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「”BLのカップリング妄想”的なものは紀元前からある」という話と「温泉娘的萌え絵論争」と「動物化するポストモダン」

(トップ画像はウィキペディアより、紀元前500年頃の「矢で負傷したパトロクロスを治療するアキレウスの絵」)

古代ギリシャ・ギリシャ神話研究家の藤村シシンさんという人がいて、ウチの妻が大ファンなんですけど、その人がライブドアニュースの「ゲームさんぽ」というコーナーでゲームをしながら古代ギリシャについて語る・・・という動画を出していて。

これ見ていたら、古代ギリシャ人も、現代の「BL好き」の人がやるような「カップリング論争」が好きで、その「解釈違い」で大論争になっていた・・・みたいな話があって凄い面白かったです。(後日追記なんですが、シシンさんご本人によると、古代ギリシャ人の”カップリング論争”は、厳密には”現代のBL”とは違う文脈のものだそうです。つまり”現代の腐女子がやるようなカップリング論争的なことを古代ギリシャ人もしていた”は正しいのですが、”古代ギリシャ人もBL妄想をしていた”は間違いだそうです。詳しい事は少し下に貼っておいたご本人のツイートを参照ください)

アキレウスとパトロクロスという神話の登場人物がいるんですが、その二人のカップリングのどっちが「受け」でどっちが「攻め」なのかで、あのプラトン(言わずと知れた古代ギリシャの哲学者)とアイスキュロス(ギリシャ三大悲劇詩人のひとり)が大真面目に論争していたとか。

といっても「BL妄想」に詳しくない人からすると意味わからないと思いますが、僕も全然わからなかったんで、詳しい人に説明してもらった話も引用しながら、多神教世界における「関係性妄想」みたいなものがある意味とか、その豊穣さをいかに守っていくか・・・みたいな話について結構大真面目に考察する記事を書きたいと思います。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

(後日追記なんですが、藤村シシンさんご本人から、”当時のカップリング妄想と現代のBLは文脈が多少違う”というご指摘をいただきました。詳しくは以下の2つのツイートのようなことだそうです。当時は男性中心社会すぎて、むしろ男性同性愛の方が上というような価値観もあったため、BLに関する文脈が全然違っていて、むしろ当時異性愛を妄想した方向性こそが今のBLに近い性向ではないか、という指摘のようですね。ともあれとりあえず、この記事はどちらにしろそういう「関係性自体に”神事”性を見出す感性について」の話として読んでいただければと思います)

1●BLの関係性妄想に関する基礎知識

BL(ボーイズラブ)が、主に腐女子と呼ばれる女性が、漫画などのコンテンツの男性キャラクター同士の同性愛関係を妄想して楽しむジャンル・・・なのは一応知っている人が多いと思います。

でもその先の「関係性」「カップリング」「解釈違い」「受けと攻め」云々については知らない人が多いと思います。僕も全然知らなかった。

私は経営コンサル業のかたわら文通しながら個人の人生について考えるっていう仕事もしていて(興味あればこちら)、そのクライアントに「腐女子的な趣味もあるゲイ」の人がいるんで、その人に色々解説してもらいました。

(ちなみにそのゲイの人によると、その人はたまたま「腐女子的な妄想も好きなゲイ」というタイプの人だけど、「ゲイの性行為」と「腐女子の妄想」は全然違う世界なので、全然こういう話が理解できないゲイの人も勿論多くいるらしいです。)

BLのカップリング妄想の世界では、どっちが「受け」でどっちが「攻め」なのか・・・が重要な「ジャンル分け」になっているらしい。

「攻め(タチ)」っていうのはカップリングの関係性において「男性的」な方で、「受け(ネコ)」は関係性において「女性的」な方なんだとか。

これは「同性愛セックスにおいて”挿入側”かどうか」みたいな分類でもあるし、もっとイメージ的な関係性において使われる用語であるらしい。

AというキャラクターとBというキャラクターの関係を描くのを「A×B」のように掛け算方式で書くんだけど、この掛け算の左側が「攻め」で右側が「受け」という約束事があるので、A×Bなのか、B×Aなのか・・・という分類が、あらゆるキャラクターの関係性の中で色々とあるんだとか。

ちょっとここまでの説明に、「プロ」の人たちからは満足できないものがありそうなんですが、まあ初心者向けということでザッと理解していただければと思います。

さっきの動画の中で、アキレウスとパトロクロスとの関係が、アキ×パトなのか、パト×アキなのか・・・が大問題で、哲学者のプラトンは「アキ×パト派」で、アイスキュロスは「パト×アキ派」で、お互い「お前はわかってねえ」と論争していたらしい(笑)

2●少年漫画的発想でBLに近い理解ができるところもあるかもしれない

こう書くとほんと「中の人にしかよくわからない腐女子の人たちだけの妄想世界」って感じなんですけど、そこにある「意味」をもう少し噛み砕いて説明してもらうと以下のような感じらしい。

以下、先程書いた「腐女子なゲイ」氏の解説をコピペします。

(以下引用)
■アキレウスを臆病者と誹られるのが絶対にイヤだからアキレウスの振りをして出陣し命を落としたパトロクロス
■自分のわがままのせいで命を落としたパトロクロスの弔い合戦で殺戮の狂戦士と化し、パトロクロスと共に埋葬されることを残された唯一の希望としたアキレウス

・・のどっちが「攻」でどっちが「受」なのかによって、そこから紡がれる関係性の物語の方向性や色彩が相当変わってきてしまうものなので、「一大論争」を巻き起こすというのもむべなるかな、という感じがします。

私だったら、

アキ×パトなら「豪放磊落で漢気のあるアキレウス」×「健気で献身的なパトロクロス」というカップリング

を想像しますし、

パト×アキなら「アキレウスの危うい純粋さを愛してやまない静かな包容力のあるパトロクロス」×「パトロクロスにだけ心を許す火のように激しくガラスのように繊細な狂気を帯びたアキレウス」

というカップリングを想像します。

・・・なんか、こう説明されると、一応その「はしっこ」ぐらいは理解できるような?

自分なら、「豪放磊落なアキレウス」と、「それを思う健気なパトロクロス」・・・の方が理解しやすいかなあ?とか一応考えました。

なんかこう説明されると、少年漫画的な世界観からも似たようなテーマは理解できそうで、これを読んで「なるほど」と自分でもイメージできた人も結構いるんじゃないでしょうか。

ただ、「BL」にハマらないタイプの人は、キャラクター同士の「関係性」そのものに魅力を感じているというより、そこに生まれた関係性が「チームとして何かを実現する」的な「現実的効果」の方に興味があるように思うんですよね。

「スラムダンク」の最後の方で、花道くんとルカワくんの間にパスが通って得点が入るのは、普段ライバル心から仲が悪い二人が「そのゲームに勝つ」という目的のために一致した行動を取ったことにカタルシスがあるんであって、その「関係性」に萌えているわけではない人が多いと思うんですけど。

でも一方でそこの「関係性」自体に「神事」的な魅力を感じる人もいて、その事自体をもっと純粋に深く楽しみたい・・・という人がその「関係性」自体を掘り出して無数の二次創作をやっていく世界になったりするのかなと。

3●「関係性妄想」の歴史的普遍性から見えてくるもの

「アキ×パト」「パト×アキ」論争については、上記で引用した部分以上にかなり詳細に「こういう色んな可能性があって」・・・みたいな説明をしてもらったんですけど、僕はちょっと途中から脳がついていかない感じがして、深入りはできなかったんですよね。

「攻めが積極的」とは限らず「受身的な攻め」「積極的な受け」が良いという流派もあって、それは「ヘタレ攻め」とか「オラオラ受け」とかいうジャンルで云々・・・みたいな微に入り細に入り色んな可能性を説明されるとほんと脳がついていかなかった(笑)

だから、こういう「関係性妄想」に適性がある人と、全然ない人がいる感じがするんですよね。

ただなんか、「古代ギリシャ人も熱中してた」っていうことから見えてくるのは、「こういう関係性妄想」がもたらす世界は人類史の中で結構重要な役割を持ってたんじゃないか?ということで

特に多神教世界には一神教世界ほどの「絶対性」を抽象的に取り出す志向が薄いので、逆にこういう「関係性」の中に「絶対性」を見出していくセンスが発達するのかなと思ったりします。

現代人は、結構「一神教世界的な価値観」に引っ張られがちなので、さっきのスラムダンクの例で言うと

「得点が入った事が重要なんであって花道とルカワの関係性とかどうでもいいだろ」

ということになりがちなんですけど(笑)

でも、そこで「関係性自体に”神事”を見いだす」感性の人たちもいて、そういう人たちが社会の潤滑剤的な役割を果たしてきてくれたのかな、と思ったりもする。

こういう「多神教的な豊穣さ」って、今の時代ほうっておくとどんどん迫害されがちなんで、そういう文化を意識的に守っていくことが大事だよなと思うところがあります。

4●「関係性妄想」は、「割れ鍋に綴じ蓋」的な救いをもたらす

こういう「関係性妄想」のカルチャーが分厚いと、個々人が「標準形の正しさ」に従う必要がなくなってくるんだと思うんですね。

一神教的世界観が行き過ぎると、「神の前の平等な個人」という既製品的な世界観が行き渡ってしまって、やりすぎると「個」の時点で「完成」した状態を求めたくなってしまう。

夫婦関係とか家族関係とか、その他あらゆる人間関係が「個」の時点で完成している事が求められるようになるというか、個のレベルでの潔癖的な「正しい振る舞い」をできるだけ人間が目指すべきだという方向性が極まっていってしまう。

一方で「関係性妄想」の文化が豊潤にあると、なんかこう「関係性」自体が「完成品」なんで、

「凸は凹とくっつけばいいじゃん」

みたいな余地が生まれる。

まさに「”人の間”と書いて人間!」みたいな話になってくる(笑)

むしろ「凸」に特性のある人が変に四角い形を目指さずにもっと「凸」になってったら、「凹」タイプの人がもっと「凹」になってってもいいじゃん?みたいな話になっていく。

要するに「個」の時点で真四角である必要がなくなることが、「割れ鍋に綴じ蓋」的な関係性を生み出す土壌になるはずなんですよね。

こういうのは、ある程度社会の周縁部で使えるリソースが少ない環境で生きている人にとっては切実な問題なんですよね。

生まれが良くて学歴と資本に守られている人は「個レベルで四角い完成品」を目指して生きたければそうすればいいけど、周縁部に向かうにつれてだんだんそういう「個の潔癖性」を目指す事自体の人工的な嘘くささが色々な無理をはらむようになっていってしまう。

だからこそ「多神教的な関係性妄想」の豊穣さを、無理解な「正しさ」の押し付けによって排除しないようにしていくことが、やはり人間社会にとって大事なことなんじゃないかと思います。

5●「萌え絵論争」の着地点のあるべき姿は

最近、本を書いて出版社とすり合わせる仕事に神経を使いすぎていて、ツイッターとかのSNSをあまり見れてなかったんですが、なんか「温泉むすめ」とかそういう「萌え絵論争」みたいなのって定期的に仁義なき戦いに発展してますよね。

こういうのの、「あるべき着地点」は、たとえば温泉地のありとあらゆる場所にああいう萌え絵が置かれるのは良くないよね・・・というぐらいならオタクさんも結構納得してるところがあると思うんですよね。

海外のインフルエンサーみたいな人が日本旅行してる動画とか見ると、「こんな宿が日本にあるのか」ってぐらい山奥の凄いハイソな高そうな温泉宿とか出てくること多いんですけど。

寡黙でプロっぽい板前さんとか、ニコヤカで控えめな旅館スタッフさんとかがいる静謐な世界・・・みたいなそういうオーセンティックな世界の中に、「萌え絵」的なものが入ってくるとそりゃミスマッチだろうなという感じがする。

一方でそういう「オーセンティックな日本像」って結構「こういうのが正しい存在です」的な序列が隅々に行き渡ってる事が前提の世界観みたいなところがあって、そういう「日本像」自体に現代日本人が結構窮屈さを感じているんですよね。

だから、そこで「温泉むすめ」的な存在がある事は、現代日本人の平等性・なんでもあり性を維持する装置として結構大事な役割を果たしてる感じがするんですよね。

それに、「静謐な金持ち宿」に来てる人から見ても、温泉地の中に「温泉むすめ」的な存在があること自体は結構「面白い見もの」ってところがあるはずで。

オバマ時代のアメリカのリベラルのバイブル的ミュージカルだった「ハミルトン」に、「金持ちが一番好きなのは貧乏人の生活を覗き見にくること」みたいな歌詞があって笑っちゃったんですけど、「静謐な高級宿」に泊まるタイプの人も、温泉地の中に「温泉むすめ」的なカルチャーの部分が存在してて、たまにフラッと覗き見に行けるぐらいの距離感があることはむしろ良いことであるはず。

だから、「日本における萌え絵の存在範囲」っていうのを、「適度なもの」にしたい・・・となった時の具体的イメージは、結構多くの日本人で共有されているものがあるように思うんですよね。

ただ、なんかこう「萌え絵という存在自体が許せない」みたいな強硬派の人が一方でいるので、萌え絵好きなひとも「少しでも譲ろうもんなら完全に排除しにきやがるだろう」みたいな警戒心があって全力で仁義なき戦いを続けることになってしまう。

今だって「温泉むすめ」が温泉地のありとあらゆる場所におかれまくってるわけでもないのに、「原理主義者」の人はその「端っこにおいてある程度のもの」がそこらじゅうにあるかのように焚き付けて糾弾しがちで、そのへんでまた余計なすれ違いが生まれているという話も聞きます。

そういうところで、

さっきのBLの世界が「正しさ」を超える「関係性妄想の余地」をもたらすものであるように、「萌え絵」も「正しさ」を超える「関係性妄想の余地」をもたらすものである

というような、結構「大上段な議論」を共有していって、「完全に相手の世界観ごと否定するようなのは文化帝国主義なのだ」みたいな論理を立ち上げていくことが大事だなと最近思います。

そうやって「相手の存在ごと否定する」ような極論はキチンと排除されるようになれば、「どの程度の萌え絵の普及が望ましいのか」はそれこそTPOに従って判断しましょうという感じになる。

秋葉原にはそういうのが溢れていてもいいが、高級温泉地ではちょっと端っこでいてください、みたいな細かい話は適宜自然にやっていけば良いことになる。

6●「動物化するポストモダン」をポジティブに読み直す

この話をもう少し「大きな話」につなげたいんですが、思想家の東浩紀さんの出世作に「動物化するポストモダン」っていう本がありますよね。

僕は大学時代の友人がああいう「ゼロ年代文芸時評論壇」の論客さんになった(福嶋亮大くん)んで、結構ああいうのを読んでいたんですよね。「まどマギ」は見たことないけど(最近やっとネトフリで見ました)、「まどマギ」について論評している文章なら数十個読んだみたいな(笑)

で、「動物化するポストモダン」の中で、

「オタクがストーリー全体をちゃんと理性的に理解するのでなく、”キャラクター萌え”的に消費すること」

が、「データベース消費」と呼ばれて結構批判的に論評されていたんですけど。

ただ、これは今となっては東さんご本人も考えを変えた部分があるかもと思うんですが、そういう「データベース消費」「キャラ萌え消費」みたいなのって、ある意味で結構先進的な行為な感じもするんですよね。

ちょっと人工知能のディープラーニングに近い感じがするというか、「猫の写真」を変に分析的に目があって耳があって・・・と取り込むんじゃなくて、「猫の画像」という”感じ”自体をそのまま無数に取り込んで、言語化以前のところで消費して分類解釈していくみたいなところが。

これは、ここ最近たとえばこの記事↓とかで書いてきたような、

隅々まで「言語的に設計」する韓流コンテンツと、「醸し出される」日本コンテンツの違い・・・みたいな話にも通じることなんですけどね。

作品を、その「作者の意図」とか「テーマ」とかで言語的にきっちり理解したい人からすると、「キャラ萌え」とか「関係性妄想」とか、ちょっと邪道すぎるように感じるんですよね。

でも「作者の意図」とか「テーマ」とかを言語的に突き詰めていくだけだと、結局「人工的な正しさ」の範囲から抜けられなくて、それだけを押し出していくとなんかこう非常に人間存在の一部しかすくい上げられないというか、窮屈な世界観になってしまいがちで。

そういう「狭義の理性万能主義の暴走」に対抗していく旗印を掲げていくことが、これからの日本の使命なのだ・・・っていう話も、以下の記事で書いた通りなんで。

そこで重要なのは、「動物化するポストモダン」的な世界観は、むしろ「狭義の理性万能主義の暴走」を超えるための「大事な試みなのだ」・・・という理解なんじゃないかと最近考えています。

7●「狭義の正しさで割り切れない部分」の「価値」をレペゼンしていく

「正しさだけじゃ息苦しいよね」という感じで「こういうのは悪いことだけど認めるべき」っていう論理じゃ足りないと思うんですね。

むしろ積極的に、ネオリベやポリコレ過剰といった「狭義の理性万能主義の暴走」が人類社会全体に分断を招いている今、こういう「動物化するポストモダン」的な部分から生まれる価値を、普通の社会に還元していくことが重要なのだ!という方向で主張していくべきなんじゃないかと。

「関係性妄想」にしろ「キャラ萌え」にしろ、そういうカルチャーが豊潤にあることで、単に「理屈で考えた正しさ」をストーリーに転換する世界観からは見えてこない可能性が生まれてくる。

「正しさ」を押し売りすると、確かに白人だけじゃなく黒人も出しましたよとか、主役の男女比を等分にしてLGBTのキャラも出しました、とかいう意味での「多様性」は増えるし、それはそれで意味があることだとは思いますが、ともすればその「ストーリー」の中で出てくるキャラクターは物凄く「判で押したよう」な固定された価値観になっていきがちなんで。

そういう「わけがわかるもの過剰」の世界を、「わけがわからないもの」を培養していった先でポロッと生まれるもので補完していけるのか・・・それが、これからの日本人の使命だと私は考えています。

要は「みんな違ってみんないい」を本気でやりきるために、「統一された一神教的な価値基準」を無意識に押し付けてしまいがちな現代グローバル人類社会のクセともちゃんと抗っていくことが大事なんだってことですね。

そのために必要な仕組み・・・みたいな話とか、少年ジャンプ編集部の凄さとか、呪術廻戦の話とかは、ぜひ上記リンク先の記事を読んでいただければと思います。

上記リンク記事でも書いたけど、「呪術廻戦ゼロ」の映画見てきてほんと良かったんですよね。

ふと、「呪術性」ってこれから凄い大事になってくるかもな・・・と思いました。

というのも、「ポリコレ過剰」がなぜ社会の分断を生むかというと、あれは「社会的に恵まれた立場の人が持ちがちな言語化過剰の世界観に全権を渡すべき」という運動なんですよね。

でもそういう風にやることは、「正しく生きる」ことが簡単にできる「恵まれた人」が、「正しく生きる」ことが難しい立場に生きている人達を迫害している構造・・・みたいな実質があったりするんで。

社会の中心部の人が勝手に人工的な「正しさ」をでっちあげすぎると、「正しく生きるためのリソース」が少ない周縁部では、それが成り立たない問題がある。

そこでこそ、「多神教的な芳醇さ」というか、「関係性妄想」とか「キャラ萌え」文化がもたらす「割れ鍋に綴じ蓋」的なカルチャーが、「個体レベルで四角く正しい存在でなくても凹凸があえばいい」という可能性をもたらす。

こういう「全体の構造」を生み出すときに、大事なのはこの「知的な個人」が「概念的思考だけを絶対化しない」という連関をいかに維持するか・・・という点で。

「言語化能力が高くない人」のぶんも、「言語化能力が高い人」がちゃんとレペゼンして代弁してやろうとする・・・というとき、そこにある不定形な関係性は、結構「呪術的」ななにかなのだ・・という風に言えるような気が最近しています。

そういう「多神教的な呪術性」がもたらす社会の周縁部での「割れ鍋に綴じ蓋」的な関係性を、一神教的な正しさ原理主義が押しつぶしてしまわないように気をつけることは、結果として、「差別をなくしましょう」とか「女性の社会進出を進めましょう」とかそういう細部の課題を、「恵まれた特権階級以外にも」本当に普及させるために必要なことなのだと私は考えています。

今回記事の無料部分はここまでです。長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。

ここから先は、ちょっと映画「呪術廻戦ゼロ」の話をもうちょっとします。

個人的に乙骨くんってちょっと苦手なキャラクターだったというか、「モテるヤツはいいよなあ」的な感じで(笑)、呪術廻戦ファンのうちの奥さんも「乙骨くんがあまり好きじゃないから映画は行くの微妙」と言ってたんで僕だけ映画行ってきたんですけど。

でもなんか映画見ると、ああいう悩める青年がちゃんと「決然とする」話っていいなあ・・・って凄い思ったというか、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」の碇シンジだけ決然としてて「シンジさん」って呼ばれてたけど、声優さんが同じこともあって「乙骨くん=シンジ”さん”」的な良さがあるなあ・・・と思ったみたいなアレコレの話から、

「引き受ける決然」という関係性こそが、「”個”しか存在しない世界観」を補完するためのカギとなるのだ・・・

みたいな話をします。

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