端が希望のないスラムみたいにならないようにカバーする仕組み」にちゃんと「一員として参加」してくれる意志があるなら、それを「男女一緒に支える」仕組みになったほうがいいというのは当然共有できることなはずです。

そういう抽象化された絶対正義で地べたに生きる人間を断罪しまくるのではなくて、「”この日本”を一緒にまわしていこうぜ」という共感と具体的な改善が両輪でスムーズに回り始めたら、家事の分担がどうこうみたいなしょうもない話で延々と感情的対立が噴火し続けることもなくなるんですよ。

「保育園落ちた日本死ね」も、発言者に「日本」という構造に自分は一員としてちゃんと貢献する気持ちが文面にあふれていたから、政策的にも急激に動いて、ここ数年でかなり状況は改善しましたよね。

そういう「人の気持ちのリンク」をいかに切らずに理想を溶け合わせていくかが、「アメリカ型の強烈な反知性バックラッシュ」を怯えずに社会を変えていくために必要なことなんですね。

思考停止した人工的な理屈で果てしなく生身の人間を殴りまくれるムーブメントを止めることで、やっと「具体的な話」を積み上げることが可能になる。

先日校正が回ってきたジブリの雑誌の対談でも以下のように話してますが、まさに今必要なのはこういうことなんです。

グローバルの論理でローカルを好き放題殴っているだけでは、ほんとに具体的な話には行けない。グローバリズムに対するローカル社会側の事情というのをちゃんと1個1個丁寧に見ないといけないという空気ができないと、具体的な細部の積み上げというのもできないんです。

倉本圭造(ジブリのフリーペーパー”熱風”における対談より)

さっき書いた僕のクライアントの社長の話で、

・その会社側の事情を理解してもらう
・その人が”疎外されたと感じた気持ち”自体は否定しない

の”両方”が大事だという話を書きましたが、「白饅頭防衛線」的な相対化が安定化してきて、単なる悲憤慷慨でなく「具体的課題に対するアタック」が行われるようになってくれば、今のように「お気持ちwww」みたいに馬鹿にする感じで拒否する必要もなくなってきて、双方向的に気持ちのよいコミュニケーションに置き換えていくことが可能になるでしょう。

9●まとめ

倉本”圭”造と御田寺”圭”ということで、よくネットで「圭の一族」ってひとくくりにされて、彼のところに「両方のファンなので一緒にイベントやってください」とかいう声がたまに届くらしいんですが。(時々僕のことを”きれいな方の白饅頭”と言う人もいる 笑)

彼は僕より10歳年下なんですが、同じ神戸出身ということも含めて、今回話してみてその「共通点」が見えてくると同時に違いも明らかになって、今まで以上に「挟み撃ちの形」が見えてきてよかったです。

彼が人生をかけて形成しているような「白饅頭防衛線」とほとんど同じ問題意識において、「インテリ側の内輪の論理だけを絶対化しないこと」というのが、いかに大事なことか・・・っていうのを僕は10年前に初めて本を出してからずっと言ってきたみたいなところがあるわけですけど。

でも、僕は彼みたいに本職で肉体労働をしてきた人間でもないし、どちらかというと中流インテリ家庭育ちなので、「そういうのが大事だと頭ではわかってるから無理してエミュレート」してきた部分があったなと思うんですね。

外資コンサルやめてからわざわざ肉体労働とかブラック営業会社とかに潜入して働いて、彼ら側の「気持ち」を理解できるようにして・・・とかは明らかに「無理してなんとかこなしている真似事」でしかない感じではあったので。

彼に

「ヤンキーあがりの自分にそういう部分は任せてください。倉本さんはもっと逆サイドでできることがあるはずです」

白饅頭氏(御田寺圭)

…と言われたのはちょっとドキッとしたというか感動したというか、結構心に響くものがありました。

あんまり他人に言われた言葉で奮い立つものがあって自分の行動を変える気になるってなかなかないことですが、そういうことをちゃんと言えるのってオトコマエやなあ、と思ったというかね。

そういう意味で彼はネットで彼の批判者から思われているほど「単なる冷笑派」ではないんですよ。

noteマガジンでも若いファンに対して「社会が全部悪いよね。女どもが悪いよね。あなたの痛みはわかるよぉ。間違ってないよぉ。」的に売文する感じよりむしろ、「現状のフェミニズムのアンフェアな部分は指摘するが、しかしお前はお前で頑張れよ」的なメッセージを常に出してる部分もあるしね。

彼の言説からは、その「白饅頭防衛線」的な絆を社会の中で守ることの重要性について、僕みたいな個人主義者が「頭で理解する」というのとは違ったレベルの、本式にナマの生活体験に根ざした確実な意志があると感じるんですよね。

あと、今の時代、やはり「ビジネスモデルが言論パワーを決める」ところがあって、人文アカデミアの内側で奉職してると人文アカデミア”村”の「内輪の論理」だけで潰してしまえますけど、彼みたいに「みんな」との直接取引的ビジネスモデルだと潰されずに主張できるという強みがありますからね。

要は「キャンセル」しようがない。

僕も、「言論」だけじゃなくてコンサルビジネスを別に持っているから、その時々の流行に噛み込まれすぎずに自分の立場を作ってこれているところもあるので。

そういう感じの「インテリ社会の内輪の論理」だけを決して絶対化させない防衛線を作っていくことで、「欧米社会が持ち出す理想」を全拒否にすることなく、減速ギアをかませてローカル社会側と無無理に接続する試みを、これから日本は徹底的に徹底的にやっていかないといけないんですよね。

・「欧米的インテリの理想を決して絶対化しない」
・「それを徹底的に相対化してローカル社会側の事情と”完全に対等なもの”として扱う」

逆説的なようですが、そうすることで「欧米的理想を全拒否にするモンスタームーブメント」を抑止できる防衛線を維持したまま、理想を具体的に社会に溶け込ませていくことが可能になるわけです。

こういう流れを日本社会で徹底していけば、「インテリの理想のゴリ押し」がトランプ派の反撃にあって常にバックラッシュに怯え続けるようなアメリカ型社会の不安定さを超える新しい人類社会の希望の旗を立てていけるでしょう。

この記事を読んで、白饅頭氏について偏見を持っていた人でも、「彼の存在価値」を理解できるかも?と思った人も結構いるんじゃないでしょうか。

彼や彼のフォロワーの言っていること「そのもの」に同意できなくてもいいんですよ。僕も全部合意してるわけではない。

特に彼本人はともかくとして彼のフォロワーの中には、単に「女は黙ってろ」的な気分を発散してるだけの人もいなくもない現状はフェアに見ればあるように思います。

でもそれは、日本のフェミニストの一部が「日本のオスなんか全員●ねばいい」とか発言しまくってるのとどっちもどっちの現象なので、要は「単なる大上段の罵り合いしかしてなくて意味のある改善フローが回ってない」から、その不全感がお互いへのヘイトに転換してるだけの現象なんですよね。

だからこそ、「白饅頭界隈が言っていること」でなく「彼らの運動の存在意義」と向き合う必要があるんですよ。

そこで「彼がやっていることの存在意義」を理解できれば、形の上では対立しつつも、「その先の調和」に向けて社会を具体的な改善に持っていくムーブメントを作っていけるでしょう。

その「彼らが突きつけてきている課題」にちゃんと向き合うなら、いかに「大上段の断罪でなく具体的な無数の改善をエンパワーできるか」という点が大事かを理解できるはずです。

そういう方針転換が行われる時、「大上段のリベラルの理想」が、今のようにあちこちからバックラッシュされることなく、「普通のワーキングマザー」「普通のLGBT」にも「自分ごと」の支持をしてもらえる運動に転換することができるでしょう。

最近は、統一協会みたいな宗教右派の強引な復古主義を排除しようというムーブメント、盛り上がってきてますよね?

でもああいう「宗教右派の暴走」は、アメリカで日本以上に激しいことがわかるように、逆側に「インテリの内輪の論理だけを押し付ける”カルト性”を持った存在が放置されている」現象の裏返しでもあるんですね。

だからこそそこをちゃんと「拮抗状態」に持ち込んで、大上段で殴りまくるだけで社会の具体的改善には興味がないインテリの独善性を掣肘し、「リアルな個別事情を無数に引き上げる問題解決フロー」に置き換えることができれば、その時はじめて日本社会は「宗教右派カルト」と手を切ることも可能になるんですね。

そうやって、「ネオリベ」的経済分野でも、「ポリコレ」的文化の分野でも、「ウサギとカメの競争」のカメの方式で、「バックラッシュに怯える必要がない変化」をただただ積み重ねていきましょう。

果てしなく分断されていく人類社会の中で、その「カメの作戦」をやりきった日本が輝く希望の光は唯一無二になりえるので、細かいことは考えなくてもそういう存在が経済的に繁栄することなど簡単なことだと言えるはずですよ。

というわけで、御田寺氏も「同じ事を逆側から言っている」という二冊の本、彼の

ただしさに殺されないために

と、倉本圭造の

日本人のための議論と対話の教科書

をぜひよろしくお願いします。

僕の本の「はじめに」は以下のページで試し読みができます!

今回記事はここまでです。長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。

ここから先は、僕と御田寺氏の言論に共通する「神戸」という要素について、特に震災の影響について考えたことを書きます。

前どっかで書きましたけど、僕はたまたま白饅頭氏の言説をはじめて読んだ時、何の前情報もなく「このひと神戸の人なんじゃないかな」と思ったんですよね。

そういうことって時々あるんですよ。

「神戸という街」というより「幼少時の震災体験」ということだと思っているんですが。

これは今回の対談が終わってからご飯食べに行った時に御田寺氏も言っていたんですが、「震災」が、そこにあった「本来的平等性」を隠せなく露見させる効果があった・・・みたいなことを僕もよく思うんですよね。

ここ以降は、そういう「震災がもたらす独特の”本当の平等性”への意志」みたいな話について掘り下げて考えてみます。そしてそれが「インターネット時代」という構造とかなり似た意味を持ってるんじゃないかとかね。

さらに「東日本大震災」もあったり、その他色々な衝撃的な事件が散発的に起こり続ける日本の中で、この「平成時代初期に先にそれを体験した神戸人の世界」に皆が後追いで飲み込まれてきているのではないか、その情勢で人々に求められているのは何なのか?とおいう話をします。

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また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。

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