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2011年3月11日の、記憶の断片。

 ぼくの記憶もすこしずつかすれてきました。まだ文章を残せるいまのうちに、「あの日」のことを書き残しておくべきだとおもったのです。
 いうまでもないことですが、これは百パーセント個人のあいまいな記憶です。客観的な記述ではまったくありませんので、この点、よろしくおねがいします。

 ぼくは長く重篤な内分泌疾患にかかっていました。十数年前までこのことに気づかずにいて、この疾患が一因でせっかちで短気、怒りっぽく、そのかわりに精力旺盛で仕事はタフにこなしていました(※この疾患にかかるかたがみなこのような症状が出るわけではありません。あくまでもぼくの場合に過ぎませんので、どうかこの点はくれぐれもご留意ください)。
 これが運動機能にも影響し、いわゆる00年代にとくに足腰への負担が激しく重くなりました。ある正月、当時住んでいた山里で徒歩での初詣の帰り道、ぼくは左脚の激痛に襲われ、歩行困難になりました。休憩しても痛みは酷くなるばかり。ただ脂汗がにじむだけでした。
 重い腰部脊柱管狭窄症の始まりでした。

 2011年3月11日、ぼくは杖を突いて実弟と秋葉原にいました。激痛と歩行がきない=仕事がもうできないという連想から、ぼくは以前にもまして短気で怒りっぽくなり、大量の酒をあおり、周囲に当たり散らしていました。この日も弟はそんなぼくに激怒していましたが、それでも心やさしい彼は歩行に障害のあるぼくをおいて帰ろうとはしませんでした。
 いまでも感謝しています。

 午後2時46分。ぼくたちは二人とも古いタイプの電気通信系の昭和な「おたく」でしたので、共通の趣味として秋葉原ラジオデパートにいました。ここではさまざまなパーツやジャンク品を入手することができました。
 ぼくは電子工学、通信工学関係書を扱う、小さな専門書店で専門書を眺めていました。弟は、たしか金属シャーシの専門店の前に立っていたと思います。
 その瞬間、ぼくの視界がおおきくブレました。
 次の瞬間、本棚に収まっていた専門書が、そのまま並んだ形ですっと飛びだし、目のまえの空間に静止しました。いえ、そう見えたのです。
 ぼくはそれを見て、ぼんやりと(ああ、死んだな)とだけ思ったのでした。ほんの一瞬のことが、すべてスローモーションで見えていたのです。

 最初の揺れがおさまり、我にかえったぼくは腰を抜かしてしまった書店のおばあさんを手伝い、専門書を拾い上げました。弟はころがったシャーシを集めたようです。この専門書店は、震災からほどなくして閉店してしまいました。
 やがてぼくたちは秋葉原ラジオデパートを出ました。街頭では、メイド喫茶の客引きのメイドたちがただ茫然と空を見あげていました。ビル群から降ってくる割れたガラスの反射を見あげていたのでした。こう書くと、ずいぶん呑気に感じられるかも知れませんが、この時点ではぼくたちも街のひとびとも、何が起こったのかまったく気づいていなかったのです。
 弟が買いたいと言っていた工具を入手すべく別の専門店に行くと、すべての窓ガラスが割れ店内はめちゃくちゃでした。それでも工具は見ることができました。
 早めに引き上げようとJR秋葉原駅に向かったのですが、JRは早々に駅構内への入り口のシャッターを下ろし、入場を遮断しました。状況を考えてのことなのはわかりますが、そうであれば状況アナウンスもおおきく的確に行うべきでした。

 脚が不自由なぼくに、いったいどうしろというのでしょう。

 仕方なくぼくは弟のサポートを受けながら飲食店に入り、ビールを飲みました。ある程度落ち着けば帰ることができるだろうと、ぼくはまだ思っていました。ジョッキのおかわりをして、ぼくは常時携行していたハンディなアマチュア無線機を取り出しました。昭和なぼくには、アマチュア無線は小学生のころからの趣味だったのです。
 おもむろにいくつかの周波数の無線を傍受しました。その内容を書くことは、電波法に抵触しますのでここでは書けませんが、これによってようやくぼくは「大きめの地震」ではすまないことが起こっていることを知ったのです。とはいえ、東北で何が起きているかはまだ気づいておらず、関東圏の被害についてだったのですが。

 働きに出ているパートナーとはまったく連絡が取れませんでした。

 ぼくは杖をついてもどかしく秋葉原を放浪しました。弟はぼくを放り出して単独で帰宅できたはずですが、付き添ってくれたのでした。何件か空いている居酒屋などをはしごして駅が開くのを待ちましたが、開かず。移動できるお店も少なくなり、遅い時間まで開いていたメイド喫茶に入ってみました。営業しているというよりも、帰宅できないメイドとお客さんのために開けているような形で、女性陣も私服に着替え、情報を得ようとテレビを見ていました。ここで断片的ながらも情報を得て、夜を過ごすことになりました。
 日付がかわり、午前3時ごろに都営新宿線が新宿方面へ一度だけ運行するという情報が入りました。杖を突きながら暗い道を地下鉄駅へ。情報通りやってきた車両で新宿に移動することができました。

 新宿駅周辺は、帰宅できない人々であふれていました。通路や階段に座り込むサラリーマンも多かった気がします。
 空腹を覚えてコンビニを見てみても、もちろん何もありません。まだ残っていた缶ビールを数本買って飲みました。とにかく、ぼくは痛みと鬱状態からほんとうのアルコール中毒におぼれていたのです。
 ふらふらと新宿地下街を杖を突きながら酔って歩いていくと、一軒の飲食店が開きました。ごはんと味噌汁しかないけど、とのことでしたが、ほんとうにありがたくいただきました。このお店も、いまはもうありません。
 地上へ出るともう明るい。ぼくは当時高尾方面に住んでいましたから、この脚で甲州街道を歩いての帰宅は絶望的です。ただ飲んで時間をやり過ごすことしかできないように思いました。
 そのとき、ウソのような話ですが、目の前に空車のタクシーが通りがかったのです。弟が必死で停めてくれ、ぼくたちは乗車することができました。
 なんだか、小さな奇跡のような出来事でした。
 弟を都内でおろし、ぼくはそのまま甲州街道を山のほうへずうっと走ってもらいました。車中の記憶はありません。酒と睡眠不足で眠っていたのだろうとおもいます。

 帰宅しました。家の中は本棚から書籍がおちて散乱するなどしていましたが、酷い被害はありません。パートナーの姿はなかったものの、仕事場と電話が通じ、仕事場で夜を明かし無事だと確認できました。

 テレビをつけました。
 ここでようやく東北の被害の状況がこまかく見え始めたのです。

 このとき、福島第一原子力発電所では不可逆な重大事故が進行していました。午後3時36分、一号機建屋で水素爆発。ぼくはぼうぜんとしました。すべてが終わった、そう思ったのです。

 このあと、個人的にぼくは福島と関わるようになります。とはいっても、90年代に何度も仕事をした福島市内で知り合った知人を通じてなのですが。計画停電の中、大学レベルの放射線の教科書をろうそくの灯りで携帯を通じて読み上げて伝えたりもしました。時をおいて何度か福島にも行き、浪江町にもおじゃましてきました。
 でも、これはまた別の物語。いつか違う形で残すつもりです。

(※トップの画像は、避難指示が解除された2017年の浪江町請戸地区の写真です。時が止まっていました)

追記:取るに足らない記憶の断片を最後までお読みいただき、ほんとうにありがとうございます。ひとつお願いがあります。もしも可能でしたら、この日なにをしていたか書き残してみていただけないでしょうか。noteでなくとも、非公表でもいいとおもいます。それぞれのちいさな記憶が重なりあって、ほんとうの意味での歴史が残っていくのだと思っております。


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