第8回 『表現規制』の問題点についての概要【論考】
始めに(注意書き)
はじめましての方ははじめまして。そうではない方はお世話になっております。吹井賢です。
コラム『吹井賢の斜に構えて』第8回は、衆議院選挙を前にして、共産党の方針転換とも取れる発表が話題となった、『表現規制』に関する問題について、お話ししたいと思います。
最初にお断りをば。
※吹井賢は表現の自由や表現規制の研究者ではありません。よって、的外れな見解があるかもしれません。
※以下の内容は、吹井賢の意見に過ぎません。ご了承ください。
それでは始めます。
『表現規制』とは何か
……このコラムを読みに来ている方で「表現規制問題」について知らない方はそうはいないと思いますが、簡単に説明すると、「特定の表現の規制を法制化しようとする問題」だと言えるでしょう。
例えば「性的な表現」「残酷な表現」とかですね。
最初に述べておくと、吹井賢は、表現規制に関して全面的に反対するという立場ではありません。
こう明言すると、「お前の書いている小説だって規制されるかもしれないんだぞ」的言動をしてくる方がいらっしゃるのですが(僕はされたことないですが、「自分の表現は規制されないと思っているから無関心でいられるんだ」とか、そういう発言を見掛けることはあります)、そんなことは百も承知です。
ただし、現在の表現規制の動きに関しては、明確に反対の立場を取ります。
理由は後述します。
では一般論として、「何故『表現規制』を容認してはいけないか」を述べていきましょう。
表現規制の問題点① 「コンテンツが死ぬ」
滅茶苦茶に雑に言いますと、世のオタク達が、どうして表現規制に反対するのか、あるいは反対しなければならないかは、以下の二つの理由からです。
一つ目、自分の好きなコンテンツを潰される可能性があるから。
例えば吹井賢は一応、ミステリ作家なわけですが、ミステリって、殺人事件を扱うことも多いですよね?
当然、暴力的な描写も、犯罪を行うシーンも多いわけです。
それを「子どもの健全な育成に悪影響なので」と規制されると、推理小説はほぼほぼ死にます。米澤穂信先生のように、その卓越した力量で日常の謎を描けるミステリ作家以外は、廃業するしかありません。
……これだけだと、「お前の趣味が好みがどうしたって言うんだ。子どもの為なんだ、我慢しなさい」と反論されるだけでしょうが、当たり前の話として、コンテンツが死ねば、その関係者も死にます。
先のミステリ作家の例のように、失業するわけです。
吹井賢は、日本に「グラビアアイドル」と呼ばれる方々がどれくらいいらっしゃるか寡聞にして存じ上げませんが、仮に「女性の水着姿は青少年の育成に悪影響なので法的に禁止する」となれば、当然、グラビアアイドルの皆さんは失業です。
ヤンジャンの表紙も漫画絵になることでしょう。
コンテンツが規制されるということは、コンテンツが死ぬということであり、それはコンテンツの関係者が失業する、ということでもあるのです。
表現規制は趣味や好みだけの問題ではありません。職業であり、生計の問題です。
この視点は忘れずにいて欲しいと思います。
表現規制の問題点② 「規制のエスカレート」
とは言え、世の中にはミステリを読まない人も多いでしょうし、グラドルなんて興味ない方もいらっしゃるでしょう。
そんな人であっても、表現規制に関しては、とりあえず慎重になった方が良いと思います。
というわけで、理由の二つ目。「権力者側に不都合な発言も規制できるようにエスカレートしていく恐れがあるから」。
子どもの為にエログロを規制します、を手始めに行い、それを実績として、拡大解釈と規制拡大を繰り返していけば、あっという間に言論統制が為されたディストピアの完成です。
政府、政権に対する批判的な意見は許されず、封殺される。
……封殺ならばまだ良い方で、投獄、殺害になるかもしれません。
これはやや極端な反論とも言えるでしょう。
この意見、吹井賢は「自衛隊を持つということは、日本は戦争するつもりなのだ」くらいの飛躍があると思っています。
軍隊を持たなければ戦争はできないので、そりゃ自衛隊の存在が軍国主義の一段目と言われればそうなのですが、軍隊を持つ国が全て侵略戦争をしているわけではありません。流石に論理の飛躍でしょう。
ただし、表現規制問題に関しては、あながち飛躍というわけでもないのです。
表現規制における『見張り』を、誰が見張るのか
僕の好きな映画に『ウォッチメン』という作品があり、それを象徴するフレーズが「But who will watch the watchmen?」――「しかし、誰が見張りを見張るのか?」です。
元々は古代ローマのフレーズらしいですが、それはおいて置きましょう。
……表現規制進んだら『ウォッチメン』とか間違いなく規制されるなあ、という僕の感想も置いておきましょう。(面白いんですが、残酷なシーンや悲惨な展開も多いので、閲覧ちょい注意です)
さて、「どうして表現規制に反対すべきなのか」の中核は、ここだと吹井賢は思っています。
即ちは「規制の根拠が恣意的過ぎる」(あるいは、そう思われても仕方がない状態になってしまっている)のです。
吹井賢は先ほどから、「子どもに悪影響」という旨の文言を使いましたが、「そもそも『子どもに悪影響を及ぼす』って誰がどうやって決めるの?」という問題がある。
表現規制が行われることになったとしましょう。
当然、表現の可否を判断する人間が必要です。一人では到底無理なので、現実的には組織になるでしょう。
その規制を行う人間(≒『見張り』)が、自分にとって不都合な作品を規制している可能性は、全くないでしょうか?
即ち、「表現規制が子どもにとって良いことだとして、しかし、誰が見張りを見張るのか?」なのです。
僕が現在の表現規制に関して反対の立場を取る理由は、まさに上に記した通りです。
様々な文書を読み、色んな方の意見を拝見しましたが、「規制の根拠が恣意的で、どうとでも解釈できる」というものがほとんどでした。
「この表現は子どもの育成に悪影響を与える」という具体的なデータがあればまだ理解できたのですが、吹井賢は寡聞にして知りません。
そもそも子どもの成長には無数のファクターが絡んでくるのだから、この表現のどうこう、と判断するのは、科学的に滅茶苦茶に難しいはずです。
『社会』なんて、究極の開放系ですからね。
だから、論をでっち上げればなんとでも言えるし、だからこそ、社会的な研究は精査されなければならない。
終わりに
実は、こんなことを書くつもりはなくて、「『表現規制問題』について論じる際に忘れてはならない根幹部分」について論じようと思っていたのですが、疲れたので今日はやめます。
色々言いましたが、所詮は吹井賢の意見に過ぎません。
正しい保証は何処にもないのです。
どうか自分で判断し、良ければ投票に行ってください。
(未成年の方は有権者である大人がどんな判断をするか、政治家がどんな動きをするか、観察し分析して、より良い大人になってください。)
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
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最後に宣伝!
ぶっちゃけ、『破滅の刑死者』の主人公はあまり良い奴ではないので、未成年の皆様は戻橋トウヤのような生き方はせず、反面教師にしてください。
『犯罪社会学者・椥辻霖雨の憂鬱』の椥辻霖雨は、それなりに良い大人だと思います。
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