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世界で唯一「アバター2」が1位にならない国=日本をどう考えるか?という話。

ジェームズ・キャメロン監督映画「アバター2 ウェイ・オブ・ウォーター」は、全世界”歴代”興行ランキングで4位につける大ヒット、3位のタイタニックを抜くか抜かないかのデッドヒートになっているそうです。

ちなみに「全世界興行収入歴代1位」、つまり「人類の歴史上最も見られた映画」は「アバター1」なんで、世界的に見てこの「アバター1・2」という映画が物凄い化け物コンテンツであることがわかります。

しかし!

なんと、(おそらく)世界の中で日本だけ、国内興行ランキングでアバター2が1位じゃないんですね。

国内ランキングは、

1位 『THE FIRST SLAM DUNK』
2位 『すずめの戸締まり』(新海誠)
3位 『アバター2 ウェイ・オブ・ウォーター』

です。

これについて、色んな人が色んな事を感じると思うんですね。

ある意味で、「世界が文化的に一色に塗りつぶされていく中で、文化的多様性を保っている日本は素晴らしい」というのは明らかに言えると思います。

特に、例に出したら失礼かもですが、アバターを超える1位がAKBのドキュメンタリーとかだったら結構個人的にはショックを受けていたかもしれませんが(笑)、1位のスラムダンクも2位の新海誠も、個人的には自信を持って「名作」と思える作品なんで、むしろ痛快でいいじゃん、と思っている感じはあります。

ただ勿論逆に、一種の「ガラパゴス化」的な問題を懸念する人もいるでしょう。

ともあれ、私はこの上位三作、スラムダンク、すずめの戸締まり、アバター2を一応全部映画館で見たんですが、その上で、この現象についてどう考えるべきなのかという記事を書きます。

1●アバター2は凄いけどベタすぎる映画

アバター2って、映像はとにかく物凄い映画ではあります。

どこまでが実写でどこが特殊効果なのか全然わからない映像で、さらに3Dで見たらとにかくめっちゃ凄い。ナウシカの腐海みたいな特殊な植物や生き物が生い茂って自由に動き回っている深い森や深海の中で、ナヴィ族の人達とか色んな恐竜やクジラみたいな生き物たちと、完全実写な人間たちが違和感なく同じ画面で動き回ってアクションしている。

凄いしか言ってないけどとにかく映像に関しては圧倒的に凄い。

ただなんか、「ストーリー」の方はもうベッタベタな映画で、それはもう恥ずかしくなるぐらい単純な図式に全てを当てはめて語ったような感じで、「映像の凄さ」との落差がめっちゃ印象的な映画ではありました。

全体的に言えば、

現代文明的な世界観の傲慢さvs未開の部族社会が持つ叡智

…みたいなテーマではあるんですよね。

でもこれなんか、物事の見方が図式的すぎて、もうなんだか「善」と「悪」のハンコみたいなのがあって、「はいこいつは善ね!」「はいこいつは悪ね!」みたいな感じでポンポン押して区分けしたような感じ(笑)

部族社会の人達が”神事”的な感覚で野生動物の狩りを行うのは英雄的・善的行為として100%称揚されるけど、一方で現代文明的世界観の中で捕鯨みたいな事をするのは「100%悪」みたいな。

もうパッキリとその間が全然ない形で無自覚に「善悪判断」がされてるのが、なんか凄い恥ずかしくなるというか。

あと、「部族社会の規範」みたいなものが凄い素晴らしいものとして描写されていて、

山にいられなくなった主人公たちが海の部族に「客人」として迎えられたなら、その「部族」の掟や積み重ねられた知識経験に敬意を払って、時々ちょっとイジメっぽいぶつかりあいも経験しながらお互いを理解していくのが美しい人間社会の営みなのだ

…みたいな展開も、「欧米文明の内側」だけで生きているひとが、外部の自分と全く関係ない世界としての「部族社会的なもの」に夢見すぎなんじゃないの?と思うところはある(笑)

ただ、

「社会にあとから入ってきた新人のあらゆる小さな不満」に対しても「社会全体で最優先に対処しなくてはならない」…みたいな昨今の先鋭化したポリコレ規範

…に人々が疲れてきていた情勢の中では、

ここまで「部族社会的規範バンザイ」みたいな描かれかたをするのはそれはそれでレアなことで、歴代興行ランキングで全世界的なヒットに繋がっている源泉でもある

…かもしれません。

ぶっちゃけていえば、欧米人は「自分たちとは違う部族社会のロマン」に無責任に夢見てればいいし、逆に非欧米圏で上映されている時には、「欧米とは違う俺たち部族社会の良さってあるよな」というように受け止められている可能性が高い。

でもなんか、我々日本人のように、「欧米文明の側」で百数十年先進国生活をしてきてそちらの様式も染み込みつつ、かつ「部族社会的要素」も濃密に残している立場からすると、この図式のあまりの単純さが凄い薄っぺらく感じるんですよね。(同じようなことを言ってるレビューをネットで沢山見ました)

2●文明社会と部族社会の狭間で生きる立場からすれば…

「文明社会」と「部族社会」の狭間で生きる私たち日本人からすると、「アバター2」で描かれる部族社会の逃げ場のなさってかなりヤバいなと思うわけです。

確かに、過去10年ほどの流行のように、「文明社会のルール」を純粋培養した「ポリコレ規範」みたいなものを絶対化して

海のこと全く知らない人間が一人入ってきたら部族全体が「差別をしない」ために必死にその新入りに対して尽くさないといけないし、決して何も押し付けてはいけない

…みたいな極端すぎる論理を押し付けると、”実際のそういう社会”で生起する毎日の出来事をうまく処理して皆がちゃんと”生存”していくことができない。

だから何らか「敬意を払って学べ」的な要素があることは良いことだと思うんですよ。

ただ、なんかアバター2に描かれる「部族社会」っていうのは、欧米の文化人類学者が思い込みとロマン込みで描写した理屈上のルールがそのまま字義通り展開されてる感じで、端的にいうと「逃げ場がない」んですよね。

「文明社会の厳密さの基準」でもって「部族社会の掟」を運用しようとするから、なんかめっちゃ厳しすぎるというか、こんなの一種のファシズムじゃないの、って感じで逃げ場がなく「部族の規範」に縛られて生きていかざるをえない感じになってしまう。

実際に「部族社会」の要素が結構ある中で生きてる日本人の感覚からすると、部族社会というのは、ある程度の「なあなあさ」をお互いに許容することによってしか実際には成立しえないはずなんですよ。

それぞれのケースバイケースにある程度ゆるい判断をしてガス抜きをしながら、それでも本当にその集団の生存にクリティカルな事態がある時には真剣にシメるところはシメて、単にバラバラの個人同士が永久戦争をしてその集団にとって必要なことができなくなってしまわないような絆を保つ・・・みたいな「ちょうどよい塩梅」が必要なんですよね。

そういう部分に無反省すぎる感じの、単純な「部族社会倫理バンザイ」みたいな展開なのには、なんかちょっとついていけないというか、

「いったい何周前の話をしているんだよ」

…という気持ちになる日本人は多いのではないかと思います。

3●文明社会の論理と部族社会の倫理がぶつかりあう現代人類社会

ともあれ、今の人類社会にアバター2がヒットする意味、みたいなのは考えざるを得ないところはありますよね。

欧米的に作られた人工的な論理を人類社会80億人に無理やり押し込んでいけばそれで通用すると思って過去20年〜30年ゴリ押ししてみたけど、徐々にローカル社会側において細部の問題を適切に扱えていないことが多くなって、イスラムの一部が離反し、中国は全く別の論理で社会運営を行うと主張し、そしてロシアの暴走にどう対処していいのかわからなくなってしまっている。

まさに

透明なロジックだけでありとあらゆる物事を処理しようとする現代文明を、人類社会全体に通用させようと過去10年〜20年頑張ってみたけど、末端・辺境に行けば行くほど色々と問題が大きくなって逆に「強権的」な何かで埋め合わせることになってしまっている

…みたいな現状がある。

だからといって、必ずしも人々が「部族社会の論理」で生きたいと思ってるわけでもないはずなんですよね。

ただ、「文明の論理」だけを字義通りに絶対化していくと、ローカル社会の細部の問題にちゃんと向き合わずに欧米的な人工的な理屈で果てしなく断罪しまくるだけで自分は何もしない・・・みたいなムーブメントが止められなくなってしまう。

それは「欧米から見た辺境」になればなるほど大きな問題になってしまうので、何らかの「強権」で埋め合わせるしかなくなってしまっている。

今の人類社会はすでに、この問題を「党派のどちらか側」からだけ見て「敵が全部悪い」って言い合ってないで、「この現象自体をどう解決するべきがいいのか」について両方から知恵を絞って考えていかないと、マジで第三次世界大戦も不可避みたいになってきしてしまってるんですね。

で、解決のためにこの問題をどう捉えるべきか?について、インテリの人に通りが良い例え話があるんですが、これはだいたい

日常レベルの物理現象を扱うならニュートン力学でいいが、宇宙レベルの大きな話なら相対性理論が必要だし、素粒子レベルのミクロな話には量子力学が必要ですよね

みたいな事なんですよ。

日常レベルの良識的な話で言えば、ポリコレ的な理想をそのまま適用して生きていけばいいが、人類社会全体の対立緩和と戦争回避みたいなマクロな問題ではまた別の論理が必要になるし、欧米から辺境になればなるほど、その社会特有の課題に人々の意識を振り向けて協力して何かを解決するような風潮が壊されてしまわないように配慮していく必要がある。

結局、現代人類社会において、欧米人は今まで自分たちの「地」を他の地域に押し付けるだけでずっとやってこれたのが、最近になって「異議申し立て」にぶつかって、やっと「次の課題」にぶつかるようになった。

人類社会の7割以上を占める先進国以外の途上国においては、まさにその社会の「部族的倫理」がまだ生きているから、とりあえずそれを生きていればいい安定感がある場合も多い。

韓国や台湾など、数世代前まで軍事独裁政権だったから社会の絆的なものが崩壊していない特殊例において、過去10年ぐらい「文明の良いところ」だけを純粋に謳歌できるんじゃないか?という希望が垣間見れた時もあったけど、実際は結局文明社会がローカル社会の紐帯をバラバラにしすぎて、最近は結局日本と同じ「いわゆる右傾化」的な傾向も見えるようになってきてしまっている。

日本社会は、80年代の狂乱で「部族的な紐帯」を一度徹底的に破壊するところまでいって、瞬間最大風速的な経済で世界一になりかけたところから栄華が自分の手をすり抜けて消えていってしまったので、「その先の課題」に向き合わないといけないんだ・・・っていうことを国民が深く本能的に知っているんだと思うんですね。

4●「スラムダンク」も「すずめの戸締まり」も「アバター2」の課題の「その先」の映画

要するに、アバター2って日本人からすると「何周前の話なんだ」的なストーリーではあると思うんですよ。

「文明社会的なものの絶対化がもたらす限界」に直面して、じゃあ今度はコインの裏返しで部族社会的なもの讃歌へ・・・みたいなのって本当にそれでいいのか?って話になる。

大事なのは、「部族社会の倫理」に社会運営上大事な機能があったとして、それをいかに「文明社会的な良さを否定しないで取り込むことができるか?」という問いに中身を詰めていくことであるはずです。

スラムダンクも、「すずめの戸締まり」もまさにそういうテーマの話ではあると思うんですね。

スラムダンクは、「皆同じ髪型、同じシューズ、揺るぎない伝統的な倫理観」でまとめあげられた山王工業高校(古い部族社会的倫理の権化)に、「全員違う髪型、全員違うシューズ」の湘北高校が挑み、

「個を潰すことなく、むしろ”個の意地を絶対化”していくような世界の先に、しかし山王以上のチームワークを実現して打ち勝つ」

話ですからね。

「すずめの戸締まり」はもうちょっと複雑な話ですけど、新海誠氏の過去作に乗り切れなかった人にもぜひ見てほしい凄い作品なんですよ。

詳しくは、見た直後に興奮して連続ツイートしたものが以下をクリックするとツリーで読めます。

簡単に言えば、新海誠作品っていわゆる「公」的なものなんか知らねえぜ、って感じで、あらゆる「押し付け」を嫌って「個」を見出していく話、みたいなところがあったと思うんですね。

でも「すずめの戸締まり」は、そうやって「個」を解放していった先の「自発的献身」によって、社会を協力して成り立たせていこうと奮闘する人達の話で。

上記ツイートに寄せられた意見の中で、

新海誠氏の過去作「天気の子」で、「社会の末端の誰かに過剰にシワ寄せが行くようなものは拒否する、それで東京が水没しちゃってもいいじゃん」という極限的な「個」側からの世界を描ききったから、「その先の自発的な献身のあり方とは?」という問いにまっすぐ応えた「すずめの戸締まり」が生まれたのだ

みたいな話があって、これは凄いナルホドと思いました。

なんにせよ、これを単に「そういうのを描こうとしました」ってだけじゃなくて、スラムダンクの圧倒的な音楽のかっこよさとか、映像の迫力とか、すずめの戸締まりの「戸締まり」の儀式の厳粛なキマった感じとか、厄災のエネルギーがもつ圧倒的に禍々しいリアリティとか、そういう感じの説得力を持って「国内ランキング一位二位」にするぐらいのパワーを持ち得ていること自体には、希望を感じていいと思います。

あとでもうちょっと書くけど、個人的には「すずめの戸締まり」の「悪」というか「厄災のエネルギー」が持つ恐ろしさ、禍々しさのリアリティ・・・みたいなのは、昨今の欧米の流行的に常に人工的な価値観の中での「断罪」が入った描かれ方では決して到達できない何かの真実性を持っているように感じています。

5●今後の日本はどうあるべきか?

結局今後の日本がどうあるべきか?って話でいえば、今孤独に掘り進んでいるトンネルみたいなものを、なんとか向こう側まで突き抜けるしかないなと思います。

「欧米的な論理の絶対化と無理やりな押しつけ」が徐々に機能不全化して人類社会が分断されて困りますね…ってなったからといって、じゃあ中国の強権とかロシアの暴走とか、一部イスラムの反動主義とか、それが「次の希望です」とか言われたらマジで待ってくれそれは困るんだけど!ってことになるので。

さっきの「ニュートン力学」の話じゃないですが、大雑把な人工的理屈を現実に無理やり当てはめる状態から脱して、もっとマクロな戦争回避的課題においてはそれ特有の論理をしっかり考えていき、欧米からみた辺境社会における個別の事例を丁寧に扱えなくなってしまう問題についてもまたそれをちゃんと真剣に考える。

そういうことが必要だよね、という時代には当然今後なってくる。

「アバター2」はそういう時代への「入り口」ではあると思いますし、詳しくは述べませんが「I see youという概念」によって「今後どういう論理で探求を進めていけばいいのか?」については存外深い示唆のある物語でもあるはず。

日本は20年先行して「その課題」に本能的に向き合ってきた蓄積を信じて、「アバター2側から掘り進んで来るトンネル」に、「こちらがわから掘り進んでトンネルをつなぐ」ようなことを目指すべきでしょう。

物凄く単純なことを言えば、今は日本のコンテンツ産業の中で「お話」のレベルでのみ提示できている理想像を、実際の「経済・社会運営」のレベルまでちゃんと具現化して、それで国際経済競争の中でちゃんと負けない地歩を獲得しつつ、アメリカみたいに「自国内の末端」のところでどんどんスラム化が進むような不均衡が起きないようにできるかどうか。

この記事と対になるものとして、さっき書いた一個前の以下の記事

のような形で、「お話のレベルで提示した理想を実際の社会経済運営として具現化するところまで行く」事ができれば、過去20年日本社会が孤独に内輪で思い悩んできた「課題」を、人類社会全体でシェアして次のステップに進むことが可能になります。

結局、どんな「文明的理想像」を原理主義的に信じる人であっても、それによって社会の末端における自然な助け合いの連鎖みたいなものが崩壊してスラム化が進み、強烈な反動的政治勢力みたいなものに攻撃されるようになることは望んではいないはずです。

「日本社会側が守ろうとしてきたものは何なのか」を深く理解し、「そこにある価値」と「文明的論理」を統合するためのアップデート作業をちゃんとやっていくことが大事ですね。

以下の記事で書きましたが、

今後「人工知能の数学」が発展し、その実用例も社会にあふれてくるようになれば、「ニュートン力学」レベルの善悪のハンコを脳死状態で振り回してあちこちで押しまくり図式的に断罪し続けるような世界観の限界を、人類はもっともっと深く体感していくことになります。

結果として、「文明的論理」と「部族的倫理」がぶつかりあっている時に、単に欧米的論理からだけで上から目線に断罪してしまうのではなくて、その「部族的倫理」が持っていた「機能」を、いわば「教師データ」として取り込んで、「文明的論理」の方をもっと細部にピッタリフィットするように高精細化していくような動きが必要になってくる。

昨今の日本のSNSはちょっと治安悪いというか、右からも左からも単に「敵を否定して押し付ける」ような論理は徹底的につぶしあいになっているのは、困ったことのようで「大事な前進」だと思っています。そういう「自分たちは正しい、敵が間違っている」みたいなのを延々カッコいい言葉で投げつけあって何も進まない・・・的な20世紀の悪癖はそろそろ徹底的につぶしあいになって消えていくべき時です。

「純粋培養したロジックで生身の人間を断罪しまくる」vs「それに対するローカル社会側の切実な事情による問答無用のバックラッシュ」みたいな幸薄い構図

をだんだんやめていって、

「部族的倫理」が持っていた機能を決して否定せず敬意を払いつつ、しかし「文明的理想」を決して諦めずに、丁寧に現地現物に取り込んでアップデートしていく双方向な動き

に、転換していきましょう。人工知能の数学がここまで発達してきた時代に、20世紀的なイデオロギー断罪なんてそろそろ辞めるべきときですよ。

その動きを粛々とやっていければ、トンネルの先に日本の次の繁栄の道は必ずありますよ!

この記事に興味を持たれた方は、ぜひ以下の本も手にとっていただければと思います!

日本人のための議論と対話の教科書

党派的な罵り合いだけが続いて立場を超えた協力関係が壊滅的になってしまっている今の社会を、どうやったら意味のある対話と協力に満ちたものにできるかについて、実際に経営コンサル業のクライアントで平均給与を150万円上げることができた実例などをもとにわかりやすく書いています。

長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。

ここからは、「ロリコン」の話をします。

はあ?

って思ったかもしれませんが、まあちょっと聞いてください。

最近、「メイドインアビス」っていう超凄い漫画を読んだんですよ。

絵柄がロリっぽくて、多分「ロリコン的」なものに徹底的に拒否反応がある人は読むのが凄い苦痛だと思います。

僕は「他人の性癖やサガのようなものを決して断罪しない(犯罪をおかさないかぎりは)」という強固な自分ルールがあるんで我慢して読みましたけど、でもまあ社会通念的にチョットネ…という気持ちにならなかったと言えば嘘になる(笑)

またその「ロリっぽい絵柄」で、結構残酷な話が描かれるんで、そこも二重に「無理!」ってなる人いると思うんですよ。

でもね、なんか実際現時点で公開されてる漫画最後まで読んだらマジで超凄くて、単に無意味に残酷という話じゃなくて、そこにある必然性というか、とにかくめっちゃ凄い話で。

話の「深み」っていうか、こういうのと「アバター2」みたいな今の欧米文明の風潮との違いって、「悪のリアリティ」だなあ!って凄い思って。

「悪」が「善」と分離された気軽に断罪できるようなものじゃなくて、我々の日常において「善」とされているものの中に深く絡まって解きほぐせなくなった因果のようなものの先に「悪にならざるを得ない存在」が生まれてくる。

結果として「単体でそいつを断罪しまくっても仕方ない」「トータルで見た人間社会をどう”できるだけ負荷の少ないものに変えていけるか”が大事だな」みたいな、そういう発想に至らざるを得なくなる、問答無用のパワーがある。

一昔前の韓流ドラマの構造と、日本のコンテンツの違い・・・みたいな話で、「人災メンタリティ」と「天災メンタリティ」の違いという話をして結構読まれたことがあるんですが↓、その「天災メンタリティの深み」の最良のもの、みたいなのがある感じがしたんですよね。

で!

なんかこの「メイドインアビスの凄さ」と「ロリコン趣味」の部分は、結構表裏一体だなあ、と思ったというか、単に主人公キャラの絵柄を大人の女性に変えたらそれでいいじゃん、ってなる問題でもないなと。

勿論「犯罪としてのロリ」っていうのは規制されてもいいと思うんですが、なんかこういう「ぶっ飛んだ世界観を生み出す個人」というもののパワーを解き放つときに、やっぱり日本のオタク論壇的なものにおける「表現の自由」的なのって大事だな、というように思いました。

まあそれはともあれ、ここ以下の部分では、

この「悪のリアリティを深く描く」というコンセプトと、「ロリ的なもの」の繋がりってどういうことなんだろうか?

あるいは、欧米人がときどき、殺人より強盗より詐欺より麻薬犯罪よりも戦争とかよりも「ロリ関連」の課題を最悪の罪であるかのように断罪しようとする背後にあるメカニズムってなんなのか?

…みたいなことを書きます。

さすがにちょっと無料部分に置いておけない範囲の話って感じなので、良かったら以下読んでいただければと思います。

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普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

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また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。

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ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

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