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無償化は無料ではなく、各個人の税負担という認識で

政治において、無償化を政策として掲げることはよくある気がする。

子育て世代の負担を減らすための無償化。

母子家庭に対するサービス無償化。

幼児教育・保育の無償化。

学校教育の無償化。

高速道路料金の無償化。

老人ホームの無償化。

イメージとして浮かび上がるのは、無料にすることでタダでサービスが受けられるということ。

その考えでいると、できるだけ多くのもので無償化であって欲しいと考えてしまうかもしれない。

無償であることによって、自分の家計や財布が助かり、余裕を取り戻すことが出来る。

とはいえ、本当に無償は「無償」なのか。

個人的にはそれは違う様に感じている。

無償化とはいったものの、正直なところ無償化でないと考えている。






現在の仕組みでは無償化はあくまでも政府が代わりにお金を払って負担をするという事。

その政府のお金は、多くは税金で賄っている。

そしてその税金は、元はと言えば働いている人たちや消費税など、あらゆるものから差し引かれているもの。

もしかしたら政府に信用がある程度ある限りは、お金を擦ってそこに入れることもあるかもしれない。

だが、ほとんどの無償については元をただしていくと、それは自分たちが払った色々な税金で賄われていることがほとんど。

無料で使っているものは誰かの負担で成立、場合によっては回り回って実は自分自身が他の人より多くの負担をしている可能性だってある。









そもそも真の意味での無償化とは本当に成立するのか。

真の意味で学校を無償化したら、先生や校舎の管理は全て給与が払われないというもの。

無償化で医師の診察を受けられることは、医師は無給で働いているということ。

無償化で高速道路が使われるようになったら、道路の補修などをしている人は無給でサービスとして行っていることになる。

上記のことがAIに任せられれば無償と考えることもできるかもしれないが、そのAIの制御や電気エネルギー代金、管理をする人に対する対価が無給といえるのだろうか。

仮に全てがボランティアで回っているならば、確かに無償化は成立するかもしれない。

でも、現在の状態ではそのサービスに対して対価を払わないで自由に使うことは、フリーライダーの他ならない。

他の人の仕事に対してまわりまわって税金という形で対価が支払われているということを、改めて認識しておきたい。

誰かの仕事とその対価によって、社会が世界が作られている。

多くの人が頑張って、社会を回している。

だからこそ、「無償化」について、その言葉と現実の捉え方はしっかりと考えたほうが良い気がする。

それは本当に無償化なのか。







もしかしたら、お金が完全に無くなるような時代に入ったら、無償化は成立するかもしれない。

お金という概念が消えて、各個人が普段と同じような行動を取っていれば、ある意味お金は必要ない。

働く人は他の人の役に立つ働きをして、別の人から異なるサービス・モノをもらって消費する。

この状態であれば、形上はお互いがお互いの問題を解決し合うことでうまく回る理想の社会状態であって、完全に無償が成立している状態。

ただ、現在のように多くの人々が「今だけ・金だけ・自分だけ」状態に陥っている限りは、この状態になるのはまだまだ先。

果たしていつくらいにこのくらいのレベルに人類は行きつくのだろうか。

100年後か、1000年後か、10000年後かもっと先か。











ありがとうございました。

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