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サラサーテが何か話してる


今年は夏が長すぎたせいか、私の家の前では12月も2週目だというのにやっと黄葉が道を覆っている。
また落葉の黄色もよく見ると発色が良く艶のある葉っぱで、枯れて落ちたというより、熟れて落ちた感じである。

裸になった木から青空を覗くと、金色に照った葉が可愛くふるえていて、生命力というのを感じる。

毎日、深夜残業を繰り返し、目の奥とこめかみあたりに熱を感じつつ、冬の夜道で冷やそうと帰路につく。しかし家に帰ったら熱は痛みに変わっただけで、翌朝目覚めてもそれは消えていない。
朝、目が覚めると体が鉛のように重い。ベッドに沈んだ体が、ベッドを切り裂き、床を突き破り、地面を掘り進んで、地の底までどこまでも沈んでいくような、そんな重さ。

朝起きると顎が疲れている。これはおそらく夜中に歯ぎしりでもしているのだろう。なにをそんなに食いしばって我慢することがあるのだろうか。「世知辛い」と言うのは簡単で、そんな言葉を呑み込んでぐっと耐える夜には、歯ぎしりのひとつくらい聞こえてくるというものだ。言葉は呑み込むものか吐き出すものか、よくわからないけれど、夜中の暗い部屋でひとり眠っている時くらい言葉を解放したい。寝言はだから良いものである。

「眠気」というのは、何か物質的な塊で、目の奥と胸あたりに存在しているのではないかと思う。「眠い」とは、その塊が麻薬的に効用し、私たちの血液を巡って現れる身体的反応で、最終的にはそのまま人を眠りに落とす。「眠気」を取り除く手術でもあればいいのに。医学はまだまだ発展途上だ。

「暇」というのがよくわからない。加えて「忙しい」というのもよくわからない。「暇だ」「忙しい」と言葉にすると途端にわからなくなってしまう。言葉にした瞬間、それらは空中をふわふわと浮遊して壁や天井にスッと消えてしまう。「暇」とか「忙しい」と思いながら物事に取組むことが本当にあるだろうか? 「暇」も「忙しい」も思った時点でそれは集中力の欠如で、言葉にした時点で意味を失う。そんなものだと思うが、どうだろうか。

物心ついて初めての記憶は「悲しい」に近い。いちばん始めの記憶は、ぼやけていて、暗いイメージだ。私の場合、小さい頃の記憶で思い出されるのはほとんど良いものではない。いくら努めてみても楽しい思い出がほとんど出てこない。
同じ保育園で育った太朗の家に遊びに行ったことや、祖父とキャッチボールや将棋を指したこと、祖母と散歩したこと。楽しかった思い出はこの程度だろうか。どれも大切な思い出だが、数が少ないのではないか。努力すればもっとたくさんあると思いたい。

暗くてどんよりとした記憶ならいくらでも挙げられる。熱にうなされている時は決まって、そんな暗い過去がまぶたの裏をフラッシュバックする。

もしかすると、嫌な記憶は忘れにくいという傾向があるのかもしれない。けれど、仄聞そくぶんするところ、人間の脳の構造的に嫌な記憶は忘れやすくなっているらしい。

では私の場合、嫌な記憶は脳に保存されず、瞼に保存されているのかもしれない。あるいは腹の辺りか、腹でなければ、膝とか、右足の親指とか、まぁどこでもいいが、とにかく脳ではないどこかに保存されているのだろう。

ところで、悲しいも楽しいも同じ快楽ならば、私は悲しい快楽に溺れたい。なぜ急にそんなことを思ったのかよくわからないが、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」を聴いていたからかもしれない。
とにかく私は、幼い頃から、楽しいことよりも、悲しいことに真剣だった。けれどそれはみんなもそうなのではないか。なにも私ひとりが悲劇の主人公を気取ってるわけではないはずだ。



こめかみの奥が痛む。ジンジンと痛む。夜になると痛みが増す。
明朝、落葉した黄葉はまだ道を覆っているだろうか。朝日に照った黄葉は可愛くふるえているだろうか。そんなことを楽しみにして眠りにつく。そうすれば、こめかみの痛みも和らいで、歯ぎしりの音でなく、日々のちょっとした愚痴が寝言となって私の部屋を壁から壁へと伝うかもしれない。そんな阿呆みたいな妄想をしながら、本当に眠りにつく。今日は体がいっそう重い。



ではまた。


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