見出し画像

日本のマスコミ業界が持つ「ナアナアさ」の功罪について。日本で生きてて出会う「小さな理不尽たち」とどう付き合うべきか?

お久しぶりです。倉本圭造です。

今月一ヶ月ほどまるごとネットでの活動をほとんどしてなかったんですが、その時間をかけて出版社とのやり取りを続けて、やっと来年2022年2月9日発売が確定するところまで来ました。(トップ画像がカバー案なんですけど、おそらくこういう書名で出る事になります)

いやーなんかほっとしました。

日本の出版社の面白いところは、実際に本が印刷されて書店に並ぶ頃になってはじめて、忘れてたかのように契約書が送られてきて、捺印して返送してくださいって言われるんですよね(笑)

実際に輪転機まわして印刷して配本した後のそんな時期になって契約内容に不服とか言えるわけないじゃん、みたいな感じなんですが、結果として初版部数がどうこうとか印税の振り込み時期とかも事前にはわからないし(←これは気になるなら確認すればいいだけですが)、最大の問題はそもそも何ヶ月もかけて作った原稿が土壇場でボツになったりする事で。

過去何回か、ギリギリのところで出版社の経営陣交代による方針変更とかコロナ禍とかに巻き込まれて出版自体が取りやめになったので、今月はほんと凄い神経使って色々と真剣なやりとりをして、なんとか「確定」するところまでこれて凄いほっとしてます。

こういう苦労、僕は出版が本業じゃないからまあ笑って理解できるけど、物書き専業のフリーライターさんならもっと切実で、実際にお金になるかわからない段階で何ヶ月も仕事させられたあげくボツになりましたバイバーイ!ってなって苦労している人とかいるんじゃないかと思います。

はっきり言って「こういうナアナアな制度」が今の日本のダメなところなのだ・・・という主張は十分ありえると思うんですが、ただ個人的には「こうなってる意味」というのも一応は理解できるんですよね。

なんか日本で生きているとこういう「小さな理不尽」っていっぱい日常的に出会うと思うんですが、一方でそういう「小さな理不尽」によって支えられている日本社会の快適さ、安全さ、その他色々のメリットも実際には享受してるところがあって。

「本が書店に並ぶ頃になって契約書が送られてくるとかありえない」みたいなそういう発想は一つの「ベタな正義」としてあるし、一方で、そういう仕組みになっていることが出版プロセスにおいて本当に「実質的に良いものを作ること」に関係者が集中できる仕組みになっている事(少なくとも今まではそれが機能してきたこと)もまた明らかで、業界には業界側の「ベタな正義」がある。

だから単純に「小さな理不尽を糾弾する」だけでは変わっていかないところがあるなと思うので、むしろその「どういう事情があってそうなっているのか」まで遡って考えていくことが必要だよなと思うところがあって。

今後こういう「ナアナアな制度」は徐々に何らかの形で「現代化」されていく可能性は高いと思うんですけど、ただ「そうなっていた意味」みたいなのを理解せずに単に前時代的だ!と批判するだけだと「業界」は昔のままの延長に引きこもってしまいがちなんですよね。

そこで何らかの制度的な「現代化」を行っていくためにこそ、「古き良き制度」が持っている「意味」みたいなのを理解して、それを現代的にOKな形で構築する発想が必要だと思うわけです。

トップ画像のカバー案に載ってるサブタイトルにもあるように、僕はこういうのを「メタ正義」的な発想と呼んでいて。ベタでなく「メタ」なレベルでお互い考えていくということですね。

私は経営コンサル業のかたわら、文通をしながら色んな個人の人生について考える仕事もしていて(興味があればこちら)、そのクライアントの人たちを見ていても、マスコミ業界に限らずやっぱりこの「個」と「組織」の間のぶつかり合いの難しさっていうのは普遍的に存在するなあ、と思うことが多いです。

これを読んでいるあなたも日常生活の中で毎日「いかにも日本的な小さな理不尽」とぶつかりながら、そこでどう考えたらいいのか、アメリカンに「全力で糾弾!」すべきか、それとも「古い日本」的に唯々諾々と忍従するべきか、迷ったことが必ずあるはず。

今のネット世論の流行は、そういうのは全部「組織」が悪いってことにして、いつでも個を最大限守ることが善なのだ・・・みたいな話にすることなんですけど、まあ個人が自分を守ることはいつでも大事だけど、誰しもがそういう世界観しか持たなくて「その場」を良い状態に保とうとする意志をバカにし続けてたら社会が成り立たなくなるんで。

本当に追い込まれてる人が逃げる権利も大事だが、一方である程度余力のある人がちゃんと「その場」をより良い状態に保とうとする「メタ正義」的な取り組みをやっていくことが大事だよな、と思うわけです。

というわけで今回は、その日本の「出版業界のナアナアさ」(これは出版に限らず色んなマスコミ業界全体で共通しているテイストだと思うのですが)の背後にあるアレコレの事情について考えながら、日本で生きていくにあたって降りかかる理不尽を避けつつ世の中を変えていくために考えるべきことはなんだろうか・・・という話をします。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●「ナアナアさ」の背後にある価値は「偶発性を取り込む仕組み」

何度か直前で企画がボツになったりしつつ、今回なんとかゴールまで行けそうな情勢になったことについて、「こういう仕組みになってることに意味はあるな」と感じる理由は、

「単にわかりきった話」で終わらせないために必要

ってことなんですよね。

もっと契約関係をガチガチにしておくと、契約の時点で作品がどうあるべきかの青写真を相互に真剣に詰めて置く必要があるし、そこで「合意した内容」に向けてとにかくゴリゴリと「完成させる」ことを目指して動いていくことが必要になる。

でもなんか、「やってみたら考えが変わる」ことって沢山あるじゃないですか。

もっとこういう部分を多めに書いた方がいいんじゃないかとか、ポロッと出てきた切り口をもっと全面化して徹底してみたらどうかとか・・・

そういう「編集者と書き手」のぶつかり合いの中で偶発的に出てくるものを取り上げづらくなるんですね。

なんかツイッターなんかの議論で最近よく聞くような、日本の大学の科研費が「事前に設定したテーマ」ベースで付与されるから、研究が進むにあたって偶発的に起きるような事を取り込めず、なんかやり始めて途中で「もうこれダメっぽい」ってなっても取った予算をそのまま使い続けてダメだったことを確認するだけの無駄な研究をしちゃうことになる・・・みたいな話に近いと思うんですけど。

なんかヤリ手の研究者は、広い視野でそれっぽいことを言ってとりあえず予算を取っておいて、その予算を流用してできるだけ偶発的な実験の広がりを作って良い発見を取り出そうとするとか聞きますけど。

なんかそういう「偶然性をいかに取り込むか」みたいな課題がある時に、出版業界の「ナアナアさ」みたいなのが、一応必要とされているメカニズムがあるようには感じるんですよね。

契約関係がキッチリしていると、書き手の方の「プロフェッショナリズム」の範疇で「製品」に仕上げることはできる(というかしなきゃいけない)んですけど、そうなると

「こういう人がこういうテーマで書けば手堅く売れそうな本が作れます」

みたいな安牌の発想から抜け出すのは相当難しいように思うんですよね。

2●ネットで自分で売っていける時代にあえて出版する意味とは?

なんか、今の時代特に難しいのが、「出版社の言うこと」が昔ほど絶対的に正しいわけでもないし、一方でそれを完全に無視していても新しい広がりは生まれないし・・・みたいなあたりの難しさなんですよね。

昔ほど出版社自体に「売る力」がないので、基本的に書き手の方が独立独歩でネットでの活動なんかを含めて自力で売っていかなきゃいけない部分が多い。

だから「出版社=編集者側の言い分が通りさえすればいい」という世界ではどんどんなくなっていて。

「自分単体で売っていくための文脈」を壊されて個人としてのブランド価値を落としたあげく、一方で出版社としてあまりお金をかけて売っていってくれるわけでもないし、さらに「今の業界では大ヒット」ぐらいに売れてもそれだけで暮らしていくのはシンドイです・・・となるのでは、そもそも今の時代別に「本を出す」意味自体がないわけですよ。

そんなことなら、もっとインディーズの仕組みでやった方が何倍も印税率が高くなるので。

書き手が勝手に自分で売っていって自力で経済圏を作れる時代だからこそ、「それでも出版社を通す意味」っていうのが真剣に問われる時代なんですね。

で、そういう意味では、

「出版社側の意向を飲みすぎてもいけないし、書き手側の意志が潰されてもいけないし」

みたいな難しさが昔以上にあるわけですね。

そこが、単に「編集者側の言い分をちゃんと聞け」だけでもダメだし、「作者の意志を尊重する」だけだとそもそもあまり出版業界を通す意味がなくなるし・・・という現代特有の難しさに繋がっている。

「どちらの良さもちゃんと反映する」を本当にやらないと、そもそも一緒にやる意味がない時代になっているということですね。

3●「編集」を拒否してもいけないし潰されてもいけないし

なんか、「出版社が期待する売りやすい本」に言われた通りにまとめるのなら、それはそれで企画も通りやすいし、土壇場でボツになったりもしないと思うんですけど。

ただ一方で、僕みたいに個人で色んな仕事をしていて、それを「書籍という形にまとめる」という時には、その「2つの世界」が境界線上でぶつかりあうところがあって。

出版社としては「こういう方向性に落としてほしい」という誘導が強烈にあるんだけど、それを丸呑みにすると「よくある話」にしかならないから作者側が抵抗する。

で、そういう時は、「相手が言っていること」ではなく「相手が言っていることの背後にある事情や世界観」に遡って理解することが大事なんですよね。

たとえばの一例なんですけど、最初は「メタ正義感覚」っていう言葉が横文字っぽくて読者に通じづらいから変えてほしい・・・とか言われてたんですけど。

でもこのワードを僕はずっと前から使っていて凄い重要な言葉だと思っていて、何が良いってそのまま英語にしてもコンセプトがきっちりわかる、「日本国内の文脈」で閉じてない発想の言葉だからなんですね。

そのぶん、本文中に「日本的にこの言葉が理解しづらい理由」をちゃんと説明しつつ、「ベタ」という言葉と対置してこれが今大事な発想になっている理由を深堀りしたりすることで、最終的には編集長氏が作った「サブタイトル」の中にその言葉がそのまま入るぐらい「伝わった」感じになったりした。

「この言葉は伝わりづらいから変えてください」っていう要望をそのまま丸呑みにしてたらこうはならないし、かといって編集者の言うことを聞かずにただ「大事なんです!」って突っ張るだけでもダメで。

「言葉を変えてください」という要望自体は拒否するけど、「なるほど出版業界的にはそういう懸念があるのか」ということ自体は受け取りつつ、相手の懸念の大本のところまで遡って対応を変えていけば、よりよい結果につながる。

結果として、今段階の書籍カバー案がコレなんですけど↓

そもそも自分ではこの「●●の教科書」っていうタイトルも絶対思いつかないし、その他のサブタイトルやオビ文の感じも、凄い「なるほど」って思ったんですよ。

編集長氏は雑誌「SPA!」の立ち上げメンバーだった人らしく、編集者氏も雑誌出身なんで、センスがとにかく”見出し重視”的っていうか、「普通の読者に伝わる内容と表現にする」方向での要求が凄い厳しくて。

しかも両名とも女性なんで、普段「政治好きの男性編集者」とツーカーにやってるウェブ連載とは全然違う世界観で動いていたんですよね。

険悪にはなってないですけど、かなり真剣に「押し込まれては押し返し、また押し込まれては押し返し・・・」みたいなことをやってやっと相互理解が深まってきた感じだった。

今「ゲラ」が戻ってきてて年初すぐまでに最後のリアクションをしなきゃなんですけど、個人的には「相手の意向は汲みつつ最後の最後でまたやっぱり押し返すべき場所がある」感じがしています(笑)

向こうは「もう変えないでくれ、これでいいじゃん」って思ってそうなんですけど!まだ諦めへんで!

4●「心理的安全性」という流行語を日本でも実現するために必要な配慮がメタ正義感覚

今回これだけ「相手の意向は汲みつつ押し返すべきところを押し返せる」ようになったのは、自分の中でやっと自分のやっていることのコアがどこなのか理解できて余裕ができてきたってことかなとも思うんですよね。

30代のはじめごろに3冊連続で本を出したけど、当時はこんな余裕が全然なくて、とにかくこちらから押し込んでしまうか唯々諾々と言われたとおりにするかどっちかしかできなかった。

こういう「お互いに言うべきことを言い合える環境」=「心理的安全性」という経営ワードが流行になって久しいですけど・・・

この本↓も凄い売れたしね。

恐れのない組織 「心理的安全性」が学習・イノベーション・成長をもたらす

ただなんか、この本読んでて思ったんですけど、この作者の人はありとあらゆる課題をアメリカの”良い大学の講義室”の議論のマナーで議論できると考えがちなんじゃないかということで・・・

本の中で出てきた例として、医療現場で看護師が「あれ?あの施術しなくていいのかな」って医師の見落としに気づいた瞬間にそれを言える環境にしておく・・・っていうのは凄い大事なことだと思うんですが、一方である程度「現場寄り」になってくるほどに、ありとあらゆることをただ「どんな新人でも問題提起が簡単にできればいい」というわけにもいかなくなるような?

特にこの本を読んでいて日本じゃ問題になるな、と思うのが、この記事でここまで書いてきた「見た感じの理不尽さの裏にある事情」をどう言語化するのか・・・という点で。

書き手側が意固地になって「日本の出版業界はオカシイ!」って突っ込むだけだと、出版業界側に自分たちの事情を言語化する能力があまりない事が多いので、逆に彼らが内側の事情にこもってしまいがちというか、相互の「心理的安全性」が余計に破壊されることになりがち。

結果として、ただ喧嘩別れになるか、片方の意志だけをゴリ押しするだけで一緒に仕事をする意味がない感じになってしまう。

むしろ、「出版業界側の事情」を作者側が迎えに行く姿勢で言語化して、ある意味「忖度」はしつつ、一方で作者側の意図は譲らないぞ!!!みたいな感じで押し込みつつ、さらにもう一方で出版社側の中から信頼できるパートナーを見つけて、向こうにもこっちの事情を理解してもらおうとする・・・みたいな結構難しいすり合わせが必要な領域があるんですけど。(ここ数ヶ月ほんと疲れましたがやってよかったです)

こういうのって、「個人レベル」で見ると、明らかに出版社が強者で書き手は弱者なことが多いんだけど、一方で「マクロに見る」と、日本の出版社が日本という社会の紐帯を完全な個人主義から守ってつなぎとめている事情・・・みたいなのも見えてくるから、「出版社側の弱者性」も見えてくるんだよね。

だから「こっちこそが弱者だ!」とか言ってないで、お互いにお互いの事情を理解してよりよい関係性を作ろうとしていくことが大事だと自分は考えています。

5●少年ジャンプ編集部はそういうとこは凄い。

こういう

・心理的安全性を確保して言いたいことを言い合って、偶発性をいかに取り組むか

みたいなテーマに関して、凄い自覚的にやってるのは少年ジャンプ編集部だと思うんですよね。

上記記事より引用↓

――「ジャンプ」編集部では定期・不定期の新人賞に加えて、作品をウェブで投稿・公開できるサービス「ジャンプルーキー!」を運営し、持ち込みもリアル、オンライン両方が可能で、すでにデビューした作家を対象にした賞もあります。それから新人の読み切り掲載も「ジャンプ+」では年間200本、それに加えて新人増刊の「ジャンプGIGA」もあり、本誌にも読み切りの枠があります。ここまで新人に作品発表の場を提供している編集部はほかにはないですよね。
齊藤 「ジャンプGIGA」の最新号(4月30日発売)はとにかくたくさんの新人読切を載せたくて印刷の限界に挑戦する1250ページでして(笑)、この号の原稿料だけでもゆうに1千万円以上かかっています。その「GIGA」は年4回出ます。当然ながら基本的には赤字です。
さらに「場の提供」ではないですが、新人をサポートする「研究生制度」もあって、今は半年ごとにひとり30万円を数十人に支給しています。これは奨学金みたいなもので、生活費の心配なく作品に集中してもらうためのものです。
籾山 「ジャンプ」には「専属作家契約」もありますね。今は専属作家契約を結ぶのは、作品と次の作品の合間にも作家さんに収入が途絶えないように支えるという目的が大きいですね。
そして、「ジャンプ+」では「ジャンプルーキー!」の運営に年間数千万円、読切の原稿料にも数千万円、それらを足すだけでも優に年間1億円を超える金額を投資しています。
(引用終わり)

上記記事を読んでると、まず新人発掘にちゃんと「お金をかけている」ってところもエライなと思うんですが、それが単に成金的なカネのかけかたじゃないところが良くて。(たぶん成金的発想だと一億円ぐらいの賞金をドカンと出す漫画賞を単発で運営する・・・とかになりそう)

「心理的安全性を確保して多産多死型のトライをし、偶発性を取り込むのが大ヒットを作るために大事なことだ」

という結構明確な「良い編集部はかくあるべき」というビジョンの元に組み上げられている感じがある。

こういうのって「書き手側のベタな事情」とか「編集部の商売上のベタな事情」とかそれぞれの「ベタ」をぶつけ合っててもダメで、「メタ正義」なレベルで全員にとって良い形をつくっていく明確な意志が必要なんですよね。

IT系の会社がウェブ漫画編集部をいっぱい作ったけど結局ほとんどモノにならなかったというのもわからんでもないところがある。

6●「呪術廻戦ゼロ」みたいに「わけわからんものの凄さ」を取り込めるか

なんかそういう「偶発性を取り込めるパワー」があるから、鬼滅の刃も呪術廻戦も、「先に言語的に説明可能なレベルを超えるナマの魅力」があるわけですよね。

一昨日「呪術廻戦ゼロ」の映画見てきたんですけど、想像の100倍ぐらい良くてびっくりしました。興奮して寒い夜中に三駅歩いて帰ってきてしまった。

個人的に呪術廻戦の「ギャグパート」のセンスが苦手で(笑)、良い悪いじゃなく自分に向いてないという意味で「さむっ」って思うので前半ちょっとシンドイところもあったんですけど。

後半のバトルシーンのかっこよさと、単にカッコいいだけじゃなくてその「能力バトル」がもたらす何か人間存在の深部への洞察的なものが渾然一体となって迫ってくる感じが超良くて!

最近You Tubeのコメント欄見てて、ジョジョ6部とか、呪術廻戦とか、日本人でもアニメ化されるまで「わけわからん話」にしか見えなかったものに興奮してる英語コメントがやたら多くてびっくりするんですけど。

そういうのを見てると、「わけがわからん話のナマの魅力」の美点を海外のファン層も”すごく直接的に”感じ取ってくれているのを感じます。

これは以下の記事で書いた「韓流と日本コンテンツの違いと日本が取るべき道」というテーマにも関わってくる話なんですが・・・

「イカゲーム」みたいに言語化された理屈で狙い済まして細部まで作り込む型のコンテンツを作るのは日本人は苦手で、一方で同時期に超ヒットした日本コンテンツって「どうぶつの森」とか「こんまりさん」とか、どう考えても狭義の「狙って作る」では作れないようなものばかりですよね。

ただ、「どうぶつの森」とか「こんまりさん」とかの世界的特大ヒットが何の戦略もなく実現したかというととそうでもなくて、上記記事に書いたように、「イカゲーム型の戦略」とは違う「メタなレベルの戦略」を真剣にやりこんでいる感じではある。

こういう「偶発性を直接取り込んだナマのコンテンツの魅力」が、21世紀の人類社会の今後には非常に重要な意味を持っていくことになるんですよね。

思想家・吉本隆明の以下の超かっこいい言葉、

僕が倒れたらひとつの直接性が倒れる/もたれあうことをきらった反抗が倒れる

が、逆説的ですけどここにはあるわけです。

だから、ネオリベとかポリコレ至上主義みたいに、「狭義の理性万能主義」を無理やり押し込んでくる帝国主義者には全力で抵抗しつつ、さりとて「古い日本」に引きこもることなく、「新しいメタ正義的な戦略」を人類社会に問うていく・・・ことが日本の今後の使命ってことなんですよね。

7●「失われていく直接性」を回復する使命が日本にはある

以下の記事で書いたように、「トランプを追放した後のアメリカ」はそういう「学問的に明瞭に言語化できる部分以外の偶発性」を凄い排除する社会になっちゃってて。

上記記事で紹介したピーター・ティールの「ゼロ・トゥ・ワン」っていう少し古い本とかを久々に読むと、

「そうそう!これだよアメリカの魅力は!」

って思うんですよね。凄いワクワクするし、でも逆に「こういうの」最近のアメリカからなくなっちゃったな・・・と感じる。

ゼロ・トゥ・ワン(この本かなりおすすめです)

そういう「たった10年前のアメリカには満ちていたワクワク感」が今は全然なくなっちゃって、事前に”学問的理性”主義的に計画立てて契約した章立てをただ埋めるような本が増えているような感じがしています。

サンデルの「能力主義は正義か」を読んでいても、アメリカのエリート大学の学生が、子供の頃から「どういう行動をすれば評価されるか」ばかりに神経質になって、「そのためにボランティアをやる」「そのためにマイナースポーツをやり込む」みたいな行動様式になってしまっている事に警鐘をならしてますけど。

場合によっては大学入学に有利だから「障害があると診断してもらえ」とかいう話まで出ているとかで(実際にコネティカット州の富裕層の多い地域で全米平均の6倍にあたる18%もの生徒が診断を受けて入学選考を有利にしていたらしい)。

結果として裕福な高学歴家庭のティーンエイジャーは他のどのグループよりも鬱や薬物乱用や不安障害その他を抱える割合が多い・・・とかいうデータも紹介されていて。

アメリカでトランプ派が強烈に盛り上がっているのは、逆側の政権が持っている「過剰な狭義の理性万能主義」みたいなのが、社会のナマの感情の動きを全て四角い理屈でゴリゴリに統制しようとすることの無理が出ているんだと思います。

逆に言うと、トランプ派の一部が持っている「差別主義」的な良くない部分を本当にやめるためにこそ、「狭義の理性主義の暴走」に歯止めをかけて、何らかの「ナマの直接性」を社会の主流に反映させていくメカニズムを皆で育てて共有していく必要があるんですよね。

なぜなら、そういう「狭義の理性万能主義」は、そういう言語的能力に優れた存在が、「ありとあらゆる社会の細部を差配する権力」を持つべきだ・・・という方式なのだ、という「隠れた一方的な権力支配構造の搾取性」みたいなのがあるからなんですよ。

そういう「言語化された思考様式」というのは人間存在のほんの一部しか捉えられないものだし、そもそもそういう能力に秀でた存在は富裕層から出てくることが多く、そういう存在の権力だけをあらゆる分野で突出させるということ自体が、「恵まれた存在が自分の役割を果たしていない」構造になっているわけですね。

それはコロンビア大学のマーク・リラがこの本で主張するような話で・・・

リベラル再生宣言

「ポリコレ最先端の些末なマナー」には物凄く神経質になるけど、公立小学校の学区問題みたいに、「自分の特権性」に向き合わなくちゃいけなくなる「本当の格差」には目をつぶる「アイデンティティポリティクス」の限界・・・みたいな問題がある。

そういう「狭義の理性万能主義」が反発を受けて世界中で混乱が起きている時代には、その「分断」を超えるナマの可能性を日本発にいかに作れるかが重要な時代になっていて。

だから、「今困っている個人」が異議申し立てをすること自体は勿論大事なんですが、しかしある程度余裕がある「言語化能力がある存在」が、それを自分個人のために使うんじゃなくて、日本社会が持つ本質的なコアの美点をいかに守りながら、個人にとっての理不尽を減らしていくのか・・・という「メタ正義的課題」にちゃんと取り組もうとすることが重要なのだと私は考えています。

私はこれを「レペゼンする知識人」の役割と呼んでるんですけど。

まあ、ネオリベとポリコレ過剰の帝国主義者たちの横暴はきっちりとブロックしつつ、さりとて古い日本の延長に引きこもるでもなく「その先の調和」を目指して動いていきましょう。

8●ぼんやりとした連帯をしつつ「押し返して」行こうぜ!

今月先月とネットでの活動をほとんどしてなかったんですけど、そういうことをするとツイッターのフォロワーが数十人単位でどんどん減っていく(みんな断舎離するので)事が普通なんですが、最近何もしてなくてもちょっとずつ増えてたりするんですよね。

なんか、日本の「今」を生きる色んな人たちがそれぞれの人生の中でふと思った疑問についてネットを徘徊していると、ふと僕の記事なり何なりに出会うみたいなことが増えているんだと思います。セレンディピティですね!

お互い全然知らない全然違う人生を生きている他人だけど、同じ「日本の今」を共有する仲間としてのぼんやりとした連帯が生まれつつある感じがするというか。

そこは凄い嬉しく思っています。

変に「仲間仲間!」的に人工的なムーブメントにはしないで、でもこのぼんやりとした連帯は育てていって、「ネオリベとポリコレの原理主義化」という狭義の理性万能主義の暴走を押し返していきましょう。

誰かをかっこよく糾弾してみせることが「正義」の行いだと思っている奴らに、「本当の正義」ってのがどういうものか見せつけてやろうぜ!

今回記事の無料部分はここまでです。

ここからは、こないだKing Gnuのライブに行ったんですけど超良かった!!!っていう話をします。

奥さんが凄い大ファンで、僕は中ファンぐらいだったつもりなんですけど、ほんとライブは凄い良くて!僕も大ファンになってしまった。

今ってロックバンドでも電子的にメトロノームみたいなクリック音で常にテンポがキープされてる事が多いんですけど、キングヌーは全然そんなのないというか、「4人の音!!!」って感じで押し切るし、押し切れる力量があるのがほんと良くて。

結果としてテンポは常に揺れてるんですけど、それがダメじゃない、むしろ良い、というか。自由自在なドラムのフィルインをメンバーみんなが直接聞いて、
「俺たちが入るタイミングが”正しい”タイミング」って感じで飛び込む自由さ。

こういうのが「僕が倒れたら、ひとつの直接性が倒れるby吉本隆明」だよなあ!って凄い思いました。

なんか、見てて思ったのは、今の時代、「古い社会のナアナアさ」を全拒否にすると、結果として「クリック音に人工的に決められたテンポ」に支配されるんですよね。

折しも「呪術廻戦ゼロ」の主題歌もキングヌーなんですけど、うかつにもそれ忘れてて、スタッフロールの後半になって「あ!そうか、バトルシーンのBGMが超かっこよかったのもキングヌーだったのか」って思ったんですが。

こういう「直接性の共有」によって押し返していくカルチャーの可能性・・・みたいなのこそが、「東京」という街が持っている可能性だという話をします。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。また、結構人気がある「幻の原稿」一冊分もマガジン購読者はお読みいただけます。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

また、このページで紹介した倉本圭造の最新刊「日本人のための議論と対話の教科書」も既に発売されているのでよろしくお願いします。以下のページで試し読みできます。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

さらに、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。(マガジン購読者はこれも一冊まるごとお読みいただけます)

ここから先は

3,184字
最低でも月3回は更新します(できればもっと多く)。同時期開始のメルマガと内容は同じになる予定なのでお好みの配信方法を選んでください。 連載バナーデザイン(大嶋二郎氏)

ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?