内定もらったので、禅修行しに行った
「就活が終わったら、頭の中をまっさらにしたい。」
昨年の12月から、慣れない自己表現を何度も求められる就活にもやもやして、そんなことを思うようになった。
自分はどんな人柄なのか...貴社のどんな部分に惹かれたのか...入社して将来どんな人になりたいか...
今までじっくりと考える時間のなかった、自分の人柄、過去、未来へ向き合っていく、就活で不可避の作業。
人から自分のことを聞いたり、自分で過去を紐づけることで出来上がった、まとまった「私」について、初対面の社会人の方々と面接でお話ししていく様は、面接の結果はどうであれ自分の一面に「お墨付き」を与えている感じがして、むず痒くも新鮮だった。
ただ、この「お墨付き」は、あくまでも「内定」のためのもの。
たとえ素直な言葉で作り上げた「お墨付きの『私』」であっても、その『私』だけで「私」を24時間365日運営し続けていく訳ではない。
もうちょっと「私」って、何というか、無様で雑多な気がする。
そしていつしか、社会人になるからこそ、「お墨付きの『私』」を、解きほぐしてまっさらにしておきたい、と思うようになった。
「まっさらに...空っぽに...なる方法.........瞑想.........座禅.........禅修行.......よし。寺...行くか。」
かつて駆け込み寺に至った人たちはこんな適当な連想ゲームでお寺へ行ったのだろうか、まあいいや。
と、いう訳で時は飛んで6月某日。
京都駅から30分の馬堀駅からさらに徒歩20分。
30度以上の炎天下、道場破りのごとく山道を登り、汗まみれの中、宝泉寺の門を叩いた。
ちなみに、宝泉寺で寺修行体験する者のことを寺内では入山者と呼ぶそうな。いかにも門前で「頼もう」と言ってる、それらしき人の肩書がついた瞬間。
朝からしっかり修行僧
禅修行の朝は早い。午前中から淡々と、数々のルーティンをこなしていく。
禅修行、それすなわち、お寺に住まわせて頂いている身としての生活を意味する。座禅や読経に限らず、お寺の構内掃除や境内のお手入れをする作務、配膳準備も日課の一部になっている。こなすことが多いので、何度も「あれ、次、どこで何するんだっけ?」と他の入山者の方と共にごっちゃになった。学年全体で行動する修学旅行のような集団による戸惑いがカムバック。
修行ど素人の体感をダイジェストでお送りすると、
そう、「足の痺れという名の煩悩」との闘いが常々存在する。極端にしびれると、足の感覚はここまで失われるのか、とむしろ感心してしまった。
足がピリピリの極致を迎えたまま起立して速やかに移動しなくてはならないドSな局面があるが、何とか割り切ろうと、心の中で林家パー子みたいなハイトーンのポップな悲鳴を上げ、力業の強行突破で立ち上がっていた。
午後にも、しっかりと心を静める時間がとられている。
4時間の自由時間に、座禅3セット。
座禅間の5分休憩は私語厳禁で、各々のが無言でストレッチや深呼吸を行っており、休みとは言えど身が引き締まる。
4時間の自由時間は外出OK、ということで、
仲良くなった入山者の方とトロッコに乗って嵐山観光をして、しれっと京都を満喫できた。
今まで関わらなかった人や場所、生活習慣。パラレルワールドかどこかに入り込んできたかのような、異質な生活を約5日間送った。
執着まみれの小娘が座禅をする
修行期間には、1回25分の座禅を朝2セット、夜3セット行う。
・・・そもそも座禅って、なんのためにするの?
入山前、とりあえずリセットするための手段として京都の山中のお寺に来たはいいけれど正直なところ座禅の目的はよくわからなかった。
そんなすっからかんのために、初日に和尚さんから座禅のやり方や考え方のレクチャーがあった。
自分のおつむで理解したのは、座禅の目的は「執着から逃れること」。
自分自身を含む万物は「ただ、ここに在るだけ」であることを受け入れる。
そのための手段が座禅、らしい。
これは「究極の俯瞰」だと思う。
我々は呼吸するように何かに執着して生きている。
だって就活は「職を得て自立して、経済的に安定した身であり続けたい」という一種の執着だし、修行の目的である「就活っぽい考え方をまっさらにしたい」というのも執着。
「こうでありたい」「こういう姿が望ましい」と思って皆修行に来たのだから、目的そのものが執着になっている。
何なら「執着=善くないもの」と思っている執着もここには存在しているし、何だかもう、執着まみれじゃん、と我ながら思う。
好きな漫画「ヴィンランド・サガ」に登場するアシェラッドが「人間はみんな何かの奴隷だ」と言っていたけど本当にそう。ここは古代アイスランドではないけれど、現代社会にも通用する言葉だと思う。例えば、「普通でありたい」という一般的に見える言葉の奥底には「めっちゃ昔の社会に属する人たちから我々も含めて創り続けた価値観の歴史」があって、それによって構成された、広辞苑にも載っていない「暗黙の『普通』」の奴隷なのが自分だと思ってしまう。
これでもかと蔓延る執着たちから逃れる手段、座禅。
では具体的にどうやってやるのか?
和尚さんがおっしゃるには「姿勢を正して、ただ呼吸に集中する」というシンプルな方法で心地よく座禅ができるそう。
ゆっくり吸って、ゆっくり吐いて。これを10数えるのを繰り返す。
本当に、シンプル。でも、これが中々難しい。
吸って「足ピリピリするなあ」、吐いて「—――――――――」
吸って「—――――――――」、吐いて「あと何分かなあ」
ずっと呼吸のみに集中し続けるのは至難の業。
でも、足は痺れどとても気持ちの良い時間が流れていた。
早朝の座禅は、鳥のさえずりや澄んだ空気に満たされて背筋がどこまでも伸びそうな心地だったし、
夕方の座禅は、次第に夜が深まっていく時間の流れが目や耳、肌を通して空気もろともに感じられて、体がまるごと静かな気配に溶け込んでいきそうだった。
執着まみれの奴隷なりに、ただそこに万物が流転しているのが、確かに感じられた。
パソコンやスマホ、電車のダイヤや大きな交差点の信号などの人為的に流転するそれらとは異なる、そこでしか得られない空気と感覚を享受している気がした。
修行生活を終えてみて
4泊5日の修行生活を終えてみると、見事に心も身体もピッカピカになった。いつもは、スマホの電子音とともに目覚め、のそのそと動画を見始めたり、全体的に締まりのない生活をしていた入山前。
「早寝早起き」・「1日3食」・「適度な日光浴」・「デジタルデトックス」・「座禅による精神統一」
今までの生活にはないヘルシー習慣により、冗談ではなく、悩んでいた内容をすっかり忘れてしまう瞬間もあった。単純でおめでたい人間バンザイ!
就活で凝り固まってしまった自分を解放することを目的に駆け込み寺をしてきたけれど、そもそも「解放すること」をただ善しとしてしまう、その考え方こそが執着であると知ってしまい、訳が分からなくなった修行生活の序盤。
そんな定まらないマインドを持った人に対して、宝泉寺は絶えず穏やかに流転しながらガキんちょ丸ごと受け入れて下さいました。
丁寧に呼吸をしながら諸行無常を感じた禅修行で、執着に捉われない超然とした精神が身についたかといえば、まだまだあまちゃん。
でも、執着がそんなに不健康な精神だとは思わなくなっていた。
「こうなりたい!」「こうでないといけない!」「○○=△△だ!」
こういった執着構文に苦しめられた自分がただそこに存在していたと同時に、別の場所へ行くために幾度となく背中を押された局面もあったことに気づいたからだ。
「執着」も、ただそこに在るだけ。「解放」も、ただそこに在るだけ。
どっちも自分の中にあるもので、あったらあったで強く否定しなくても良くて、「そっか、いるんか」ぐらいの気持ちでいればいいんだと思うようになった。どうせ自分の機嫌も考え方も流転するものだから、それを当たり前に在るものとして認識して共存していい。
就活中の自分も、今noteを書いている自分も同じ延長線上にいて、まっさらにしたいと思う以前に、同じさら地に立っていただなとすら感じる。
これもこれも自分だわ、そこに自分おるわ、そんな風に自己を認識することでなんだかふっと楽になった禅修行でした。
余談「お食事」
修行で苦労したのは足の痺れや禅のマインドセットだけではない。
食事のマナーが難しい。お椀を並べる順番、お箸を持つタイミング、食事を食べるスピード、ご飯を盛るときの作法、とにかくルールが多く、最初の2、3日はつねに常駐さんの手元を見ていた。
そして、ずっと正座が大変。食後に一斉に起立して階段を駆け上るのが大変。「ハッ」と力まないとと立てない。ゆえに、瞬間的な気合を入れるための精神的な筋肉みたいなものが鍛えられた。
結論:常駐の皆さん、すごい。精進料理は、とっても美味しい。
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