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「熱意」はどうやったら育つものか②

先日、「熱意」とは何かについて書いてみました。「熱意」とは、「なにかを犠牲にしてでも、否、命を懸けてでも成し遂げてやりたい」とまで思うような気持ちだと考えました。
 
そのうえで、どうやったら「熱意」が生まれるのか。そもそもそ「熱意」は育てられるものなのか?育てられるとして、誰がどのようにしたら育てられるのか。などについて考えてみたいです。
私は、日本史のなかで、師匠として多くの人材に熱意をもたせた人を一人あげるとするなら、幕末の吉田松陰(1830~1859年)をあげます。
 
吉田松陰は、アメリカに密航しようとして失敗したのち、長州に戻されたのち、実家に幽閉されます。このとき、叔父が開いていた松下村塾を引き継ぎ、多くの若者を育てました。そのなかから、幕末から明治にかけて時代を変える人材が多く出ました。
 
ある門下生は、京都御所の蛤御門で幕府と戦い、散りはしたものの、幕府との武力衝突を恐れなかったことが、倒幕への道を切り拓きました。久坂玄瑞という門下生でした。
また別の門下生は、長州藩が幕府に屈しそうな状況となったとき、下関の功山寺にてわずか70名でクーデターを起こし、長州藩を倒幕勢力に引き戻しました。クーデターは成功したものの、必死の決起は師匠が残した「死して不朽の見込みがあればいつでも死ぬべし。」を文字通り実践したものでした。高杉晋作という門下生でした。
 
この2人の門下生は明治維新までに亡くなりますが、明治維新までに残った門下生には、長州藩の出身ながら薩摩・長州の出身者の反発を恐れず、憲法を制定し、議会を開き、政党政治の道を切りひらいた人もいました。伊藤博文という門下生でした。
 
松下村塾で吉田松陰から学んだ門下生たちは、熱意をもつ、つまり「なにかを犠牲にしてでも、否、命を懸けてでも成し遂げてやりたい」と思うようなものがありました。それが時代を大きく変えていったのです。
 
それでは、吉田松陰は松下村塾でどんなことを教えていたのでしょうか。また長文になってしまったので、またその内容については次回もうすこし書いてみたいと思いますが、ポイントだけあげてみます。
・「至誠にして動かざる者は未だこれにあらざるなり」(誠の心を尽くして行動すれば、それに心を動かされる者はいない)といった孟子の教えを基本とした。
・門下生の討論を中心とすることで、自主性、自発性を育てようとした。
・日本だけではなく世界の歴史や情勢を学ぶことで、関心の幅を広げようとしていた。
・書物を読み、学ぶだけでなく、行動することに重きをおいた。
・一見すると門下生の短所と思える部分を活かすようにした。

上のような育て方がなぜ熱意を生みだすのかは、また次回考えてみたいと思います。

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