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「理解のある彼くん」展開が新時代を切り開く韓ドラ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』が名作すぎてヤバい。

数日前に韓国梨泰院で起きた痛ましい事故の犠牲者のご冥福をお祈りします。

(トップ画像はNetflix公式You Tubeより)

私は韓流ドラマ・映画をそう沢山見ている方ではないんですが、日本でも一般的に有名なったものは一応見る感じで、過去にそこから見える日韓の文化の違いとかを考える記事を書いて結構読まれてきました。

一番読まれた文章は、「デスゲーム」というジャンルが共通する『今際の国のアリス(日本)』と『イカゲーム(韓国)』の比較から、文化の違いとか今後の日韓関係とかについて考えた以下の記事で、今際の国のアリスの原作者の方にもTwitterで紹介していただいたりしてかなり読まれました。

あと、少し古い記事ですが『愛の不時着』が流行っていた頃に書いた文章もあって、

こちら↑では、韓流コンテンツは2017年頃から2019年ぐらいにかけて雰囲気がガラッと変わったと自分は感じていて、その背後にある当時の文在寅政権が出来た事とか、それ以前の「韓国ローカル」的な展開がグローバルな普遍性を帯びてくる変化とは何だったのか・・・みたいな話をしています。

最近でも、これは有料部分にですが、「六本木クラスと梨泰院クラスを比較して色々考える」記事を書いたところ、それを読んだ古い友人(日韓ハーフで韓国語もできる)が、

いやいや、最新の韓流はもっと先に行ってるぜ。過去のと比べるとあまりに違っててびっくりするから『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』をぜひ見るべき

って教えてくれたんですね。で、そしたらコレが超名作で!

過去の韓流的に「ちょっとこういうところがついていけないんだよな・・」って思っていたポイントが見事に昇華されていて、韓流の新時代だなあ!と思ったということがありました。

多分こういう変化というのは、何年も前から少しずつ「要素」としては出現してきながら、前面化はされない状態のまま徐々に雰囲気が変わってきて、ある瞬間気づいたらドーンと「明確な変化」になっているものだと思うんですね。

だから普段から浴びるようにあらゆる韓流ドラマを見ている人からすれば、「そういう要素ももっと昔からあったよ」と感じるかもしれません。

ただ、私みたいに「たまに」しか見ない人間からすると、徐々に変わってきた歴史をすっとばして「違い」を理解しやすいという側面もあるかと思うんですね。

毎日その地域で暮らしていると季節の変化を「いつのまにか」的に感じてしまいますが、半年ぐらい別の国に行って帰ってきたら「出国時と全然違う!」と感じることができる・・・的な話ですね。

「愛の不時着」とか「梨泰院クラス」とかは、日本で話題だったほどには韓国での人気はそれほどでも・・・という説をたまに聞くんですが、「ウ・ヨンウ弁護士」は文句なしに今年の韓国での話題沸騰のドラマだったらしいですし、ネットフリックスでの世界での視聴者数もかなりのものだったらしい。

そういう話題作について、過去の韓流とはどこが違うのか?それが意味する韓国社会の変化とか、今後の日韓関係とか、そういう話について考える記事を書きます。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)


1●「理解のある彼くん」展開は恥ずべきことではないはず

まず、記事タイトルにもした「理解のある彼くん」という用語について考えてみたいんですが。

「理解のある彼くん展開」というのは、SNSで投稿される女性のエッセイ漫画などで、色々と生きづらい感覚を持って生きてきたけど、今は「理解のある彼くん」が支えてくれるから幸せです・・・みたいな展開が唐突に出てくる事を示す言葉だと思います。

これって日本のSNSではあまりポジティブな意味では使われてない言葉かもしれなくて、大分前にネットで知り合った女性になんとなく私が「そのうちあなたにもなんとか”理解のある彼くん的存在”が見つかるといいですね」的な事を言ったら「私をそんな安い女だと思ってるんですか!」的に怒られてしまったことがあるんですよね(笑)

いやいやいや、でも大事じゃないそういうの?って思うんですよ。

最近では、人間は一人で完結して自律的に安定した存在であるべきで、一緒にいる存在に面倒をかけるようなヤツは人として間違っている・・・みたいな空気が強すぎると思うんですね。

「パートナーに自分の気分のお守りをさせるな!自分の機嫌は自分で取るべき!」みたいなのって定期的に数万とか「いいね」がついてバズってるじゃないですか。

でもそういうのって無理してるというか、そりゃ過剰に共依存的になったら良くないかもしれないが、生きてたら当然ある精神のアップダウンをお互いいたわりあって乗り越えていくとか、人間が一緒に暮らす意味のかなりの部分は本来そういう事であるべきで。

目の前の相手に「こうしてほしい」と言わずに、「ウチの夫は(妻は)こんなに無理解で酷いことを自分にしてくるんです!」ってSNSで大声でアピールして称賛を浴びるのに忙しい・・・みたいなのはちょっとどうかしてると自分は思うタイプです。

「理解のある彼くん」の逆バージョンは「オタクに優しいギャル的存在」だと思うんですが、どっちもその二人がそれでいいなら他人がどうこう言う問題じゃないと思うんですよ。むしろそうやって支え合う関係はちゃんと奨励されるべきと思っている。

女性は生理とかあって男性よりバイオリズムが乱れたりしやすくて、現代社会の中で女性が働く上で制度的にうまくフィットしない部分が残っている問題とかで精神的にフラフラすることもある・・・時に、一緒にいてくれるパートナーはそれを理解してくれて、サポートしてくれたらそれが理想ですよね。

あるいは、男として生きていく上で不可欠な一貫性のようなものを今の世の中で打ち立てるのって色々と大変な時があるから、世慣れない自分のこだわりみたいなのを理解してくれる、自分よりは多少世慣れた存在の女性がいてくれたら変に自分の世界に閉じこもらなくても良くなる時があるよね・・・的な「オタクに優しいギャル」的な関係性も、Win-Winな関係性として成立しえるパターンだと思う。

って一応言っておくと、こういうのは「実際に高確率に世の中で起きている類型」の話をしているんであって、女性は一般的に精神が不安定だと言いたいわけでもないし「世の中に対して何らかの一貫性を持って立ち向かいたい女性」だって当然いていいんですが、ただ「現時点での傾向性とその対策」の話をしてるんですよ!

実際に私は自分の奥さんに対して「理解のある彼くん」的存在でいたいと思っているし、彼女が私に対して「オタクに理解のあるギャル」的要素があるというのも否定できない事実かなと思っています。

そういうのをバカにして、「人間というのは個人のレベルで既に完璧な存在であるべき」みたいな発想はマジで良くないというか、そういう発想で生きていると、パートナーを選ぶ時も常に偏差値的な序列関係の中でしか選べなくなってしまう。

そうじゃなくて、

あらゆる個人は凹凸を抱えていて、凸部分と相手の凹部分が補完的になれる関係を選べるようになっていくことで、ありとあらゆる事をスペック的な序列関係に飲み込んでしまうこの世界の生きづらさを超えていける希望が生まれるはずですよね

…みたいな理想主義はやっぱり凄い大事なことだと思うわけです。

2●財閥の御曹司でもなく、天才的なやり手仕事人でもなく、でも理想の王子様イ・ジュノ氏

韓国社会は日本よりもさらに「スペック」「偏差値的序列」重視社会だと思いますし、韓ドラ必殺技の”財閥の御曹司”とか、そうでなくてもいかにも高給取りそうな仕事がバリバリできるエリート的存在であることが、ドラマ内で恋愛の土俵に上がるためにはかなり重要な要件になっている要素が日本以上にあると思うのですが。

「ウ・ヨンウ弁護士」の中の王子様役イ・ジュノ氏は、別に財閥の御曹司でもないし、仕事はまあ普通にできる人っぽいけど弁護士ではなくいわゆる”パラリーガル”だから職位的には主人公のウ・ヨンウさんの方が上なんですよね。

小室圭さんが眞子さまのお相手として話題になった時も当時はパラリーガルだったのを凄いバカにする人が散見されましたが(笑)、多分韓国でも実際に「弁護士とパラリーガル」の間にはある種の身分差みたいなのを感じる人が結構いるんじゃないかと思います。

でもね、イ・ジュノ氏とウ・ヨンウさんのカップルは超いいんですよ。

凄い自然で、ユーモアがあって、近づいたり遠くなったりしながら関係が深まっていく。

とはいえとにかく「都合の良いただただ言うことを聞いてくれる彼くん」という感じでもなくて、彼なりの葛藤をウ・ヨンウさんに理解してほしいと要求して、それに時間をかけて対応していく展開もあるしね。

そして、自閉症スペクトラム障害の(いわゆる”アスペルガー症候群”的天才)ウ・ヨンウさんを優しくサポートしたり、偏見に身を持って立ち向かってくれたり、そういう関係性が見ててほんといいんですよね。

物凄い単純に言って、今後の社会において「女性の方が稼いでいるカップル」をいかに普通に描けるかどうかって、特に東アジア社会では大事なことだと思うんですね。

というのは、東アジアでは「専業主婦なんて女性自身の人生を全部捨てているダメ人間の選択肢」みたいな風潮が欧米ほどにはないので、意に反して無理やり離職せざるを得なくなるような制度的問題は解消していくにしても、ある程度自分は仕事より子育てが楽しいという女性は一定程度残ると考えられるからです。

というか、そういうふうにしたいという女性に無理やり働かせる事が「自由主義社会」的にどうなんだ・・・という別の問題が出てくるからですね。

そういう状況の中で、統計的な男女の給与差みたいなのが本当にバランスする事を考えるなら、「女性の方が稼いでいるカップル」がいかに自然な形として受け入れられていくかが重要になってくる。

もっと単純な話としても、社会の中で『高給を得られる仕事』というのはある程度席数が決まっているわけで、その席をもし今よりも”男女平等”に分け合う事が善だとするなら、その分だけ「女性の方が稼いでいるカップル」が普通になっていかないと社会が崩壊するわけですよね。

男性の方が稼いでいるカップルと同じぐらい女性の方が稼いでいるカップルが自然になることによって、統計的にもジェンダー平等的な数字に近づきつつ、「人それぞれの本当に望む人生」を無理なく反映していくことができるわけですね。

まあ、こういう事は、日本でもネット論壇的には最近よく言われているのを見ますが、大事なのがそれを「ステキな選択肢」として文化的にパッケージできていないと、なんか女性から見て無理やり妥協して”年収の低いしょうもない男”で我慢するしかないのか?みたいな話になっちゃうところで。

とはいえこれは別に特殊な話をする必要はなくて、男性の方が沢山稼いでるカップルでもやたら夫の方があらゆる点で偉そうにするのとかは良くないし、主婦あるいはサブ的な働き方しかしていない人が自分のキャリアを諦めたという感じがあるならそういう感覚も理解してあげないとね・・・の「逆バージョン」も丁寧に気持ちの問題を解きほぐしてやる必要がありますよねってことですね。

ともすれば、

「主婦側の気持ちの問題」は当然社会全体でサポートするべきだが、女性の方が稼いでいるカップルにおける「男の気持ちの問題」はそんなクズ男の事など考える必要はない!と大盛りあがりになる・・・みたいになりがち

ですが、そういうのはまた別種の性差別だよね、という当たり前の発想がこれから大事になってくるわけですね。

そういう意味で、まあウ・ヨンウさんのアスペルガー的性質という特殊事情があるとはいえ、イ・ジュノ氏側も本当に「ただただ無意味に献身的であるだけの存在」ではなくて、ちゃんと自分のニーズをウ・ヨンウさんにぶつける展開もあるし、

そういう「支え合いの実質」がある上ではどっちの方が職位(と給料)が上かとかは些細なことだよね・・・という印象がある事自体がかなり「地味に斬新」なドラマ

…なんじゃないかと思いました。

このへんについて今の東アジア社会では、「ネット論争」を延々続けることよりも、むしろその選択肢が「ステキなもの」に見えるようなストーリーテリングとか、特に男性側がある種の定型的な文化をなぞっていくだけで、めっちゃ世慣れてるタイプの男でなくても女性側の「お気持ち」とか「夢見させてほしい」部分のニーズに適切に答えられる文化的パッケージこそが不足しているんだと思っています。

3●韓流の進歩は、「バランス感覚」がどんどん高まっていっていること

さっきも貼ったこの記事↑で書いたんですが、韓流は2017年ぐらいから、2019年ぐらいまでの間に凄い雰囲気が変わったなと私は思っているんですね。

2017年ぐらいまでは「絶対善の俺たち」と「絶対悪のあいつら」的なプロパガンダ構造が強すぎて、政治的に「同じ派閥」の人しかなかなか共感しづらいものが多かった。

さらにもう少し古い韓国映画を見ていると、日本統治時代の話で、主人公たち(韓国人)とニコヤカに話していた日本軍の将校が、ちょっと運んでいた水がかかっちゃったぐらいの事で単なる通行人の女の子をバーンって銃殺して、カタコト日本語で演じている韓国人俳優が、

「(死体を)カタヅケテオケ!」

っていうシーンがあって、「韓国人はこれ見てフィクションだってわかってんのかな?」って猛烈に不安になったんですよね。本当に日本統治時代がそんな政治だったと思ってるんじゃないかと。

そういうのに比べたら、2019年の「パラサイト」で、パーティの机の並べ方をどうするかって話をしているシーンで突然「李舜臣将軍が豊臣秀吉軍を叩きのめした時のような鶴翼の陣形にするのだ!」って恍惚と述べるキャラクターとか、明らかにちゃんと「ギャグ」として客観的に見れるようになっていて、「政治的に同派閥」の人以外でもちゃんと見れる作品になっているじゃないですか。

要は、「党派性」をいかに「敬意を失わないユーモア」で乗り越えていけるか…という試みが、特に2019年以降の韓流コンテンツではかなり意識的なチャレンジとして行われているように思うんですね。

「ウ・ヨンウ弁護士」にもそういうシーンは沢山あるんですが、特に印象的なのは「過激派フェミニスト団体(12話)」の描かれ方なんですよね。

その感じが、「三割ぐらい茶化してるけど、敬意と愛情はある描かれ方」なんですよ。

こういうのってなかなかできないというか、この「茶化し三割」ぐらいの部分を切り取って激怒する人たちが出てきて、それでなんかもう触れるの辞めておこうかな…みたいになったりしがちなんじゃないかと。

なんで「茶化し三割」が大事かというと、要は今の社会に生きているあらゆる人が、それぞれなりに「大事な課題」を持って生きているんであって、フェミニズムは「そのうちの一つ」に過ぎないからなんですよね。

例えば広がり続ける経済格差こそが最大の課題だと考える人もいれば、過剰に保護主義的な政策がグローバル競争におけるその国の経済力を破壊してしまうと考える人もいる。

気候変動問題に対する対処こそが一番大事だと思っている人もいるし、逆に環境問題への理想主義が国家の電力供給の安定性を毀損している事こそが問題だという人もいる。

フェミニズム的な観点からありとあらゆる社会の伝統をゼロベースで見直して入れ替えることこそが大事だと思う人もいれば、そういうやり方ではその社会が培ってきた自然な相互扶助的な絆を崩壊させてしまうから余計に問題が起きる…と考える人もいる。

そうやって「一人一票」あらゆる人がそれぞれ大事な課題を抱えて同じ一つの社会に参加している中で、社会のありとあらゆる人がフェミニズム理論の構造を全て言われるがまま受け入れなくてはいけないってことになってしまうと、コミュニケーションが完全に断絶していくわけじゃないですか。

特に、他の課題とすり合わせを丁寧にやらないと解決できないような課題を、すべて「ジェンダー論の神学」で一方向的に動かそうとして社会の他の部分と相互憎悪をエスカレートさせていってしまうような事ってよくありますね?

フェミニズムが今までの人類社会の不均衡を指摘し改善の方向性を提案する活動自体は大事なことですが、それはあくまで「あらゆる人々が持つそれぞれ全然違うニーズ」のワンオブゼムとしてお互いに協力しあって変えていかなくてはいけない。

「ハンマーしか持ってない人間は全てが釘に見える」みたいな感じで社会の全ての問題がジェンダー論的課題に見えてくるようになり、あらゆるコストを払ってそれを解決しさえすれば人間社会の問題は解決できるはずなのにそれができてないのは悪しき家父長主義に染まった自己保身だけを考えるクソジャップオスどものせいだ!…みたいになられると、そもそもフェミニズム的視点から取り入れたら良かったはずの改善提案の部分を取り入れるプロセスに社会の広い範囲の協力を取り付けることができなくなってしまう。

そういう時に、「三割ぐらい茶化し」てるんだけど、単に頭がおかしいヒステリー集団みたいな扱いではなくて、敬意と愛情を持ってその意見をいかに「社会の他の部分」と溶け合わせていくか?を考えていくような「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」の扱い方は、欧米型の問題の見方とは随分違う斬新さと希望を感じました。

このドラマはNetflixを通じて世界でも人気らしいですが、こういう「上質なユーモアで党派性を乗り越える意志」みたいなのは、ナチュラルに党派性を超えづらくなってしまっている欧米側から見ても地味に斬新に見えているのではないかと思います。

他の話も全体的にだいたい一話完結で、韓国社会の色々な問題が取り上げられつつ、単純な勧善懲悪的二分法にならないように、それぞれの事情を吸い上げて毎回の判決が非常に納得感のある感じで出るんですよね。

韓流ファンの日本人って色んなパターンがあって、ある種の左翼の日本人が2017年以前の「韓流的勧善懲悪展開」に自己投影してのめり込んでる例も結構あると思うんですね。

で、そういうタイプの人にとっては、今の作品は「似たような勧善懲悪感」を一応感じられる出来にはなってるんだと思うんですよ。そういう人にとっては別に何も変わっていないように見えている。

一方で、そういう「左翼的党派性」からは遠いタイプの人間でも、普通に見られる展開になってきている変化も明らかにあって、それが「韓国ローカル」的なコンテンツではない普遍性を得る結果になっているのではないかと思います。

4●「もうひとりの男」を殺さなくても済む話

もう一つ、ここまでの「ウヨンウ弁護士のドラマとしての特徴」の結果として・・・なんですが、「悪役の男」がいい感じに自分の生き方を見つけられる展開があるんですよね。

ネタバレになるので詳しくは述べませんが、昔の韓流なら明らかにめっちゃ悪役のまま突き進んで最終盤で暴力事件とか起こしてそうなキャラクターが、「ウヨンウ弁護士」においてはいちおう最初から「案外いいやつ」感はあったんですが、最後の方で「マジでいいやつじゃん!」ってなって終わる。

これも韓流世界では地味に画期的なことなんじゃないかと思っています。

以前、「愛の不時着」の記事の後編で、私は昔ホストクラブで働いていた事があるんですが、その時のNo.1ホスト氏の教えと韓流ドラマに出てくる男の振る舞いが似ているというヨタ話を書いたんですけど↑(でもそれって本当に女性を尊重してると言えるのか微妙ですよね・・・というテーマなんで、興味あればぜひどうぞ)

上記記事に書いたように、昔の韓流コンテンツは、「一人の男が文句なくかっこいい男であるために、当て馬の男を大量に必要とする」構造があったんですよね。

特に主人公の男を押し上げる「最大の当て馬」みたいな男は、とにかく無意味に最低最悪な酷いことをしてくるし、色々あった上で最後は死ななくちゃいけなかったりする。

「党派的純粋性」を保った上で「文句なく正しいヒーロー」を描かないと「ヒロイン女性の相手役」としてふさわしいということにできない世界観だと、とにかく「無意味に極悪で、無意味に卑怯で、無意味に酷いことをしてくる敵役の男」みたいなのが必要になっちゃうんですよね。

イカゲームの主人公の友人の”ソウル大学経営学部主席氏”とか、梨泰院クラスの「長家グループ」の人たちとかね。(こういう世界観の親玉みたいなところに、「大韓民国の歴史を肯定するためには日本を完全否定しないといけなくなる」・・・みたいな構造が生まれてしまうわけなんですけど。)

でもこういうのって、「女性に選ばれるためには男社会での序列において完全に勝利しなければ」みたいな感じなので、本当の意味で女性側のニーズとか、女性側の主体的な選択が反映されてるかっていうとそうでもないところがあって。

「ウ・ヨンウさんがイ・ジュノ氏を選ぶ理由」に説得性をもたせるために、イ・ジュノ氏がやたら「他の男」に対して偏差値スペック的競争とか倫理的競争において無上に「勝利者」である必要がなくなっているところが、凄い「地味に新しい」ところなんですよね。

そして、純粋にウ・ヨンウさんの事が好きで、「理解のある彼くん」としてのサポートをしている要素がWin-Win的であるということ自体が話全体を組み上げていることが、「昔の韓流ならライバルとして悪堕ちしたであろうあの男」が「案外いいやつじゃん」的展開に救われる事になった事と不可分一体の現象だろうと私は考えています。

5●今後の日韓関係について

今後の日韓関係なんですが、まあ過去20年の延長みたいな形で無理やり仲良くする動きは、どうせすぐ破綻するから辞めた方がいいという感じではあると思うんですね。

とはいえ米中冷戦がヒートアップする中では、曲がりなりにも民主主義やってる両国の仲が延々と悪くなるわけにはいかない事情もあるので、放っておいてもなんだかんだメチャクチャな悪化はしないんじゃないかと。

「それ以上」に踏み込むためには、過去何十年と繰り返されてきた

日本の左派が相乗りして韓国の左派的ナショナリズムと結託して”彼ら側の正義”をゴリ押ししてくる vs それに対抗するために日本側の右派と”普通の国民”的センチメントが結託して”俺たちは何も悪いことをしてないぞ”的に押し返す

…みたいな構造自体を超えられるようになっていかないといけない。

単純に言うと、数年前までの日韓関係においては、韓国側の世界観おいて

例えば梨泰院クラスの「長家」の人たちとか、イカゲームの「ソウル大学政治学部主席」の彼のような、「主人公(韓国)が完璧に輝く存在であるために徹底的に悪くて卑怯なことをしてくる当て馬」的な存在に「日本」を押し込めようとするようなストーリーテリング

…が作動しており、丁寧に検証された事実に基づく個別の具体的被害についての補償や謝罪ならともかく、そんな「神学レベル」の感情的大問題まで受けとめる義務は日本側にはないわい、ってところで絶対にまとまらなかったんですよね。

でも、「ウ・ヨンウ弁護士」の「悪役になるはずだった男」が案外スゲーいいやつじゃん!って終わったように、この複雑な人類社会の中でそれぞれなりに必死に生きているんだねえ、っていう感覚がちゃんとストーリーに載せられるようになってくれば変わってくる。

「日本側の事情」も理解した上で、韓国側の「被害」的なものも適切にテーブルの上に載せて、党派的に極端な人だけでなく両国の「普通の人」が安定的に感情が共有できるようなストーリーテリングを作っていけるかどうかがこれからの課題になるでしょう。

「ドイツの第二次大戦への向き合い方」みたいなものを最上の理想と考えるような20世紀の欧米的価値観の風潮からするとかなり反動主義的なことを昨今の日本はやってきたように見えている人もいるかもしれませんが、そういう日本側の反発も韓国人は徐々に「なんか知らんがココには日本側の強烈な反発を生む要素があるらしい」と折り込み始めている部分はあるように思います。

日本人側も韓国に対して歴史的に何も悪いことをしていないと思っている人は少数派ですが、さっきの「カタヅケテオケ!」みたいな話を本気にされて永久に謝罪を要求されても困るという事情がある。ナチスの事件とは規模感も事情も全然違うんで。

別に「日本軍の活躍によって欧米帝国から東アジア植民地は解放されたのだ!」的な話をしたいわけではないが、当時の血も涙もない帝国主義的情勢下で日本が必死になって「押し返す」ことをしなければ人類の歴史はまた違ったものになっていた事も大枠で言えば事実なわけですよね。

その「押し返す」事情の上で必要だったアレコレについて、今の時代の基準で「完璧」を求めて糾弾しまくる…みたいな事がバランスを欠いているのは明らかで、そこでは日本の右翼さんだけじゃなく日本の一般大衆的にも受けいれられないゾーンがある。

今回記事で簡単に扱えるような内容ではないので単純に述べますけど(あとで有料部分でしっかりやります)、これは単に「日本の大衆がわからずやだから高貴なドイツ人のように反省すべきことを反省しないクズだ」という話ではないんですよね。

そこにこそ20世紀型の勧善懲悪世界観ではプーチンを止められなかったよね…という問題が潜んでいる部分であり、欧米社会と非欧米社会との関係について21世紀には全く別の視点で総括する必要があるよね、という課題が眠っている部分なんですよ。

https://finders.me/articles.php?id=3403

最近書いたこの記事↑でも、結局「ドイツ人のやり方ではウクライナ・ロシア戦争は防げなかったが、安倍氏的な存在によって米中冷戦は一応火を吹かずに済んでいる」という話をしました。

韓国人も今やよく自称するように先進国レベルの繁栄をしはじめたなら、昔のように「途上国の立場から今の人類社会のあり方に物申す」という立場ではいられなくなる。

自分自身が実際の国際的パワーゲームのリアリティの中に放り込まれて、その中での決断が必要になってくるようになれば、机上の完璧な理想論から他人を非難しまくるという立場の限界も理解されるようになってくる。

「日本側の事情」についても「敬意と理解」がない世界観で断罪することは、ある意味で人類社会のパワーゲームの中で現実的な責任を果たしていないところがある。

その部分について、しぶしぶながらも韓国人も理解しつつある(理解せざるを得ない状況に日本側の保守派が無理にでも追い込みつつあるというか 笑)情勢変化は徐々に起きていると思います。

単なる終わりのない”倫理闘争”でなく色々な国際法上の契約問題として論争されるようになってきている変化がそれを後押ししている。

そういう論争はまだまだ始まったばかりで今後も続くでしょうが、そういう法律論争とは別に、そういう本質的な利害対立がヒートアップして理想ごと吹き飛ばしてしまわないために、徐々に「党派性をユーモアで乗り越える」ような文化が日韓ともに育ってくれば、その先で見えてくる新しい日韓関係もあるかと思います。

実際の「政治」となるとそれがどう反映されてくるのか、私は韓国政治に詳しくないので全然イメージできませんが、少なくとも韓流コンテンツを見ている分には、2017年以前と2019年(例えば”パラサイト”)の間にも、そして2019年と2022年(ウ・ヨンウ弁護士)の間にも明確な「違い」があるし、その変化はいずれ新しい日韓関係も見出していくはずだと思います。

上記記事に書いたように、「あらゆる事が20世紀的な党派争いに見える」世代は日韓ともに引退していき、「あらゆる事がプレーンな問題解決に見える」Z世代に置き換わっていくので、その中で新しい相互理解というのも生まれてくるはずだと思っています。

とりあえず!

「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」はとにかく超名作すぎてヤバいので、ぜひ韓流に馴染みのないひとも是非見ていただければと思います。

ここまでの話には出てこなかったですが、僕はウ・ヨンウさんの上司の兄ちゃん(チョン・ミョンソク氏)が凄い好きでした。

ああいう普通に良い人キャラって最近ドラマから消えつつあるような、でも人間社会で大事な存在ですよね(そういうヤツはモテないというのも悲しいドラマ上のルールみたいになりがちですが、彼も確かにちょっと”ダサいヤツ”扱いはされつつも、ちゃんとお相手が用意されてるところもこのドラマの素晴らしいところなのかなと)。

この記事の続きの「後編」のより深堀りした内容として、以下の記事も良かったら読んでってください。

↑昨今の「ベタな正義の暴走」が限界に来て「メタな正義」に入れ替わる「人類社会の曲がり角」の話について、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の話をしながらアメリカ株の歴史90年間を見直しつつ、その中での日本の果たすべき役割について書いた力作となっています。

今回記事の無料部分はここまでです。長い記事を読んでいただいてありがとうございました。

ここ以後は、さっき簡単にだけ書いた「20世紀の戦争に対するドイツの反省の仕方」っていうのがいかに「欧米文明中心」的な欺瞞があり、戦争抑止に役に立っていない片手落ちの発想になっているか、それを超えていくために必要な考え方は何なのか?について書きます。

結局、「戦争抑止」は敗戦国も戦勝国も一緒になって考えないとダメなんですよね。敗戦国だけが、当時の状況を延々蒸し返して懺悔して、「自分たちが悪かったです」みたいなことを言っていても「火種」自体は全然解決できない。むしろ民衆の感情的反発が募って逆効果にさえなりかねない。

そういう発想の中で、むしろ「辺境で暴発者が出ないようにする方法を、社会の主流派側が考える」ような発想で向き合って、「その罪を特定の民族でなく人類社会全体でシェアする」形で決着しないといけないんですね。

ここ以後は、その発想において「ドイツのやり方」がどう間違っているのか?どういう視点で「ほんとうの戦争抑止」を考えればいいのか?日本の右翼さんがこだわっている点を排除せずに、「21世紀的な新しい理想」の中に繰り込んでいくにはどうしたらいいのか?といった話をします。

果てしなく分断化される人類社会はこの「メタ正義」の領域に踏み込まないとマジで第三次世界大戦すら避けられない情勢にあるので、今後当然「この地点からの見方」は徐々にスタンダードになっていくはずだと思っています。

その「人類社会共有の課題」を考える具体的解決に参加せず、「自分たちは無垢で善良な民だが●●とかいう極悪人が何の理由もなく暴発してきて悲劇は起きるのだ」みたいな幼稚園児のような世界観でナルシスティックに懺悔ごっこをしていても何も実質的な戦争抑止の知恵は出てこないし単に感情的対立がコジレて余計に危険な情勢になりかねない。

そういう見方がシェアされるようになった時にはじめて、日韓関係も「お互いの気持ちをそのまま出し合える」形が見えてくるんですね。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。(これはまだ確定ではありませんが、月3回の記事以外でも、もう少し別の企画を増やす計画もあります。)

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。

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ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

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