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偉大なリーダーが失われたことで、その後の歴史が変わったこと

かつて日本の内閣総理大臣に次のような人がいました。
「世界のなかでもプレゼンスが高まっているアメリカとの連携を重視し、かつ政情が不安定であった中国とも友好関係を築くことで、不安定な国際情勢のなかでも日本の安定を図ろうとしました。また、国内においても産業の振興や教育の高度化に努めました。」
この内容を読むと、「アメリカとの連携重視とかって、戦後の首相かな?」と思われる方も多いかもしれません。しかし、これは明治の終わりころから主要閣僚を担い、大正期には首相をつとめた原敬(1856年~1821年)のことなのです。
 
原敬といえば、日本史の教科書では、国会の多数派を占める政党が政権を担う「政党内閣」の初の首相だったと紹介されるだけのことが多いです。これはその通りなのですが、私はこれは原敬の偉業のほんの一面しか言ってないと思います。
原敬は、19世紀後半~20世紀始めの人ながら、20世紀後半~の世界を見すえたビジョンを示したビジョナリーなリーダーであり、かつそのビジョンを実現に向けて政権運営ができる政治家でもあったのです。
 
アメリカが実際に覇権国と言われるようになるのは第一次世界大戦(1914年~1918年)後ですが、原はその前からアメリカが世界のなかで地位を高めていくことを予測し、アメリカとの連携を強化しようとしました。そのためには、中国への過度な介入はマイナスにしかならないことも理解していました。
こうした方針は当初陸軍とも対立していましたが、陸軍内に味方を増やしたり、上手に陸軍との共通目標をつくることで、陸軍を掌握していきました。
原は1921年に65歳で暗殺されてしまうのですが、原があと20年生きていたなら、もしかしたら満州事変、日中戦争、太平洋戦争が避けられたかもしれず、悔やまれるところです。
ただ、戦前から世界の情勢を踏まえて的確なビジョンを描けるリーダーが日本にいたことは、日本人として記憶にとどめるべきだと思います。
 
また、「産業の振興や教育の高度化に努めました。」と書きましたが、当時は第一次世界大戦の影響もあり、重工業が発展していた時でした。この重工業化などの産業発展に対応するため、多くの学校を大学として正式に認めています。実はこの時から慶応大学や早稲田大学といった私学も大学として正式に認められたのです。このような教育の高度化が産業の振興を更に進めていきます。
 
写真は東京駅丸の内南口の改札近くにある、原敬襲撃を示したプレートです。このプレートを見るたびに、1921年11月4日に原敬が襲撃されなかったら、その後の日本はどのようになっていたのかと考えさせられます。偉大なリーダーが失われたことで、その後の歴史が大きく変わってしまったように感じます。

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