第13回 『鏡のむこうの最果て図書館 光の勇者と偽りの魔王』感想【レビュー】

始めに(注意書き)

はじめましての方ははじめまして。そうではない方はいつもお世話になっております、吹井賢です。

コラム『吹井賢の斜に構えて』第13回は、僕こと吹井賢の同期でもある冬月いろり先生のデビュー作、『鏡のむこうの最果て図書館 光の勇者と偽りの魔王』のレビューです。第25回電撃小説大賞において銀賞を取った作品ですね。

最初にお断りをば。

※今回のコラムには『鏡のむこうの最果て図書館 光の勇者と偽りの魔王』のネタバレが含まれます。
※下記の内容は吹井賢の感想に過ぎません。
※なお、何故冬月先生の作品をレビューすることにしたかと言えば、深い理由はありません。
(「折角noteやってるんだし同期や先輩の本のレビューでもするか」と考え、本棚を見ていたら、この『最果て図書館』のカバーがフルグラフィックみたいな感じになっていて、目立っていたからです)

それでは始めます。


『鏡のむこうの最果て図書館 光の勇者と偽りの魔王』あらすじ

公式のあらすじは以下の通りです。

 空間が意思と魔力を持ち、様々な魔物が息づく世界・パライナの北端に、誰も訪れない《最果て図書館》はあった。
 記憶のない館長ウォレスは、鏡越しに《はじまりの町》の少女ルチアと出会い「勇者様の魔王討伐を手伝いたい」という彼女に知恵を貸すことに。
 中立を貫く図書館にあって魔王討伐はどこか他人事のウォレスだったが、自らの記憶がその鍵になると知り……
 臆病で優しすぎる少女。感情が欠落したメイド。意図せず世界を託された勇者。
 彼らとの絆を信じたウォレスもまた、決戦の地へと赴く――
 これは、人知れず世界を守った人々のどこか寂しく、どこまでも優しい【語り継がれることのないお伽噺】

電撃文庫HPより
https://dengekibunko.jp/product/saihate/321810000125.html

キャッチコピーはこうなっています。

これは勇者と魔王の決戦を陰で支えた人々の《誰にも語り継がれないお伽噺》

同HPより


そういったわけで、この『鏡のむこうの最果て図書館 光の勇者と偽りの魔王』は、ファンタジー小説と言えると思います。

『パライナ』という世界の最果てにある図書館、『最果て図書館』にて館長を務める青年・ウォレスが主人公の物語です。


吹井賢は割と、「主人公が勇者で世界を冒険する」みたいな、オーソドックスなファンタジーしか読んでいないので、この作品をはじめて読んだ時、「へー、面白い作りの物語だなー」と興味深く思っていたのですが……。

……改めて見ると、公式のあらすじで滅茶苦茶にネタバレされてますね。

あらすじにある通り、館長のウォレスは記憶がなく、その失った記憶が魔王討伐の鍵となり、最終的に勇者と魔王との決戦の地へと赴きます。


剣と魔法のファンタジーではありますが、派手な戦闘が繰り返されるライトノベルではありません。
そもそも主人公が図書館の館長ですし。

そういった作品なので、「穏やかな物語」「ほのぼのとした話」と評されることの多い本作ですが、所々にハッとさせられるような興味深いやり取りがあります。


例えば、ウォレスと最果て図書館のメイド・リィリのこんなやり取りです。

「はい。本はその場所にいながら、リィリを色んな場所に連れていってくれます。時間も《空間》も越えて。それに沢山の人の表面上の言葉と、声に出さない気持ちも。文字になれば、リィリには気持ちの移り変わりの原理は理解出来なくとも、その過程を教えてくれます」

『鏡のむこうの最果て図書館 光の勇者と偽りの魔王』p229より

このリィリの言葉は、”本”という概念の本質を捉えていると思います。
そうですよね、それが本の良さだと僕も思います。
しかし、この台詞に対するウォレスの返答が非常に鋭い。

「本に書いてあることが全てじゃないぞ。本に書かれた気持ちと感情と、あと本には書かれなかった感情も、少なからずあるんだ。行間も、本の一部だからな

前掲書・同pより
太字は筆者による

ここ、本当に凄いと思います。
「本に書かれない感情もある」までは吹井賢でも書けるでしょうが、「行間も、本の一部だからな」という言葉は僕からは絶対に出てきません。

それは吹井賢が『神様のメモ帳』が好きだから、という事情もあるのですが(言葉は想いを確かなものにするけれど、形にならなかった部分を殺す剣なんですよ)、やはり吹井賢は思い付かないでしょう。

そうなんですよね。
ウォレスの言ったことも”本”の本質なんです。
記されない想いもあるし、だからこそ、行間も本の一部なのです。

……何より凄いのは、この台詞が『鏡のむこうの最果て図書館』という作品の根幹部分を端的に表しており、尚且つ、終盤の展開の伏線になっている、ということ。エレガントですねえ。



総合評価(※ネタバレあり)

オススメ度:☆☆☆☆
お気に入り度:☆☆☆

今回紹介した『鏡のむこうの最果て図書館』のオススメ度は☆4、お気に入り度は☆3です。


オススメ度☆4の理由は、あとがきに「優しい物語が書きたいと思った」とあるのですが、その言葉通りに、優しい物語であるからです。
そしてその”優しさ”とは、冬月先生の言葉を借りれば、「砂糖漬けのように甘やかすのではなく、誰かが誰かに手を差し伸べるようなもの」であって、ただ甘いだけの優しさではないんですよね。

この作品を手に取る方は、恐らく、派手な冒険や戦闘を求めているわけではないでしょうから、そういった方々にとっては素直にオススメできる作品です。

文章も明瞭かつ柔らかで、物語の展開もあらすじでかなりネタバレされているものの、終盤の伏線回収が美しく、「なるほどなあ」と驚けると思います。
(最初のカラーのイラスト、「俺は、あの時とは違うぞ、魔王!」のシーンですけど、これ叙述トリックっぽくなってるの意図的なんですかね?)

また、先にも挙げたように、登場人物達の発言や心情の移り変わりも示唆に富んでおり、作者である冬月先生の見識の深さが伺えます。


『鏡のむこうの最果て図書館』という作品は、「人間(≒人の想いや過去)と場所(≒この作品で言うところの《空間》)」がテーマになっていると思います。

僕は実存主義……というよりも、「実存は本質に先立つ」という言葉が好きなのですが、作品冒頭のウォレスは「本質(≒”図書館の館長”という役割)が実存(≒現実に生きる彼の意識や思い)に先立っている状態」です。

冒頭、過去が分からず思い悩むウォレスに対し、本の魔物の一匹がこう言います。

「あんただって、図書館に、この《空間》に必要とされているからここにいる。存在意義としては、それで十分だと思うぜ?」

前掲書・p20

確かにそれで十分、という考え方もあるのでしょうが、ウォレスは納得しない。
人間だから納得できない。
それはあるいは、「本質が先立っている状態は人間として不自然だから」かもしれません。

しかし一方で、人間も部分的には本質が先立つ存在である。

実存主義は無神論に繋がっており、「実存は本質に先立つ」とは、「神(≒人間を創った存在)がいないのなら、”人間”という存在の本質や意味は無いってことになるよね?」ということなのですが、現実に考えれば、”人間”という種に本質や意味はないとしても、僕やあなたという個人には本質や意味があるはずなのです。
「本質」や「意味」だと分かりにくいので言い換えると、「環境」「歴史」「文化」――即ち、《空間》です。

良くも悪くも、両親がいるからこそ僕達は存在しており、誰かに育てられたからこそ、今も生きている。
そう、良くも悪くも、です。
生まれ育つ家庭や場所、つまりは《空間》を、僕達は全く選べないのですから。


サルトル云々の話はないですが、作中でも”共同体”や”籠”という言葉を使い、人間の不自由さについて触れています。

そう言いながら、ウォレスはルチアの言葉を思い出す。共同体で生きることも、時として息苦しくなると。自由ではないのだと。その通りなら、この世界に籠の外は存在しないことになる。全てが、籠の中の出来事だ。
だとしたらあの鳥は、本当に自由なのだろうか。

前掲書・p134~135
太字は筆者による

しかし、これは単なるペシミズムや虚無主義ではないのです。

かつての館長であるテオドラは、古巣である図書館を「離れれば少し寂しいもん」と言いつつ、同時に「勇者が話す外の世界を見てみたかったんだよ」と語る。
魔王を倒したウォレスは、最早、図書館の館長ではないのにも拘わらず、最果て図書館に戻ってくる。
そうして、「帰る場所があるのは悪くない」「籠の中の鳥も一緒に歌う友人がいれば満足してしまうものだ」と独白する。

どうしようもないくらい人間らしい、「”人間”と”場所”」の関係が非常に上手く描かれている


”ここではない何処か”に行くことを否定しないし、しかし、何処かに行ったからといって何かが変わると無条件で肯定するわけでもないし、そして、ここに戻ってくることも否定しない。

そういう意味で、『鏡のむこうの最果て図書館』は甘いだけではなく、けれども優しい物語だと思います。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。



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最後に宣伝!


この本で一番笑った台詞は「光の勇者は最後どうなると思う?」という問いに対してのリィリの回答、「この本が稗史なのならば、世界は滅んでいないのだから、勇者は世界を救って終わると思います」でした。
(そりゃそうだ、リィリは頭良いな)


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