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〈プラハ〉というバイオリンを奏でる時

 1938年――ミュンヘン会談が行なわれる数か月前――、ある一冊の本がプラハの書店の店頭に並ぶ。詩人ヴィーチェスラフ・ネズヴァル(1900‐1958)による『プラハを歩く人』である。同年3月にみずからが立ちあげたチェコスロヴァキアにおけるシュルレアリスト・グループの解散を一方的に宣言した後ということもあり、都市プラハにオマージュを捧げる同書にはシュルレアリスムに対する言及はほとんどない。それに代わってネズヴァルが用いるのが「新しい感性」という言葉である。詩人は、プラハをバイオリンに喩え、「新しい感性」とは都市の弦を爪弾いては響く音に耳を澄ませるように促すものだと述べる。そして「新しい感性」が生まれるやいなや、ありとあらゆるものに「新しい意味」が宿るという。
 あらためて強調するまでもないが、シュルレアリスムは都市で生まれた。都市空間の猥雑さがもたらす混沌と偶然がなければ、アラゴンの『パリの農夫』、ブルトンの『ナジャ』といった作品は生まれなかっただろう。かれらは街を歩き、いや遊歩し、さまざまな人や物に遭遇し、そこに「新しい意味」を見出したのだ。詩人ネズヴァルもまたかれらの精神を継承した人物のひとりだった。だがモラヴィアの農村生まれのネズヴァルにとって、プラハは初めから愛すべき対象であったわけではない。詩集『雨の指をしたプラハ』(1930)所収の「プラハを歩く人」は、次のように始まっている。「どこにも導かれることのない/階段を昇り 下りる/君は名もなき眩暈を何度呼び出したのか//1920年4月のある日 私は初めてプラハにやってきた/灰のように悲しい駅で滅入った人々が身を寄せ合っている/移住者たち/そこで けっして理解できないであろう世界を初めて目にした」。匿名の人びとが住まう場である都市は新参者をすぐに歓待することはなく、都市にやって来た者もまた行くべき道を知らず、街路を彷徨することとなる。

 そうやって昼も夜も歩いた
 言葉に表せないほど落胆して
 すべてが見知らぬものだった それを想い出そうと思わない
 ある日
 その想い出に遭遇する
 それは友というもの
 友は私を傘に入れてくれる
 私たちは部屋に坐る ピアノが演奏されている ようやく私はプラハを愛することができた

 不安感が愛情へと変わっていく様子を綴る詩人の眼差しは純朴でもあるが、未知なるものが既知なるものに変わることで、感情の変化が生じている。つまり、そこに「新しい意味」が息づいている。プラハを歩く詩人の伝統は、ネズヴァルに始まったものではない。ネズヴァルにとっての先人はギョーム・アポリネールである。1902年、プラハを訪れたアポリネールはその時の体験をもとに短篇「プラハを歩く人」(邦訳は「プラーグで出逢った男」、『異端教祖株式会社』所収)を記す。パリからやってきた主人公が、世紀初頭のプラハの街角である老人と出逢うが、その老人は永遠のユダヤ人、アハスヴェルスであり、プラハの町を共に歩きながら、古層の世界へパリからの客人を誘うという物語である。プラハの中心部旧市街に隣接するユダヤ人街は1895年に始まった衛生化措置により、その大半が取り壊され、近代化という波が明確な形をとってプラハの街を席巻していた。一方、そこはユダヤ系の人びとが古来住む場所でもあり、『ゴーレム』など、幾多もの伝説が生まれた場所でもあった。アポリネールはそのような古層に潜む世界をユダヤ人との出会いを通して描いていくが、ネズヴァルもまた、同詩集のなかで「ユダヤ人街の時計」という詩を寄せている。

 プシーコピでは 競輪選手が死神を追い越すように
 時間が駆けているというのに
 君は 針が反対回りに進むユダヤ人街の時計のようだ
 もし死神に出会おうものなら 私は六歳の少年として死ぬのだろう

 プラハの目抜き通りプシーコピの喧騒とユダヤ人街の静寂を対比しつつ、話題となるのはユダヤの市庁舎の時計である。ヘブライ語の文字は右から左へ綴るため、時計の針も左回り、つまり反時計回りで動いていく。ネズヴァルは、その針の動きを逆行する時間に喩え、近代的な速度の時代と対比している。同誌集では、ユダヤ人街のみならず、「カレル橋」、「フラッチャヌィ」といった具体的な場所だけではなく、「街灯」、「バルコニー」といった日常的な場も取り上げられている。画家トワイヤンに捧げられた詩篇「幽霊」は、都市の不穏な一風景を切り取っている。

  二.
 葉巻を見つけた男は
 誰も住んでいない建物の階段を昇る
 火事で廃墟となった二階には
 マッチ棒が何本か散乱している
 ゆっくりと葉巻をくゆらせ眠りに落ち
 目を覚ますと
 血塗られた大きな太陽が階段に入り込んできた

 葉巻に灯った火、住居を襲った炎、そして朝焼けの太陽のイメージが多層的に重なり、生気のない廃墟に活力に満ちた日光が差し込む風景は躍動的であると同時に幻想的ですらある。このようにネズヴァルの詩は「現実」という痕跡をどこかに残しつつ、そこに異なる層の語彙を組み合わせ、その「現実」の見え方を多層化させていく。ネズヴァルのそのような姿勢は、『プラハを歩く人』でも継承されているほか、インジフ・シュティルスキーの写真作品でも同様な傾向が見られる。
 詩人ペトル・クラール(1941-2020)は、チェコのシュルレアリスムは「昼」のシュルレアリスムだと述べている。つまり、夢や下意識といった「夜」の極面よりも、「日常」に対する意識が強く、それを驚嘆すべきかたちで検討しているからだという。プラハにおいてシュルレアリスム以前に、「日常にポエジーを!」と訴えるポエティスムという運動体があったことも関係しているだろう。だがなによりも、現実のなかで「驚異」が見出される格好の場が都市にほかならなかった。
 クラールもまた、アポリネール、ネズヴァルといったプラハの散策者の系譜に連なる詩人である。クラールは、チェコ・シュルレアリスムの第三世代に属し、1968年にパリに渡ってからは『チェコスロヴァキアにおけるシュルレアリスム』(1983)というアンソロジーをガリマール社から刊行したほか、フランス語でも、チェコ語でも執筆をする詩人、エッセイストとして知られている。かれもまた、百塔の都を題材にしたエッセイ『プラハ』を執筆している(同書はまず1987年にフランス語版が刊行され、加筆されたチェコ語版が2000年に刊行されている)。かれの視座として特徴的であるのが、亡命者という眼差しであり、それゆえ、かれがプラハを語るとき、つねに「追憶」というフィルターを通すこととなる。

「わたしたちが眠りに落ちる時、地平線上に浮かぶ、あの都市は移ろいゆく。見たことのない路面電車が坂道をくだろうと不意にブレーキをかけると、ナイフが研磨機にプレスされたかのような金属音が暗闇を突き抜け、車道の喧騒のはるか上方まで吊るされる。しばしの間、音は宙にとどまる。あたかもよい星まわりに恵まれなかったことを告発するかのように。プラハすべてが、金属と石が発するうめき声のなかに内包されているかのようだ。石は都市を吸収し、あるべき姿の都市を宣告する。路面電車の軋む音が消えると、いにしえのメトロポリスが記憶の奥底から帆を放ち、わたしたちの方へ近づいてくる。軋む音はわたしたちを取り囲むよりも一足早く、夜の帳が下ろされる都市の地平を赤い線で際立たせていた。」[ペトル・クラール『プラハ』拙訳、成文社、2006年、9ページ]

 遊歩者の詩人クラールはプラハを追想するだけではない。パリ、ヴェネツィア、アーセナルといった町を歩き、エッセイを発表しているが、おそらく都市を歩く者としての基本的な眼差しが集約されているのが『基本概念』(2002)だろう。これは「朝食」「コーヒー」「ホテル」「市場」といった日常の題材を数行から数ページにまとめた都市のエッセイ集である。例えば、「街の時計」という項目はこう始まる。「交差点で四方に行き交う人びとの頭上で、ふっと現れる時計。そういう時計に遭遇できない街は、どこか物足りなく感じることだろう」。落ち着き払った文字盤とせかせか動く二本の針を対比したうえで、こう続ける。

「数多くある――とりわけ南方の――都市の空間が真の意味で開かれるのは、曲がり角ごとに、なにか別のもの、異なる時間、異なる季節を示す時計が立っているときだ。だが、時計のある場所や地区、そこにしかない喧騒とリズムに馴染んでいないわけではない。ブリュッセルのとある地区の小さな役所の時計は典型的だが、長年にわたって、十二時を指したまま針が重なり合っている、けれども、それは、他のものをすべて受け入れてくれる〇時を意味してもいるのだ。」

 街の日常風景に潜む「別」の世界を浮かび上がらせるクラールが描くのは、もはやプラハという特定の街に限られない。それは、視点を変えると、どの町であっても、どのような日常風景であっても、ネズヴァルやクラールのような視点を通して眺めてみれば、「新しい意味」が宿り、「詩」が生まれるということでもある。読者がみずからの都市をいつもとは異なった形で眺めるとき、ひとりの読者もまた詩人となることを、かれらの詩は教えてくれているのだ。

初出:『現代詩手帖』2017年3月号。

付記:ペトル・クラール氏は、2020年6月17日、プラハで亡くなった。

(C) Kenichi Abe.

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