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「死」とは何かについて少し考えてみる

 昨年8月、親戚の方がこの世を去った。まだ50代前半だった。父と同じか、それくらいだった。小さい頃から私を可愛がってくれて、それだけに報せを受けた時に呆然とした。

 正確な死因は聞かされていないが、前々から、その方の体調があまりよろしくないとは聞いていた。頻繁に母や祖母が病院や家に趣き、様子を見に行っていた。もう3,4年前になるだろうか。元気な方だったから、まだ大丈夫だろう、と思っていた。

 実を言えば、その方の病気が重くなってから、私は一度も顔を見せていない。ちょうど受験期と重なり、お前はそっちに専念しろと言われていた。それが終わると、進学のために今度は地元から京都へ引っ越した。

 そして8月、お盆の時期に私は帰省していた。今思うととても悔やまれるのだが、私はその方の顔を見に行くという選択をしなかった。まだ大丈夫だろうと思っていた。同時に、大丈夫だろうか、という不安もあったのだけど、時間も限られており、京都に戻った。

 帰って4,5日後だったと思う。その日の昼間が家におらず、家に帰ると、ちょうど妹から着信があった。嫌な胸騒ぎを覚えつつ、電話を取ると、案の定というか、そこには泣いている妹の声があった。

「兄ちゃん、あのね、〇〇さんがね、亡くなったの...」

 やはりそうだったか。ある程度の覚悟をしていたつもりだったが、しばらくの間放心状態になった。妹の話では、葬式があるから、自分と母親と一緒に戻って来てくれとのことだった。

 そんなわけですぐさま地元に戻った。前述した通り、私は病気になって以後のその方の姿を見ていない。だから、元気な頃の姿しか覚えていないのだ。それも数年前の。

 だから、今にでもいつもの笑顔で起き上がってくれるんじゃないかと密かに願っていた。そんなわけないのに。

 遺影は、以前の明るいままの姿だった。

 ここでタイトルに戻ろう。「死」とは何か、である。別に、深い議論をするわけではなくて、ただの個人的な感覚なので、それは違う、とか言われても困る。あくまで私の思いを綴らせてほしい。それから、私は何かの宗教の信者ではない。だから、宗教観を絡めて論ずることはしない。つもりだ。無意識で何かの宗教観が入っていたら申し訳ないです。後、この投稿で答えが出るとは思えないです。考えてみる、がタイトルですので。

 人間はいつか必ず死ぬ。これはまぎれもない事実だ。聖書には900歳程まで生きた人間が登場するが、それでも死ぬことに変わりはない。「時の流れ」と「死」は全ての人間に平等に与えられたものだと思う。「死」そのものは平等なのだ。これは間違いない。けれど、これが訪れるタイミングというのは全くもって不平等だろう。例えば親戚の方の話でいけば、まだ50代である。人生これからだという時期だ。これからもっと楽しいことだってあるはずだ。

 10数年前、飲酒運転によって幼い3人の命が奪われた事故を覚えていらっしゃるだろうか。あれだってそうだ。まだこれから、楽しいことを実感するであろうその一歩手前である。まだその時私は小学生だったと思うが、小学生ながらにショッキングであった。祖父母の家でそのニュースを見たことを、つい先日のように思い出せる。あの日の夕方のメニューはうどんだった。

 私は事件や事故、あるいは自然死といった出来事の善し悪しを述べたいわけではない。そのことを先に断っておく。

 これもそうではないだろうか。死が訪れるタイミングは人それぞれだ。勿論、死に至る要因というものは存在する。それをもっと大きな枠組みで見た時、タイミングが合致してしまった、と。そして、「死」に至った時、その人がどんな状況だったかで世の中の見方は変化するように思える。

 例えば、上記で取り上げた2つのケースだと、おそらく「まだ若いのに...」となることだろう。私もそう思う。これは間違いない。事実私も、事故の件を聞いた時には「まだ僕よりも幼いのに...」となったし、親戚の方の時は「まだお父さんと同じくらいの年なのに...」となった。この時私は自分や身近な人との比較で、相対的なものの見方をしていたが、世間一般で見てもそう捉えられるのではないかと思う。これは年齢という時間の経過ないし流れで「死」を捉えている。もっと例を挙げれば、小説『虐殺器官』や『ハーモニー』の作者である伊藤計劃氏は夭折した天才作家として知られている。私も初めて彼の作品を読んだ時、もっと読みたいと思ったのだが、彼はもうすでに亡くなっていると知って愕然とした。もう亡くなられていて、新作を読むことは叶わないのか、と。若くして亡くなり、その後高く評価された彼だが、やはりそこには早過ぎる「死」が付き纏う。

 「死」とは何か。これを知るには死ななければわからないのだろうか。究極的には、そうなのであろう。体験することが一番だ。しかし、そう易々と死ぬわけにはいかない。勿論私だって今すぐ死にたいだなんて思ったことは一度もない。けれど、どうしても私たちは生きている内に死について考える。小さい頃、死ぬ事と手術が怖かった。お腹が痛くなったり、インフルエンザに罹ると死ぬんじゃないかと思ったりした。医学は進歩している。それで、そうそう死んではたまったものではない。

 ちょっとズレるが、テレビでアルツハイマーの特集をしていて、それを見終わった後、2日前の夕食が思い出せなくて、母親に泣きついたことがあるらしい。それくらい病気が怖かったようだ。

 話を元に戻そう。人は死ぬと、どうなるのだろうか。その場から意識が途絶える?話が出来なくなる?それであれば脳死状態と言われる人だったりは死んでいるのだろうか?そんな訳はない(ということにしておく。脳死は事実上の死だとかいう議論もありそうだが、ここでは脳死状態は生きているということにしておきたい)。もっと言えば、寝ている人は死んでいるのか?寝ている人には意識はないだろうし、話も出来ない。(大声で話しかけるとかいうのは別にして。それは最早起きていると言っていい)死ぬの定義付けが出来ないなら、生きるとは何だろうか?とまたまた答えに窮する命題が挙がってくる。

 死ぬとどうなるか。お葬式を思い出してほしい。まずご遺体がある。ご遺体は目を開けるだろうか。突然起きだして話し出す、という怪談じみた話を除けば、目を開けることがなければ、起き出すこともない。寝返りなんてうたないだろう。運動機能が停止していると考えていい。次に、話せるだろうか。これも無理だ。それこそ怪談だ。意思の疎通は?図れないだろう。外からどれだけ呼びかけても応答出来なくなる 、これが死ぬということだろうか。私がぼんやりと描いている「死んだらどうなるのか」はこの状態である。これは身体的な面である。

 では精神面はどうなのだろうか?無責任な話だが、こればっかりはわかりようがない。なんせ死んだ事がないのだ。仮に死んだとして、どうやって現世に伝えられるだろうか。だからこう言うしかないのだが、精神的なことは私にはわからない。

 肉体的な死とは何かだけの手がかりで死そのものを捉えることなんて出来るとは思えない。けれど、死とは現象であり概念であるのではないかとも思う。同時に生というのもまた現象であり概念ではないか。結局はコインの裏表のような、はたまた太陽が沈んだら月が出るような、そういうものではないのだろうか。

 申し訳ないが、どちらが月で、どちらが太陽なのかはわからない。生きる事は総じて善であるのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だから死ぬ事が押し並べて悪であるとも私たちには言えないのではないだろうか。

 それでも、やはり私たちは生きていたいと思う。死んだ後に何があるのかなんて私たちが現状知る術はない。ひょっとしたらその先にはいい事があるかもしれないし、ないかもしれない。知りようがないのだ。だったらやはり生き続けるしかないし、現世で何かをやり続けるしかない。今生きている世界で精一杯動き続けて、色んなものを見て、その後に向こうへ行っても良いのかもしれない。

 結局何が言いたかったのかよくわからないまま書き終わりそうだ。死が訪れるタイミングは人それぞれだ。こればっかりは人間にはわからない。けれど、唯一わかるのは、死は人間に平等にやってくることだ。死に逆らおうとするのではなく、成されるがままに死に行くことが良いのかはわからない。死に行く時間を延ばす延命治療が良いことなのか、それもわからない。

 「死」について総括したい。結局死とは人間の、というより全ての生きとし生けるものに平等に訪れるある種の区切りであるのではないか。と、普通に考えたらすごく当たり前な結論が出てしまった。私は自分で考えを深めたくてこの記事を書いてみたわけだが、考えが浅かった。3000字以上書いてある種の区切りだという普遍的なことしか浮かばなかった。

 取り敢えず、もっと生きてみてからこれについて考えてみても良いかもしれない。50年後の私がこの記事を編集したりしたら面白いんじゃなかろうかということで、この記事を締めたいと思う。私の身の上話ばっかりになってしまった。ここまで読んでくださってありがとうございました。

 

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