第12回 私達が『碇シンジ』でないことは絶望なのか希望なのか(セカイ系と人のかけがえなさについて) 【論考】

始めに(注意書き)

はじめましての方ははじめまして。そうではない方はお世話になっております。吹井賢です。

コラム『吹井賢の斜に構えて』の第12回は、『エヴァンゲリオンシリーズ』の考察……ではなく「”かけがえのない存在”であることは幸福なのかどうか」についてです。
『碇シンジ』というキャラクター名を出したのは例に過ぎません。悪しからず。

最初にお断りをば。

※今回のコラムには『新世紀エヴァンゲリオン』『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』のネタバレが一部含まれます。他のアニメ・漫画作品のネタバレも含まれる可能性があります。
※本当に一部です。
※また、下記の内容は吹井賢の考察に過ぎません。ご了承ください。

それでは始めます。


『碇シンジ』とは?

流石にシンジ君こと『碇シンジ』を知らないオタクはいないと思いますが、と言いますか、知らない奴はいないと思ったので例に挙げたのですが、一応、彼の紹介を引用しておきます。
以下は公式サイトの紹介文です。

14歳。本編の主人公。EVA初号機に乗りこむ。内向的な少年で、使徒との戦いを通じて他人から認められたいと思っている(CV:緒方恵美)

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』HPより
https://www.evangelion.co.jp/1_0/chara.html


まあ、今更説明するまでもないことですが、『エヴァンゲリオン』という作品群は、基本的に「碇シンジがエヴァという兵器に乗り込み、襲い来る謎の存在である使徒と戦う」という設定です。

シンジ君は中学生なわけですが、どうして中学生が命懸けで人類存亡を賭けた戦いをしなければならないかと言うと、エヴァに乗れる奴があんまりいないからです。
まあ、ロボットアニメのお約束ですね。

こと『エヴァンゲリオン』に関しては背景に色々な事情や思惑があるのですが、それは今回、触れないでおきます。


『セカイ系』というジャンル

『新世紀エヴァンゲリオン』という作品は、所謂『セカイ系』のはしりともされていて、シンジ君の行動が誇張抜きに世界の命運や物語の結末に直結します。

言い忘れていましたが、今回、『セカイ系』という用語は、上述のような、「一個人(=主人公)の心情やその個人の周囲との関係性(ex.ヒロインとの関係)がダイレクトに世界全体へ影響を与えるような造りの作品」という風に定義して使用します。
無論、異論もあるでしょうが、今回はこれで行かせてください。


『エヴァンゲリオン』という作品がセカイ系としての要素を持つことは、恐らく理解頂けることでしょう。
……というよりも、『セカイ系』の源流は『エヴァ』か村上春樹かのどちらかなので、「『エヴァ』からセカイ系が生まれた」と言っても過言ではないと思います。


で、この『セカイ系』なんですが、批判が多いんですよね。

「自分の選択と世界の命運を結び付けるのは自己肥大化の極致である」とか、「社会の複雑性を意図的に排除しておりご都合主義的」とか、なんとか。

すごーく平易な言葉に言い換えると、
「一人の行動で世界が変わることはほぼほぼ在り得ない」し、「そのような状況を望む人間は自分に自信がないのだろう」「世界と等価であるほどにかけがえのない存在になりたいのだ」
的な感じです。


これらの批判が妥当かどうかは、今日は触れないでおきます。

今回のテーマは、『エヴァンゲリオン』やら『セカイ系』やらを前提にした上で、「”かけがえのない存在”であることは幸福なのかどうか」についてです。


”かけがえのない存在”にはなりたい、なりたいのだが……

吹井賢が『新世紀エヴァンゲリオン』を見たのは確か小学生の頃です。
旧劇場は中学生の頃だったかな。
直撃世代ではなく、まあ、たまたま見ただけです。面白かったし。


そして、中学生の時分の吹井賢は、中学生の頭で色々と考えたわけです。

色々と考えた結果、シンプルな結論に至りました――「絶対にシンジ君みたいな状況にはなりたくない」


そりゃそうでしょう。

自分の行動で世界の命運が決まるなんて責任が重過ぎる。
『かけがえのない存在』と言うと聞こえはいいが、基本的に『碇シンジ』は”碇シンジであること”を肯定されているわけではなく、”エヴァンゲリオン初号機パイロットであること”を重要視されているだけで、僕に言わせれば「世界の奴隷」です。

この場合の”世界”は、周囲の大人達であり、そうならざるを得ない環境を意味します。

他の作品でも、この感想は変わりませんでした。

例えばファンタジーですが、そりゃ勇者として持て囃されるのは気分が良いかもしれませんが、周囲が求め、賞賛しているのは”勇者としての主人公”でしかない

そんな人生、楽しいか?


人間は……と括ると主語が大き過ぎますが、多くの人々は「”かけがえのない存在”になりたい」という願いを持っていると思います。

しかしながら創作物においては、ややもすると、実存する人間ではなく与えられた役割が重視される
「実存は本質に先立つ」という有名な言葉がありますが、「周囲が決定した本質が実存する人間に優先する」というような状況に陥ってしまっている作品がある。


”かけがえのない存在”は、これ以上なく、不自由なのです。


「私達が『碇シンジ』でないことは絶望なのか希望なのか」という問いの意味

今回の記事のタイトルですが、こう言い換えられます。

「自分がいなくなったとしても世界が続いていくことは絶望か? それとも希望と捉えるか?」

「たとえばあたしを殺してみろ。安心しろ、それでも世界は何も動かないよ」とは、西尾維新著『戯言シリーズ』の哀川潤の名言ですが、自分の死、自分という存在がいなくなることが、世界に何も影響を与えないとしたら、あなたはどう思いますか?

……多分、これは創作者の中でも分かれるんじゃないかな。
そして、どう考えているかがそのまま作風に現れると思います。


……え? 吹井賢がどうか?


僕は、僕がいなくなったとしても、世界が続いていくとしたら、それは凄く幸福だと思います。

生きている間は、僕は僕として、好きに生きられる。
自分の役割や本質、生きている意味を、自分で決めることができる。

そして、僕がいない世界でも、僕が好きだった人やものが変わらず存在し続けているのなら、本当に嬉しく思います。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。


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最後に宣伝!


僕は……『犯罪社会学者・椥辻霖雨の憂鬱』第二巻の作者、吹井賢です!!

(ちなみに『エヴァ』を見てもう一つ抱いた感想があって、それは「子どもを大事にしない大人は嫌だ」ということで、その思想は吹井賢の作品に物凄く強く影響を与えています)


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